ジョン万次郎の挑戦・感謝・貢献の生きざま


                         
晩年のジョン万次郎(資料:東京都公文書館)

今を遡ること158年。安政7年(1860)1月19日、江戸幕府の
軍艦・威臨丸〔かんりんまる)がアメリカに向け浦賀を出港しました。

安政5年(1858)6月に締結した日米修好通商条約の批准書交換のため、
派遣使節一行が乗船する米国軍艦ポ-ハタン号の「護衛」という名目で、
日本軍艦として初めて太平洋を渡りました。

威臨丸には、勝海舟や福沢諭吉が乗船していたことはよく知られて
いますが、幕末維新期に多くの人々に影響を与えたジョン万次郎こと
中浜万次郎も通訳として乗り込んでいました。

土佐の漁師であった万次郎は、天保12年(1841)14才の時に
漁で遭難、無人島に漂着後、アメリカの捕鯨船に救助され、アメリカに
渡ります。船長ホイットフィールドの養子となった万次郎は、
字校で英語・数字・測量・航海術・造船技術などを字び、
卒業後は捕鯨船の乗組員として働きました。

嘉永4年(1850)10年ぶりに帰国を果たすと、翌嘉永5年(1852)
土佐藩の藩校教授館に出仕し、嘉永6年(1853)には
黒船来航に際し、アメリカの情報を必要としていた幕府に招聘され
直参旗本に取り立てられ、その後は、幕府通弁、軍艦教授所教授などを
務めました。

明治維新後は、明治2年(1869)に開成字校(現東京大字)の
二等教授(官制改正後は中博士)となり、明治3年(1870)には
普仏戦争視察団の一員としてヨーロッパへ派遣され、帰途アメリカで
ホイットフィールドと再会を果たしました。

しかし、帰国後の明治4年(1871)脳溢血で倒れ、程なく快復するも、
その後は官途につくこともなく静かな余生を送り、明治31年(1898)、
71才で没しました。

そんな万次郎の晩年に関する貰料が、東京府文書に残されています。

明治13年(1880)に、「鯨漁を主とし廣く海産物」を取り扱う会社設立を
届け出た書頬です。

明治初期「開洋社」を設立し、洋式捕鯨を試み、後に東京・大阪で
水産字校を創立するなど、日本の水産界発展に尽くした藤川三渓も、
共に発起人として名を連ねています。

設立届には、「海業会社定款並申合規則」 (定款39条、規則25条}を
記した印刷物が添付されており、その冒頭には、世界中で最も波濤が
穏やかで物産が豊富なのは、「太平、亜細亜の両洋」であり、
日本はその間に位置するにもかかわらず、海産事業が振るわないため
「外人の手に奪いさらるる」ことが少なくない。そこで、同志協力して
社を創立し、 「先ず海物中最も大利ある、最も忽諸すべからざる漁猟、
即ち捕鯨の事を第一着手となし、業に熟し、利を積み、漸次、
其他の事業に及ばん」と、会社設立の目的が掲げられています。
 
捕鯨船に救助され、アメリカで修字後は捕鯨船で働き、幕末には
幕府船一番丸の船長として、小笠原で捕鯨をするなど、捕鯨の
醍醐味を知り尽くした万次郎だからこそ、捕鯨を土台とした
日本の海産事業発展を手掛けずにはいられなかったのでしょう。

         

                        

中浜部落遠望

On January 27, 1841, Manjiro (at the age of 14 yeas old)
and four other men were fishing in an area around Usa
(Shikoku) when they were suddenly caught in a storm.

Their boat was small (8 meters long), and they could
hardly control it in the heavy rain and strong wind.
Not only that but it was sleeting and they carried very
little food and water.

It was a life or death situation while they drifted for six
days.

Usually, the Kuroshio Current flows along the Japanese
shore, but sometimes it takes an unusual path and
flows to the south.

Fortunately, that year the Kuroshio Current travelled
south and carried the fishermen's boat towards
Torishima.

If it were not for this unusual turn of events, Manjiro's
boat would have drifted towards the north in the middle
of a cold sea.

On Torishima Island there is an active volcano that
has erupted twice since the Meiji era.
The island is 8.5 km in circumference with no trees
except for low bushes such as silverberry and
Japanese knotweed.

Manjiro and the other men found a small cave and
decided to make it their temporary living space.

According to historical records, there were about 15
other ships that landed here. Manjiro lived on the island
for 4months, but some stayed for 19 years.

