Spearmintとその香り
『Another story』
この物語は、『Spearmintとその香り』の登場人物たちが紡ぎ出す、それぞれの過去、現在、及び未来のいずれかに該当する物語である。キャラクターの知られざる一面を垣間見て頂きたい。
〜From eyes of Ayakaze〜
〜Loveless Guy〜
―――私の名前は、『綾風 渚』(あやかぜ なぎさ)。でも、そんなことはどうだっていいのかもしれない。名前なんて、所詮は記号なのだ。そんなもので、個体を表す事はできない。…もし、できるとしても、それはとてもナンセンスな事だ。
―――でも、一つ。たった一つだけ、名前という概念があってよかったと思う事がある。
…私は、自分の名前が好きなのだ。別に、これはナルシズムとか、そういう類いのことではない。
この名前は、何だか遠い―――そう、遥か遠くの、顔を見る事すら出来ない世界の住人と私を繋げてくれているような…そんな気がするのだ。
その感覚が、私を強くしてくれる。優しくしてくれる。
私と同じ…もしくは、私と似た名前を持つ、遥か遠くの世界の住人のように。
―――幼い頃、私がこの町に引っ越してきたのは、父と母が離婚したせいだった。
父方に引き取られることになった私は、父がカフェを営むこの町に居場所を与えられた。
…そして、この町で育つうちに、私は私自身の存在価値を見出した。
それを見出す事はとても難しく、中にはそれを見出だせないまま一生を終える者もいる。
私は、果報者だ。
…でも―――――――――
「―――――ぎさ……渚…!」
「へっ!?あ…ああ、ごめんなさい、お父さん」
「コーヒーが入ってるぞ。思い詰めた顔をして…悩み相談はいつでも無料で受け付けているから、遠慮しないでくれよ?」
「悩みなんて…ないわ。多分、だけど…」
無意識の内に、不確定な言葉が尻についてしまう。
そう、悩みなど無いはずなのだ。私は、この生活、そして、この環境に満足している。
これより上は望めないだろうと思うほどに。
…なのに。それなのに、何故かそんな生活の中で、恐怖にも似た不安感を覚えてしまうのだ。
もしかしたら、この生活が壊れてしまう事が恐いのかもしれない。
―――私は、臆病になってしまったのだろう。それは、あの男と関わってしまったからだろうか?
―――斜に構える癖を持つあの男と、関係を持ってしまったからだろうか?
正直、いくら考えても答えは出そうにない。
―――
―――――
―――――――――
「―――何があっても、お前は俺が護ってやるからな」
「―――寒いだろ?ほら、こっちへ来い」
「―――今日は、俺の家に来て欲しい」
「―――遊びだよ、遊び。若気の至りってヤツだ」
「―――お互い、忘れようぜ?後味の悪い…」
「―――お前、鬱陶しいんだよ。未練がましい女は嫌われるぜ?」
―――――――――
―――――
―――
…あの男が私に掛けたどの言葉も、全部嘘だった。偽りだった。
男なんて、みんな本質は同じ。イヤらしいことを考えるだけの、能の無いケダモノ。
いくら言葉を重ねても、思いを交わしても、ケダモノ相手に通用するはずがない。
「―――私は…イヤな女なのかしら……?」
そっと独り言を呟く。
父は、私の零したその言葉をあえて拾わずに、無言でその場から立ち去っていった。
窓から見える景色は移り変わってゆくのに…そして、季節は流れるのに、私の心は『あの時』のまま凍り付いている。
―――私は、再び歩き出す事が出来るのだろうか?
それは、誰にもわからないことだ。もちろん、自分にも―――そして、自分よりも『綾風 渚』という人間を知っているであろう、父にも。
私はただ、前だけを見詰めていたい。もう、迷いたくない。
…私はいつの間にか、立ち上がっていた。
私は、何をしたいのだろう?私に、何が出来るのだろう?
今はまだ、わからなくてもいい。
だから―――
ふと、机の上に眼をやる。
机の上には、一杯のコーヒーがあるだけだ。
そのコーヒーから立ち昇る湯気は弱々しく、今にも掻き消えてしまいそうだった。
FIN
このテキストは、氷幕が作成しました。