昭和戦争の惨禍の責任 2012年7月 

1.昭和戦争とは
昭和戦争とは、日中戦争、太平洋戦争、及び日ソ戦争の総称である。
日ソ戦争は一般的には使われていない。【ソ連の対日参戦】が公的、一般的な名称である。
筆者は日中戦争と太平洋戦争と、ソ連が仕掛けてきた帝国主義侵略戦争の日ソ戦争とは
戦争の性質が異なる故、区別して歴史事実を明確にするため日ソ戦争という名称を使っている。

2.米B29の無差別焼夷弾爆撃による主要都市の惨状



僕の原点は東京大空襲

2003年文化功労者に選ばれた田沼武能・日本写真協会会長は、読売新聞(朝刊)2012年
7月11日第10面【時代の証言者】欄で次のように語っている。

「人間の生のドラマをテーマに撮り続けてきました。僕がドキュメンタリーを志した原点は、
東京大空襲の時に見た光景です。

「ウー、ウー」と空襲警報のサイレンが、静まりかえった下町に鳴り響きました。同時に、
空から打ち上げ花火の燃えかすのような火の玉が落ち、ド・ド・ドーンという地響きとともに、
あちこちで火の手があがり、わが家のまわりは火の海になっていました。

1945年(昭和20年)3月10日未明、約300機の米B29爆撃機が、
木造家屋が密集する東京の下町一帯に大量の高性能焼夷弾を投下した。
一夜にして、約10万人の命が奪われた。100万人以上が焼け出された。

父が漕ぐ自転車の後ろに乗って、火の中をくぐり抜けるんですが、熱風で息もできません。
隅田川脇の狭い広場に逃げ込んだんです。僕の頭上を、超低空で飛ぶB29爆撃機の胴体は、
猛火の反射で赤く染まり、まるで暗黒の空を泳ぐ大きな緋鯉のようでした。

夜が明け、跡形もなく焼け落ちた自宅に戻ると、家の前の防火用水の中に、
手を合わせて何かを 祈るかのような真っ黒なお地蔵様が立っていました。

お地蔵様に見えたのは、子供の焼死体でした。空襲の戦火に巻き込まれ、
母親が熱さに耐えきれず、水の中に入れたんでしょうね。

悲しくて、悲しくてやりきれない気持ちでした。僕はまだ16歳でした。

子供や女性といった弱い人たちが徹底的に痛めつけられるのが戦争です。

僕が7歳の時に2・26事件が起き、戦争への歯車が回り始めました。
翌年には日中戦争が始まり、太平洋戦争開戦は12歳の時です。

辛くて悲しい戦争体験が、僕をドキュメンタリーの道に進むことを決意させたのです。」


1東京・浅草一帯(画面右上の森が浅草寺):Photo by US Army

2東京・浅草寺一帯:Photo by US Army

3東京・両国国技館一帯:Photo by US Army

東京以外の都市の無差別焼夷弾爆撃による死亡者数は、
大阪約1万3,000人、名古屋約8,000人、神戸約8,000人、横浜約5,000人など
合計して約20万人と推定されている。空襲により重傷を負ったものは
合計して約14万人と推定されている。
日本全国の死亡者数と重傷者数は合わせて34万人と推定されている。

主要都市における無差別焼夷弾爆撃による死亡者数:

都市名 死亡者数
東京都区部 83,793人
青森市 1,767人
仙台市 1,066人
長岡市 1,454人
富山市 2,275人
日立市 1,578人
福井市 1,583人
甲府市 1,127人
横浜市 4,616人
川崎市 1,001人
静岡市 1,952人
浜松市 3,549人
名古屋市 8,630人
豊川市 2,477人
津市 1,239人
大阪市 10,388人
堺市 1,876人
神戸市 8,841人
明石市 1,461人
和歌山市 1,208人
岡山市 1,737人
高松市 1,273人
福岡市 1,009人
八幡市 1,996人
鹿児島市 3,329人
合計 151,225人

資料出所:太平洋戦争研究会編著『図説 アメリカ軍の日本焦土作戦』河出書房新社
 【ふくろうの本】2003年3月発行



日本を空襲したB29機の機数は延べ約1万7,500機であった。
旧大日本帝国軍部(陸軍&海軍)は、甚大な被害をうけた被災地の悲惨な写真の
新聞掲載を一切認めなかった。

