「──ほぅ、与利(あたり)んは見掛けによらず物知りなんだな」
そういって目の前にいる少女が、年背格好に似合わない特徴的な口調で感心した。顎の下に手をあてて頷く姿は、一見するとふざけているようにも見える。
「い、いや、そんなことないよ」
が、彼女にすれば極自然な動作だ、と言うことに俺は最近気が付いた。
今日という日は俺、世渡与利(せと あたり)にとって人生における正念場だ。
そう、
──きょ、今日こそ……、津浦(つうら)に俺のき、き、き、気持ちを……。
始まりはそう、一年前のちょうど今ぐらいの季節だった。
ある日、俺は憂鬱な気分で校舎の中をブラブラ散歩していた。
別に理由なんてなかった。ただ、いつもめろんめろん叫んでいる悪友が神宮寺に呼び出されたせいで予定がぽっかりあいてしまっただけだ。
この埋め合わせをどうしてもらおうかと考えながら歩いていると、気付けば校庭を一望できる渡り廊下にいた。
冬の空は、いまにも雪が降り出しそうなほど暗く厚い雲に覆われていた。
冬の大地は、寒気を含んだ風が砂を巻き上げ小さな竜巻をつくっていた。
そのまま視線をずらし校庭の方に目を向けると、寒空のなか屋外運動部の生徒達が爽やかな汗を流しながら部活動をやって、
ゴンッ!
俺が冬の学園についてわざわざナレーションをしていると、鳩尾(みぞおち)に突然黄色いボールが深く、鋭く、容赦なく食い込んだ。
「あっ!……あちゃー」
そして、その黄色いテニスボールを放った──三ヶ月もかけてヒグマでさえも一撃で仕留める必殺スマッシュを生み出した──張本人は顔を手で覆い、『私が犯人です』と言わんばかりの分かりやすい格好で立っていた。
しかし、俺にはその生徒が霞んでいてよく見えなかった。肺にためられていた空気は、あまりの衝撃にすべて逃げ出した。両脚から力が抜け、支えを失った体は重力に傾ぐ。意識が急速に薄らいでゆく。
その時、先ほどまで空を覆い尽していた雲に僅かな隙間が生まれた。冬の太陽がスリットから顔を出す。
沈みゆく景色のなかで俺が最後に目にしたものは、天から差す日光を浴びながら立つ美しい人影だった。
それを最後に俺は地に倒れた。
ボールを放った生徒、その生徒こそ、津浦波々その人だった。
──そう、あれがすべての始まりだった。
運命的な事件があった次の年、俺は初めて学園に感謝した。学年がひとつ上がり、クラスの初顔合わせで見付けた顔は紛れもない、津浦波々その人だった。
それからというもの何度となく告白の機会を得ようと努力したが、天は俺に味方しなかった。
しかしついに今日、俺は新たな一歩を踏み出そうとしている。
緊張から乾く喉を無理矢理潤し、脚が震えそうになるのをじっとこらえた。
額から流れた冷や汗が頬をつたい、両手が汗ばむのを気のせいだと思い込んだ。
急激なアクセルに心臓が胸から飛び出そうになるが、それを必死で抑え込む。
よし、……準備はオーケー。
──いまこそ好機だ。
「どうした、与利ん?わたしの顔にガムでもついているのか?」
靴ならまだしも顔にガムはつかないだろうな。
と、そこまで考えて自分が完全に告白の機会を逃していたことに気付いた。
それどころか、自分が津浦の顔をじっと見つめていたことに初めて気付いた。
改めてそのことを指摘されると、無性に恥ずかしくなり目も合わせられなくなってしまう。
もう告白どころではない。
「べ、別に……」
「『別に』何なのだ?」
それなのに津浦は食い付いて放さない。無理矢理視界に入ろうと俺が顔を向ける方向へ体を滑り込ませていく。
「与利ん、『別に』とは何なのだ!?」
意地でも視界に入ろうとする津浦と、意地でも視線を合わせまいとする俺。
それが単なる負けず嫌いの勝負になるまでに、そう時間は必要なかった。
俺が左を向けば津浦は右に移動し、俺が右を向けば津浦は左に移動する。
そんなやりとりを数十回繰り返したとき、左の方から小さな悲鳴が聴こえた。反射的に振り返り──そうになるが慌てて踏み止まる。
──これは罠だ。
直感的にそう思うや否やギリギリのところで軌道を変更した。多少無理な動きになってしまったが、間一髪のところで間に合った、
はずだった。
しかし目の前にあったのは、俺をじっと見つめる津浦の顔だった。
「──かかったな、与利ん」
そういって津浦は顔を綻ばせ笑う。まるで非の打ち所がない笑顔だった。
か、かわいい……。
心からそう思った。目と鼻の先にある津浦の顔は、まだあどけなさが残るもののどこか大人びて、
……ちょっと待てよ。
──"目と鼻の先"?