Torishima had an old well and graves, and so the men
thought they too might have to end their lives there.

Manjiro obtained some food and encouraged his
companions.

On Torishima, there were many albatross.
These birds weigh 5-7 Kg and have a wingspan of 2m.

Since Manjiro could not start a fire, he and men
ate raw albatross meat. They had lost all their fishing
eqipment so they could not fish.

Albatross are migrant birds, therefore, they fly away
from the island during the migration season.





On the 143rd day of survival on the island,
the men saw a big ship towards the southeast.

Two boats from the ship were coming towards
the island and found Manjiro and the other men.

At last, all of the castaways were rescued.



当時、日本近海では、常時、100隻近い米国の捕鯨船が操業していた。









The ship that rescued the men was the John Howland,
and the captain's name was William Whitfield.
At the time, he was 37 years old and Manjiro was 14.

This American whaling ship was from New Bedford,
Massachusetts.

The rescued Japanese fishermen had never seen such
a big ship before.

Manjiro took the name John given to him from sailors
on board the ship. He called himself John Mung and also
used this as his signature.

The John Howland continued its voyage with the five
Japanese fishermen found drifting at sea and stopped
in Hawaii.

In those days, Honolulu was a center of information
in the Pacific Area.

Every month, many whaling ships stopped by for supplies
of water, food, and so on.

Captain Whitfield thought there may be a ship going to
China that could drop the boys off some place near Japan.

William Whitfield noticed Manjiro's swift deftness and
strong desire to learn and asked him if he would like
to go to America to receive an education.

Manjiro was very happy and accepted the offer.

Since Manjiro was only 14 it must have taken quite a bit
of courage to leave the other four members and go to
an entirely new counuly.

This decision, however, was a big turning point in his life.
Hle didn't realize that his adventure was Japan's first step
in opening up to foreign countries in the future.





On May 7, 1843, Manjiro (at the age of 16 yeas old)

Manjiro's new home-
NEW BEDFORD AND FAIRHAVEN

After three-and-a-half years away, the John Howland
pranced along the white foam of the sea toward home.

All of her decks had been scrubbed to a shine, every
brass knob buffed, every rail polished, and every flag
on board fluttered from her rigging.

She carried 2,761 barrels of whale oil and nineteen
crew members, including one Japanese boy, for all
anyone knew the first ever to come to America.

Manjiro was sixteen years old; he had been away from
Japan for over two years, three-fourths of it spent
on the sea.

He had scrubbed himself shiny, trimmed his hair, and
polished his boots.

Then he stood at the foremast, waiting for the first
glimpse of the shores of his new home.

Graduated the grade school in two years
(at the age of 17 yeas old)

Manjiro's first education in the United States started here
at the Stone School (the grade School 小学校).

He was the first student from Japan 165 years ago.
Perhaps he learned the ABC song here.
The inside of the Stone School looks like
something from "Little House on the Prairie " which is
familiar to many people.

The Stone School (the grade School 小学校) was close to
Captain Whitfield's home.

When the Captain had been abcent at sea, the neighbors
were very kind to Manjiro, especially the Allen sisters,
Charity,Jane, and Ameria.

Jane gave Manjiro extra lessons in English with Ameria,
and made sure that he was well fed, treating him
like he was their own brother.

Thanks to their kindness, Manjiro was able to graduate
grade school in the Stone School in two years.





After finishing the Stone School ,Manjiro attended Bartlett Academy
where he studied navigation, mathematics, and ocean surveying.

Everything he learned there helped him in his future life.


  高等航海士養成学校、当時全米一と言われた。

17歳になった万次郎は、この地で、アメリカの青年男女と変わりなく、
共に学び、遊び、恋をして、青春を謳歌していました。

そんな万次郎を、ホイットフィールド船長は、じつと、観察していました。
ジェ-ン・アレン先生は、「万次郎は数学が得意で、
総合成績では、クラスのトップ」と言っていました。

ホイットフィールド船長も、捕鯨船での2年間の観察で、
「万次郎は、数学や天体への興味が強い」と感じていました。

ある日、ホイットフィールド船長に
「ニューベッドフォードに、バートレット・アカデミーという
高等航海士養成の専門学校がある。
そこに進学してみないか」 と言われて、万次郎は驚きました。