唯一の例外が、下記、1945年3月19日の昭和天皇の東京被災地視察写真であった。




1945年3月10日の午前0時15分から始まった【超空の要塞B29】334機の東京大空襲の
無差別焼夷弾爆撃による死亡者は8万8,000人、罹災者は約100万人、
全焼家屋は約26万軒といわれている。
高性能の焼夷弾が19万発以上投下され当時の東京の市街地の約4割が消失した。
この被害は第二次大戦における欧州と太平洋地域における空襲被害の中で最大のもの。

3.満州事変が日本滅亡の始まり

1931年、旧大日本帝国陸軍の関東軍(満州に駐留していた日本軍)
高級参謀と現地部隊指揮官たちと、大本営の中枢を占めていた高級参謀たちは、
満蒙(=満州と内蒙古)は日本の生命線だ。満蒙における日本の権益を失えば
日本は滅亡する」として満州事変を起こした。

満州事変は、旧大日本帝国陸軍の関東軍が
昭和天皇と日本政府の【統治権】・【統帥権】を奪った
【クーデター】
でもあった。

旧大日本帝国陸軍の最高指導者たち、及び満州事変を
実行した陸軍の高級参謀たちに対しては、本来、
【陸軍刑法】、【立憲君主制法治国家に対する反逆罪】が適用され、
死刑に処されなければならなかったはずである。

しかし旧大日本帝国陸軍の参謀総長、陸軍大臣などの最高指導者たちは、
満州事変を実行した高級参謀たちの【クーデター】=【統治権・統帥権簒奪】を
処罰しなかった。処罰するどころか、逆に、彼らの行為を追認・称賛した。

これらの高級参謀たちは異例の昇進をした。この結果、彼らは、実質的には、
日本国を乗っとることになった。

日本国は旧大日本帝国陸軍が【占領】することになった。

彼らの【立憲君主制法治国家・日本】に対する【反逆】、
すなわち【昭和天皇と日本政府の統治権・統帥権の簒奪】が、
昭和戦争の惨禍を引き起こしたのである。

満州事変、日中戦争を引き起こした
関東軍・支那派遣軍と大本営の高級参謀たちは
昭和戦争の惨禍を引き起こした指導者責任を免れることはできない。

かれらを処罰せず、さらには太平洋戦争開戦を決断した
東条英機ら旧大日本帝国陸軍の最高指導者たちは、
戦争の惨禍を引き起こし、拡大させ、
戦争の終結を遅らせ惨禍を拡大させた指導者責任を免れることはできない。

当時と比べて、日本は現在、海外領土は一切領有していない。
しかし日本国民は当時とは比べものにならないほどの
経済的な豊かさを享受している。戦前とは比較にならないほど、
国際平和の維持と世界各国の経済発展に貢献している。

4.中国侵略の拡大が日米開戦を必然的にした

旧大日本帝国軍部(陸軍&海軍)の最高指導者たちには、
【中国の主権を尊重する】という思想がひとかけらも無かった。

関東軍や支那派遣軍(中国に侵攻した日本軍)の高級参謀たちや
指揮官たちは、ワシントン体制の核心である【中国の主権を尊重する】
ということを頭から無視していた。

【中国の主権を尊重する】ということは、彼らの意識のなかには
まったく存在しなかった。

19世紀の帝国主義の影響で、旧大日本帝国軍部(陸軍&海軍)は
中国の領土を武力占領することに何らの罪悪感も持っていなかつた。
満州で中国人の農地を強奪することに何らの罪悪感も持っていなかつた。

太平洋戦争の惨禍を目にした敗戦後も、東条英機は
この無知で愚かな意識を変えていない。
(渡部昇一著『東條英機 歴史の証言−東京裁判宣誓供述書を読みとく』
(祥伝社 2006年8月発行 第56頁〜第66頁、第71頁〜第74頁、第89頁〜第90頁)

中国・韓国が旧大日本帝国陸軍の最高指導者たちを
【目の敵(めのかたき)にするゆえんである。

注:目の敵(めのかたき)=なにかにつけて憎く思うこと。

さらには、旧大日本帝国陸軍の高級参謀たちは、
昭和天皇も日本政府もまったく無視していた。
ましてや国際条約などはまったく無視して、なんら顧みることがなかった。

世界の主要国は、このような旧大日本帝国陸海軍の国際条約を無視した
【思い上がった態度】と【侵略行動の果てしない拡大】に強く反発した。
併せて、日本の侵略行動から、中国における自国の利益や自国民を守るため、
こぞって中国を軍事支援した。