「うっ、うわぁ!」
その言葉の意味を理解したとき、俺は反射的に身を引いてしまい、
「──イテッ!」
無様に尻餅をついてしまった。
「その驚きようは何だ、与利ん。やはりわたしの顔に何かついていたのだろう!」
さらにそれを曲解した津浦が俺を追い詰める。
じわりじわりと迫り来る姿は、獲物を前に飛びかかる寸前の猫のようだった。
差し詰め俺はネズミかスズメか。
そう思うと少しおかしくもなるのだが、いまはとても笑っていられるような状況ではなかった。
「与利んよ、……もう逃げられないぞ」
そういって津浦は、なぜか舌舐めずりをしている。
最早腹を決めないといけない時なのだろう。
俺は覚悟を決めた。
地面に手をつき立ち上がると、津浦を真っ正面から見つめる。
緊張はしていたが、不思議と冷静でいられた。
「──俺は、」
「与利んは?」
「つ、津浦のことが、」
「わたしのことが?」
「ずっと前から、」
「ずっと前から?」
「す、」
「酢?」
「す、」
「煤?」
「す……、」
「すすす?」
頑張れ俺、ゴールは目の前だ。
「……す」
しかし、俺の覚悟は別の大きな声で無惨にもかき消された。
「──あら、暴力女先輩ではありませんか!」
そういって俺と津浦の目の前に現れたのは、冬物のセーターにマフラー、それと矛盾するような校則ギリギリを少しオーバーしてしまったスカートをはいた少女、学園の令嬢として名高い美作玲(みまさか れい)だった。
「なっ……。わたしに何の用だ、泥棒猫」
売り言葉に買い言葉とはよく言ったものだが、俺の前で睨み合う二人の姿は滑稽というよりも『畏怖そのもの』の塊に思えた。
「別に貴女に用があるわけではなくてよ。ただ……、」
「ただ何なのだ?」
「わたくしの凛先輩が、」
「"わたくしの"が余分だが、凛に何かあったのか!?」
「ええ、少し……」
「す、少し何なのだ!?はっきりと言うのだ!」
「──行方不明なんですよ」
そう美作に助け舟を出したのは、
──えーっと、確か……、
親が資産家との噂が流れる学園の御曹司として名高い芹川湊(せりかわ みなと)だった。
──な、なんでこの二人がここに?