バートレット・アカデミーは、当時のアメリカでも、
めったには進めないレベルの高い学校だったからです。

当時のアメリカでは、広大な牧草地の領有を決定する測量士や、
捕鯨漁業は基幹産業で、航海士は、
一般的なアメリカ人よりもステージが高い職業でした。

バートレット・アカデミーは、船長の推薦がなければ、
とても進学できない名門校でした。

万次郎は自分に注いでくれるホイットフィールド船長の愛情に
全力で応えていこうと改めて誓うのでした。

バ-トレット・アカデミ-
高等航海士養成学校を首席で卒業


高等数学、測量術、航海術、世界史を中心に、
万次郎は懸命に学びました。

学費の足しになればと、桶屋製作者のハズィーさんのところで
住み込みで働き、そこから学校へ通いました。

学校が終わってからは、毎日、樽つくりの設計、材木削り、
組み立て作業と忙しく働き、睡眠不足から食事が十分に摂れず、
栄養失調になってしまいました。

そこで船長宅に戻り、そこからハズィーさんのところへ通い、
樽作りのノウハウすべてを見事にマスターしたのです。

1884年10月6日、ホイットフィールド船長は、
再び捕鯨船に乗り組むことになりました。奥さんの
アルバティーナは妊娠していたので、船長は、万次郎に
菜園と家畜の世話をよくみるよう頼んで、
「ウィリアム・アンド・エライザ号」に乗って出帆
していきました。

万次郎は、高等航海士養成学校を
首席で卒業しました。

(at the age of 19 yeas old)

当時、文系はハ-バ-ドへ進学するといわれていましたが、
当時のハ-バ-ドは宣教師養成を目的としていました。
ハーバードに法科ができたのは、ずっと後のことでした。

ニューヨークのウエストポイントには、
ジョージ・ワシントンが設立した陸軍士官学校がありましたが、
卒業後は3年の兵役義務がありました。

ノーホークの海軍士官学校も3年の兵役義務がありました。

そこで、技術系のバートレット・アカデミーは、人気が高く、
当時のアメリカ社会で、最高学府として名門といわれていました。

万次郎が、その名門校を首席という成績で卒業したことに
奥さんのアルバティーナは大喜びしました。船長にも、早速、
手紙で知らせてくれました。

このバートレット・アカデミーは、、実習科目が多く、
生徒同士のディスカッションで決定する訓練や、
リーダー・シップの力量が重要視された学校で、
単に勉強ができるからといって、
首席になれるような学校ではありませんでした。

万次郎は、自分の意見を堂々と主張し、弁論大会でも
常にトップクラスの成績でした。

フランクリン号時代
(3年4カ月・1846年5月16日・19歳-1849年8月末・22歳
乗船時、万次郎は乗組員名簿序列で15番目、資格はスチュワード。
しかし、1849年8月末、ニュ-ベッドフォ-ト帰港時には、
序列2番の副船長・一等航海士に昇格していた。

カリフォルニア時代(1849年10月-12月)
                    採金作業
             
70日あまりで、帰国費用約600ドルを稼ぐことができた。

1851年2月3日、
琉球に上陸

(at the age of 24 yeas old)

日本各地での取り調べ
琉球7カ月、薩摩1カ月半、長崎9ケ月、土佐2カ月半もの取り調べ


島津斉彬公に米国事情について説明、開国不可避を訴える。

江戸で幕府高官たちに米国事情について説明、開国不可避を訴える。

万次郎、27歳
江川太郎左衛門邸に逗留、幕府直参に。




1853年7月8日、黒船4隻、浦賀沖に現れる。



万次郎、34歳
咸臨丸に乗り組み、ブルック大尉に協力して、
37日間の冬の北太平洋航海に成功、サンフランシスコに到着。

  

  

   


咸臨丸

激しい暴風雨と荒れ狂う北太平洋に乗り出した
満載排水量625トンの小型帆船軍艦・咸臨丸の操艦で必要であったのは、
的確な状況判断力と、時々刻々変わる状況に対応する適切な帆の操作と
舵取り
であった。咸臨丸は蒸気機関を装備していたが積んでいた石炭は
わずか3日分であった。

人格・判断力・技量・経験に優れたブルック大尉が
艦長として、この小型帆船軍艦・咸臨丸の操艦指揮をしなかったならば、
往路において、咸臨丸は海の藻屑となり、乗組員全員が溺死したと思う。

