──目の前に女がいた。
特徴的な髪型と豊満な肉体が印象的な女だ。
その女は、長い金髪を束ねることなく風に流し、無機質な瞳でこちらを見ていた。その瞳は、悲しみも、怒りも、苦しみも、悦びも、何も映してはいなかった。
ただ、辺り一面焦土と化したこの世界で、その女はあまりにも鮮やかだった。まるで景色から切り取られたかのように。
その時、不意にヴィジョンが歪んだ。
すると、次の瞬間には、距離をおいて対峙していたはずの女の顔が目前に迫り、力強く抱き締められていた。脳にある危険を知らせる針が勢いよくレッドゾーンに突入する。このままでは危ない。本能的にそう感じた。自由を求め足掻く。しかし女の抱擁は予想以上に強くて、容易に抜け出すことができない。暫くすると両足から不意に力が抜け、自分の足で体重を支えられないことに気付いた。自分の腕で相手に触れられないことに気付いた。自分の口から声が出ないことに気付いた。自分の胸が、ゆっくりと動きを止めようとしていることに気付いた。
そこにある確なものを失おうとしていた。
そして、──俺は死んだ。
※
簡単なトラップだった。
恐らくデータカードに細工でもしてこちらの視覚に対する情報にラグを起こしたのだろう。しかしそのことに気付いた者は一人としていなかった。まんまと罠にハマった自分は、結局相手の白星を増やしただけだった。例え姑息な手段を用いようとも勝者は勝者だ。
今年の始めに、大手ゲーム会社が実験的に都心のゲームセンターに導入したヴァーチャルアクションゲーム。既に導入から半年ほど経つが、実質的な利用者は極少数にとどまった。理由は単純、"リアル"過ぎたのだ。痛みも、苦しみも、全て現実に味わうように体は感じる。何もかも似せて、本物よりも本物に近かった。ただ、瞳の色は、現実のそれとは似ても似つかない鈍色のモノだった。
──それにしても。そう言って、新たな白星を増やそうと対戦相手を探している男を見た。あんな男に間接的とはいえ抱き締められたと思うと吐気がした。
その時、携帯が小刻に振動した。受信ボックスを開くと、数十件の陰湿なサイトからのメールの他に佐久間からメールが入っていた。ガキの頃から悪友として付き合ってきた佐久間。彼は、高校までの義務教育を終えてから重い犯罪に手を染めるようになった。重い犯罪といっても殺人や強盗の類ではない。彼の得意とするものは女性専門の監禁や恐喝だ。そんな佐久間からメールが届くのは、決まって彼が新しい"獲物"を見つけた時だった。
メールを開くと、予想通り新しい獲物の報告だった。携帯の画面に映るそれは、数字が並べられただけの本文と、この辺りで有名な私立高校の制服に身を包む少女の卑猥な写真だった。
普段なら金の無さそうな獲物には興味はないのだが、今回は違った。佐久間に返信する。本文にはただ一言、"買う"とだけ書いた。
何かが、その少女の発する何かが、俺の行動を駆り立てた。
※
私が事件に気付いたのは登校してすぐだった。普段通り下駄箱で靴を履きかえると、見慣れない手紙に気付いた。大きさはハガキより少し大きいくらいだろうか。白いそれが何なのか初めは見当もつかなかったが、後になって正体を知ることになった。宛名も差出人もないそれはまさしく、いまとなっては見ることのない"ラブレター"だった。
ラブレターは意中の相手に思いを伝える手段として古来より形を変えて受け継がれてきたものである。数十年前に携帯電話普及率が99%になってからは絶滅したものと思われていた代物だ。
もちろん、現在ではほとんど使われなくなり、受け取った凛も実物を見たのは初めてだった。
『天崎 凛』(あまさき りん)は普通の高校生だ。平凡な家庭に次女として生まれ、特に重い病に倒れることもなく生きてきた。勉強は苦手だったが、クラスで下位にならぬよう努力し、部活にも積極的に参加した。その甲斐あって高校は地域でも有名な私立高校に進学することができた。高校でも環境に恵まれ、信頼出来る友人や尊敬する先輩、そして可愛い後輩が出来た。いたって普通の女子高生だった。