そんな俺の思いをよそに芹川は言葉を続ける。
「数十分前に、凛さんが病院から血相を変えて飛び出していきました。ご実家の方で何かあったのかと思い特に気にせずにいましたが、先ほど凛さんのご実家から美作さんの方に連絡がありまして、」
「まだ帰られていないそうなのです……。だから、わたくしたちは凛先輩がよく立ち寄られる場所を見て回っていますの」
そういって美作が締め括った。
「……」
それに対し、津浦はただじっと黙していた。顎の下に手をあてて考える姿は、一見するとふざけているようにも見える。
「何か思い当たる節でもありますの?」
が、彼女にすれば極自然な動作だ、と言うことは周知の事実のようだった。
「──つまり」
津浦の顔は、何かを確信したかのような顔だった。
「凛は寒さに震えながら路頭をさ迷っているわけだな!?」
暫しの沈黙が流れる。
その発言に対し、呆れ顔の少女と苦笑いを浮かべる少年。そして吹き出しそうになるのを必死に堪える俺。
「あ、貴女という人は……。いったい普段は何を考えていらっしゃるのかとても興味をそそられますわ」
代表して呆れ顔の美作がこたえた。
しかし、そのことをまったく意に介さない様子で津浦は言葉を紡ぐ。
「なら何故このような場所で立ち止まっているのだ!一刻も早く凛を暗闇から救わなくてはならないだろ!」
もう誰も声をあげるものはいなかった。
かわりに出たのは大きな溜め息。その溜め息とともに溢れる「見付けなければ良かったですわね」という言葉。
ま、まあとにかく、告白も結果としては失敗したわけだし、下手に首を突っ込まずに退散するかな。
とか俺が考えていると、目の前には不敵な笑みを浮かべる津浦の顔があった。
そして少女は言った。
「もちろん、与利んも手伝ってくれるな!」
俺に選択肢などなかった。
※
──見つからない。
これで四ヶ所目だった。
そこにいる保証なんてどこにもないし、逆にいるほうがおかしいということは分かってはいるものの、やはり落胆してしまう。
病院を飛び出してからどれくらい走っただろうか。
──分からない。
ただ、あのときに感じた深い絶望だけが私を動かしていた。
「──おい、」
その時、不意に背後から声がかかった。
私はこの声を知っている。
それどころか、
私はこの声を探していた。
振り返った先にいた人物は、果たして全身黒ずくめの男だった。
「……あなたに聞きたいことがあるの」
目の前の男は私の返事に一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにいつものような無表情に戻った。
「……何だ?」
「──あなたが綾風先輩を…あ、あんな姿にしたの?」
※
──見つからない。
ここまでくれば大丈夫だ。
しかし、私はそこでふと疑問を感じた。
──私は何から逃げていたのだろう。
と。
心臓の鼓動が落ち着きを取り戻し始めると、先ほどあったことを冷静に思い出せるようになってきた。
──そう、あの男の言葉を聞いたとき、私の絶望はより深く黒いものになった。
何もかもが嫌になった。
何もかもが信じられなくなった。
──だから逃げた。
それは、自分を守るためのものだったかもしれないし、結果としてそれが私を追い詰めているといっても間違いではないだろう。
ふぅ、と溜め息をつく。もう少し冷静になりたかった。
──そういえばここはどこだろう。
心を閉ざしたまま走り続け、行き着いた先は見知らぬ通り。目抜き通りからはそう離れてないはずだが、喧騒がまるで聞こえない無音地帯。
そのことを確認したとき、落ち着いたはずの心臓が再び活発に動き出す。不安が心を蝕んでゆく。
その暗闇から逃れるように、とにかく人気の多い通りに出ようと歩を進めると、不意に背後から足音が聞こえた。
心臓の鼓動が早くなる。
遠くから耳鳴りがする。
逃げ出したいのに、足は地面に縫い付けられたかのように動かなかった。
足音が大きくなる。
「──へぇー、俺たちの縄張りにご馳走が迷いこんできたようだな」
恐る恐る振り返ると、目の前にいたのは数人の男。皆一様に不健康そうな顔付きをしている。
「り、リーダー!こいつ彩桜のセーフクっすよ!」
一番端っこにいるガリガリが男たちの真ん中にいる者──相撲の力士のような体型をした男──に声をかけた。
それを聞いて、男たちの中から歓声があがる。
「さあて、俺たちの縄張りに入ったからには、通行料を払ってもらわないといけないんだがよ、」
そういって一人の男がヘラヘラ笑いながら近付いてきた。
「金がないんなら体で払ってくれてもいいんだぜ」
そういって汚い手をのばしてくる。
「──イヤッ!」
生理的嫌悪感から反射的に払い除けると、男は顔色を一瞬でかえ殴りかかってきた。
腹部に鋭い痛みが走る。
「ふん、このアマが……」
両足から力が抜け地に臥せる。
「──」
もう男が何を言っているのか分からなかった。
分かりたくもなかった。
意識が薄らいでいくせいか、涙が溢れ出てしまったせいか、全ての景色は空白に溶け、
やがて暗闇が訪れた。