甘い日常


 まるで日に焼けない肌は白いを通り越して青白い。
 羽織っている法衣は黒く、余計にその白さを浮きだたせている。
「判決を読み上げます」
 その声は淡々と判決を下していく。凛と響き、聞く者に有無を言わせない力を持っていた。
 丁寧なガラス細工を思わせる瞳は冷酷に細められており、見る者を委縮させていた。
 裁判が終われば、軽い足取りでユーリ・ペトロフはその場を後にする。
 ふわりと髪が舞い、風を切って歩いていく。
 誰もが口にはしないし、表には出てこないが、ユーリのファンは確実にいる。
 どこか暗い影のある美貌に心を奪われたものは一人二人じゃない。
 カツカツと足音を響かせながら、ユーリは執務室に戻る。
 闇を切り取ってきたかのような法衣を脱ぎ、しっかりとハンガーにかける。
 クリーニングへ出すためのラックへかけると、意匠を凝らした彼の執務机の椅子に腰を下ろす。
 これからまだ書類をまとめなければならないのだ。
 休止状態にしていたPCを立ち上げ、淡々と仕事をこなしていく。
 ある程度まとめ終わったところで、ふと視線を時計に向けるとすでに就業時間は過ぎていた。
 一瞬どうしようかと悩んで、きりのいいところまで行っているのだから、とユーリは今日はもう仕事を切り上げることにした。
 PCを終了させ、コートを羽織って鞄をとる。
 いつものように淡々と準備を済ませると、そのまま職場を後にする。
 すっかり日の落ちたシュテルンビルトの街並みは、どこか薄ら寒い。
 平和なようで平和ではない。
 ヒーローが街を守ってくれてはいるが、いつもどこかで何かが起きている。
 だが、それでも街は日常を繰り返している。それが普通、なのだ。
 ユーリは鞄を持っていないほうの手で、自分の肩を抱くように手を回すが、すぐに何かを吹っ切るように手を下ろすとそのまま帰路に着く。
 ジャスティスタワーからゴールドステージの自宅まではそう遠くない。ゆっくりと歩いて帰る。
 いつもの日常だ。
 それが不意に
「こんばんは! 偶然だね、実に偶然だ」
 背中から聞きなれた大きな声が聞こえてきて、ユーリはゆっくりと振り返る。その顔が心なしか緩んでいることに気づく人物は少ない。
「こんばんは、キース」
 秋を通り過ぎて冬に差し掛かったこの季節、スカイハイことキース・グッドマンは愛犬のジョンを連れて、コートを着てはいたが少し寒そうにしていた。
 心なしかキースの顔がいつもより青白い気がする。
 ユーリの方からキースに近づいていくと、そっとしなやかな手をキースの頬へと伸ばす。
 思った通り、かなり冷え切っている。きっと、ずっと待っていたのだろう。
「ユーリの手は暖かいな。すごく暖かい」
 にこっとキースは笑うと、まっすぐにユーリを見つめる。
 視線を受け止めて、ユーリはしっかりとキースを見つめ返す。そこに漂うのは、甘やかな空気。
「散歩、ですか?」
 待っていたことは分かっているが、だが、あえてそんなことは気づいていないふりをして問いかける。
「ああ! 星がきれいだったから」
 そう答えて、ちらりとキースは視線を空にやる。
 つられてユーリも視線を上に向けると、確かに夜空には星が瞬いている。満天の、とは言えないが、それでも暗闇に光る星はなんとなく心に安らぎを与えてくれる。
「そう、ですね」
「だろう? きれいだ。実にきれいだ」
 ユーリはキースの頬に触れていた手を下ろすと、何のためらいもなくキースの手に重ねる。
 そして
「でも、今日は冷えるでしょう? 私の家で暖まっていくといい」
 ユーリがうっすらと笑みを浮かべながらの言葉に、キースは笑顔で頷いた。もし犬だったなら、思いっきりしっぽを振って喜びを表現していただろう。
 目に見えて分かるほど、キースは嬉しそうに笑い、そしてジョンの頭をなでてやる。
 ジョンもユーリの言葉が分かったのか、ワン、と元気のいい声で一鳴きした。
 逢うのは久しぶりだった。
 キースは優等生ヒーローなので、どこかの誰かのように賠償請求の場に呼ばれることもない。同じ建物内にいることは多いが、逢うことは少ない。