咸臨丸に乗り組んだ、木村摂津守喜毅、勝麟太郎海舟を始めとして、当時としては、
最も海事について視野広く、海事技能習得に強い意欲を持っていた、いわば、
幕末の幕府海軍のエリート士官たちが、咸臨丸の太平洋横断往路航行から
学び取ったことは、危機的状況においては、家柄とか、身分とか、禄高とか、
面子(メンツ)とか、従来のしきたりは、まったく役にたたないということであったと思う。

そして、何よりも重要なことは、指揮官の的確なリーダーシップであることを
痛感したと思う。

危機的状況に直面した場合、変化を的確に認識できない、
旧来の体制の組織風土では対応できないことを学び取ったと思う。

往路において、彼らは、ブルック大尉から数多く学び、
帰路は、日本人士官たちが中心となって航行し、無事、日本に帰り着いた。

咸臨丸は記録的な暴風雨に遭遇した
出港の翌日から第9日までの8日間、

第2日 西暦1860年 2月11日(旧暦 万延元年正月20日)

(勝海舟・航米日誌)

我、10日前より風邪腹痛ありしが、出帆前、多事なりを以て、病を養うの暇なく、
勉強して今日に到りしに、この風涛に当りて発熱苦悩甚し。

亜船主
(ブルック大尉のこと)これを見て、我、ここにあり、病に激して宜しからず、
必ず一睡して可ならんと、せわし立って置かず、其親切なりしかば、臥床申に入りしに、

忽ち
悪熱肉皮間に発し上発せず、胸間閉塞甚しく、支体心の如くならず、
嘔吐せんと成すも能わず。


解説:勝海舟は、10日前から風邪で腹痛があったが、出航準備に忙殺されて
養生する暇がなかった。ブルック大尉は、勝海舟の様子を見て、自分がここにいるから、
構わず休めと親切に言ってくれたので、中に入って横になったが、

忽ち悪寒(おかん)がして発熱甚しく、胸がつまって身体が自由に動かず、
嘔きそうで嘔けないという容態であった。)

第3日 2月12日 (旧暦 正月21日)

(勝海舟・航米日誌)

「21日、病苦先日に増し、殆ど人事を弁えず。之に加えて、高涛、風強、
人々、船酔いを発し、然らざる者は、甲板上にありて万事を指揮するを以て、

唯、一人、問う者なく、両日、両夜の間、飲食を絶し、
船内に簸揚(はよう)せられ、
其の苦、生来かつて、この如きをしらず。

解説:万次郎、小野、浜口、福沢の4人以外の日本人は総倒れであったから、
勝を見舞う者もなく、勝は2日2晩、飲まず食わずで、
しかも、船の揺れはひどく、生れてこの方、こんな苦しみは初めてだと、
流石の勝も、気息えんえんであった。)

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艦長の勝麟太郎海舟以下、日本人乗組員全員は、
激しい暴風雨荒れ狂う北太平洋航行する技量はまったくなかった。
しかも、勝艦長は、航行中、病気のため
艦長室に閉じ籠もって、デッキに出てこなかった。

ブルック大尉が、
やむを得ず、事実上の艦長として、操艦を指揮し、
米国人水兵10人を中心として艦を航行させた。

ブルック大尉は、このことを航海日誌に記載しているが、
勝海舟や日本人士官たちの名誉を傷つけることがないようにとの配慮から、
航海日誌を公開しなかった。さらに、
死後も、50年間、航海日誌の公開を禁じていた。

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万次郎は、船の現状に、ひどくうんざりしている。
彼は、木村提督の指導力欠如、勝艦長の職務遂行能力喪失、
士官たちの無規律に呆れ返っていた。

しかし、彼は、やっとのことで、当直がどうしても必要だと、
部屋から出てこない士官たちを納得させた。

ブルック大尉は、万次郎に、
「もし、私が米国人の部下を当直から外し、米国人に船の
仕事をさせることを拒否したら、木村提督はどうするだろうね」

聞いてみた。

「木村提督はどうすることもできないし、
勝艦長は職務遂行不能状態なので、
船は海の藻屑
(もくず)となり、
日本人乗組員は船室に閉じ籠もった状態で、
全員、溺死ですね」と万次郎は答えた。

そして、万次郎は、
「自分は、あなたに見捨てられて、ここで死ぬのは無念です」と言った。

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参考サイト:ジョン万次郎資料館


推奨HP:咸臨丸(かんりんまる)の冒険を成功させたブルック大尉