しかし、彼女に事件が起きた。朝入手した手紙を親友の波々(なみは)と開けてみると、そこには思わず恥ずかしくなるような言葉が所狭しと書かれていた。そして便箋十枚にも及ぶ力作の最後には、達筆で"芹川湊(せりかわ みなと)"と書かれていた。
※
先生が黒板に白墨で図を描いていく。滑らかな曲線が意味あるものになり、そしてまた消されていくのをただ眺めていた。
あの後、いつの間にか集まっていたギャラリーに散々黄色い声を浴びせられていた所を、そういう話にはめっぽう疎い担任の『神宮寺』(じんぐうじ)に助けられた。
それにしても予想外だった。芹川湊と言えば、校内で知らぬ者はないとまで言われる有名人だ。女子だけでなく男子からもそれなりに人気があり、先生への受けもいい。噂ではとある資産家の息子という説もあるくらいだ。そんな芹川君が何故自分みたいなどこにでもいそうな女子にラブレターを送ってきたのか全く見当がつかない。
でも、今はそれでもよかった。ラブレターには確かに自分の名前と芹川君の文字、そして、今度の休みに一緒に出かけようという、デートのお誘いが書かれていたのだ。恥ずかしながら、凛はいままでデートなんてしたことがなかった。そもそも、そんな相手もいなかった。一体どんな話をして、どんな場所へ行くのだろう。それよりもまずは、芹川君に返事を返さないといけない。そんなことを考えていると、凛は授業中にも関わらず、思わず薄ら笑いを浮かべてしまった。しかし、今の彼女にとって、周囲の冷たい視線や先生の心配した顔、忍び寄る黒い陰の存在などは、まるで眼中に無かった。
※
──夕闇に街が包まれていく。
つい先ほどまで人気の多かった街の中心部も、人通りがまばらになってきた。子ども達が無邪気に走り回っていた公園も、静寂に包まれ始めた。立ち並ぶ家々からは、夕飯の匂いが鼻を擽った。山の境界に沈む夕日が、どこか言いようのない寂しさをかきたてた。
──私はこの街が好きだ。
ここに住む人も、前時代的な街並みも、全て好きだ。いろいろな街が再開発によりあるべき姿を失っていくなかで、この街はいつでも、いつまでも変わらないままでいてくれる。そんなことを、沈む夕日を見ながらぼんやりと考えることも好きだ。
──しかし、今の私にとって、目の前の素晴らしい風景や、沈む夕日などは、まるで眼中に無かった。
そんな安息の時すらも苦痛に感じてしまう。安らぎさえ、同じ時に存在することが忌まわしい。
先ほどまで普通の時を過ごしていた私は、先ほど普通の時を過ごしていた私のことをどこか遠い存在のように感じた。物事に気付くのは、いつも取り返しがつかなくなってから。歯車が狂い始め、音を立てずに悲鳴をあげていた。無理に動かせば、いとも簡単に壊れてしまう。そんなバランス。そのバランスを崩したのはあの男だった。
──奴は夕闇と共に現れた。
学校が終わって放課後、すぐに芹川君に返事を返しに教室へ向かった。しかし、芹川君は急用で早退したらしく教室にはいなかった。仕方ないので学校を出ると、正門付近に不審な男が立っていた。顔がフードに隠れよく見えないが、あまり関わりたくないような風貌だった。学校を出るには正門を通らなくてはいけないので、男と目を合わせないように俯きながら通ると男が声を発した。
「──お前が『天崎凛』か?」
背筋に寒気が走った。答えてはいけない、いや、肯定してはいけない気がした。
「……違います」
声がかすれていた。心臓の高鳴りが早くなった。この場から逃げ出したいのに、足はまるで地面に縫い付けられたかのように動かなかった。
実際にはほんの数分だろうか、永遠にも思える静寂を男が破った。
「──なら、こんな女を見てないか」
そういって男は一枚の写真を取り出した。そこには、自分自身の卑猥な姿が写し出されていた。