 お互い忙しくて、最近逢えていなかった。もう一カ月ほど逢っていないせいで、キースは焦れてずっとユーリが出てくるのをジャスティスタワーの近くで隠れて待っていたのだろう。
 くすりと笑うと、そのままゆっくりとユーリの自宅へ二人と一匹は歩いていく。




 ユーリの自宅に着くと、ジョンは寒さから解放された嬉しさか、勢い込んでリビングへと駆け込んでいった。
「ジョン! 待つんだ、待ちなさい!」
 キースの制止の言葉など聞く耳もなく、ジョンはリビングの隅に設置されたクッションがうずたかく積まれた中へと飛び込んで行く。
 ジョンが来る時の定位置だ。ユーリがわざわざジョンのために常にクッションをリビングの隅に積み上げている。
 ジョンの後を追っていくキースを見ながら、ユーリは扉に鍵をかけてコートを脱いでラックにかける。
 ゆっくりとした動きでリビングに入ると、ジョンはいつもの場所で暖をとるようにクッションに埋もれて満足そうだった。
 キースはと言えば、そんなジョンを見て、どこか楽しそうに笑っていた。
「さあ、冷えているでしょう。先にシャワーでも浴びていてください」
「いや、だが…」
 ユーリがキースを気遣えば、キースはあわあわとしながら首を横に振ったり、ひねったり、悩むような表情を浮かべたりしている。
 耐えきれなくなってユーリがくすりと笑うと、キースはがっくりと肩を落としてしまう。
「ほら。貴方はこんなにも冷たい。風邪をひいてしまう前に」
 法廷でのユーリはひどく冷たい印象を与えるが、こうしているとどこか温かい。表情の変化には乏しいが、キースに対しては常に気遣うような態度をとる。
 まだどこか迷っているようなキースを無理やりにシャワーへと追い立てると、バスタオルと部屋着とを用意して脱衣スペースに置いておく。
 こうした関係になってもうずいぶんと経つ。
 何度もお互いの家を行き来するうちに、こうして相手のパジャマをしっかりと常備しておくまでになった。
 そしてジョンのえさも。
 ユーリは先にジョンの夕食を用意してやると、それをクッションのそばに置いてやる。
 すると、クッションに埋もれていたジョンはもそもそと這い出てきて、感謝するようにユーリを見上げてからがつがつと餌をむさぼり始める。
 それを温かく見守りながら、ユーリはスーツからラフな格好に着替えてエプロンをつける。
 きっと腹ペコのキースのために、簡単な夕食を用意する。パスタとサラダ。そして冷蔵庫に入れっぱなしになっていた貰いもののワイン。
 一人暮らしは短くない。手早く料理を済ませてテーブルに並べるころ、キースはほかほかと湯気を立てながら、タオルを首から下げて出てきた。
「ちょうど出来たところです。一緒に食べましょう」
「ありがとう。本当にありがとう」
 キースは少し照れたように笑うと、席について一緒に夕食を食べる。
 他愛もない話をしながら夕食を食べ終えると、ユーリも軽くシャワーを浴びる。
 パジャマに着替えて寝室に向かえば、大きめのベッドでキースは先に寝ていた。
 きっと疲れていたのだろう。
 そんなキースが愛おしくて、ユーリは頬を緩める。
 まっすぐで少し人とずれているけれども、優しくて清廉な人柄にユーリは惹かれた。
 自分の過去を正直には話せないけれど、キースはまっすぐにユーリを見てくれる。
 罪悪感にさいなまれることもあるけれど、ただ今はこうして幸せに浸りたかった。まっすぐに誰かと向き合いたい。
 ユーリはぎしりと音を立ててベッドに腰掛けると、その衝撃でキースはうっすらと瞳を開ける。
「ああ…起こしてしまいま…っ…」
 全てを言い終わる前に、ぐいっとキースに身体を押し倒され、抱え込まれてしまう。
「ユーリ…きれいだ…実にきれいだ…」
 むにゃむにゃと呟く言葉に、まだキースが寝ぼけているらしいとユーリは悟る。
 仕方がない、とキースは肩をすくめると、青白い手を伸ばしてキースの背中にまわす。
 こんな日がずっとずっと続けばいいのに。
 そう思いながら、ユーリは目を閉じる。