ヒトラーが政権掌握する前のドイツは、中国へ大量の武器支援を行っていた。
ゼークト元陸軍参謀総長を団長とする強力な軍事顧問団を中国に派遣して
中国軍の強化育成に注力した。ヒトラー政権下でも対中武器輸出は継続された。

ソ連は1937年8月、中ソ不可侵条約締結を契機に中国に大々的な軍事援助を
開始した。輸出・供与合わせて、航空機985機、戦車82両、大砲1300門以上、
機関銃1万4000丁以上を供給した。

米国は、大量の武器や軍事物資のみならず、操縦士付きの戦闘機部隊から成る
中国支援義勇隊を派遣するほど、強力に中国を軍事支援した。

関東軍や支那派遣軍の高級参謀・指揮官たちの行動を放置・追認して、
何らの処罰を行わなかった旧大日本帝国陸軍の最高指導者たちの
無能・無策・無責任によって、1931年以後、日本政府は、事実上、
国の進路を意思決定する機能を喪失した。

5.(くち)では統帥権(昭和天皇の最高軍司令官としての権限)の独立を唱えながら、
  
昭和天皇の意思はことごとく無視した

1931年以後、旧大日本帝国軍部(陸軍&海軍)の最高指導者たちや、
高級参謀たちは、統帥権(=天皇の大権)の独立を唱え、
日本政府の方針を無視したが、
肝心要の【統帥権】の大本(おおもと)である
昭和天皇の意思まったく無視していた。
彼らは不忠の輩(やから)であった

要するに、自分たちだけが持っている武器の力で脅かして、
【統帥権の独立】と称して、誰からも掣肘されず、
自分たちのやりたいことを、勝手気ままにやって、
国民に耐え難い苦痛を強いて、国を滅亡させたのである。

彼らが従った唯一の例外が1945年8月の昭和天皇の無条件降伏の決断であった。

陸海軍の元帥ども、大将どもは、こぞって降伏に強く反対した。
しかし、無差別焼夷弾爆撃の惨状と、米国海空軍の海上封鎖による食糧輸入の途絶を
明確に認識していた昭和天皇は、都市部の住民の大量餓死が、絵空事ではなく、
差し迫った現実になりつつあり、陸海軍のキチガイ参謀どもが、2,000万人カミカゼ特攻を
本気で考えていたことを憂慮して、
無条件降伏の決断したのである。

ちなみに、終戦直後、マッカーサー元帥と会見した昭和天皇は、冒頭、
「日本国民に食糧を与えてほしい」と懇願し、「You can hang me」と発言したといわれる。

読売新聞(朝刊)2005年11月9日第16面&第17面『検証・戦争責任A』より転載
この記事は読売新聞社の許諾を得て転載しています。複製、送信、出版、頒布等、著作権を侵害する一切の行為を禁止します。



読売新聞(夕刊)2007年3月9日第22面より転載
この記事は読売新聞社の許諾を得て転載しています。
複製、送信、出版、頒布、翻訳等、著作権を侵害する一切の行為を禁止します。

昭和天皇は1928年(昭和3年)6月4日の張作霖爆殺事件に対する
当時の田中義一内閣の対応に激怒し、田中内閣を辞職させた。
しかし元老・西園寺公望の強い諫言?によつて、
以後、自分の意思を通すことができなくなった。

国際連盟脱退についても、【国際友好】と【憲法遵守】を理念とする
昭和天皇は終始反対であったが、牧野内大臣に「政府は国際連盟
脱退の方針を決定し、全権も既に出発しています」と言われ、
反対の意思を貫くことができない情勢であった。

昭和天皇は、2.26事件、支那事変(=日中戦争)、三国同盟等、
陸軍の暴走に、常に強い嫌悪感を示し、日本の将来を懸念していた。

文藝春秋2008年2月特別号第141頁で、半藤一利氏は
昭和天皇は日独伊三国同盟に反対の意向をつねづね表明
していた
」、「昭和天皇は近衛首相に対して「三国同盟は、もう少し、
独ソ関係を見きわめた上で締結したらどうであるか」といい、また
「この同盟は非常に重大な同盟で、同盟を結べば、アメリカは、
日本に対して、すぐにも石油やクズ鉄の輸出を停止してくるかも
しれない。
そうなったら日本はどうなるか。
大変な苦境と暗黒のうちにおかれるかもしれない」と質問した」と
述べている。

第144頁では、「当時の陸軍中央部においては、
昭和天皇の平和への希求など、どこ吹く風である。
合理的判断を放棄した盛んなる敵愾心のみが軍中央部には
充満していたのである。
何と、不忠の臣ばかりであったことか」と述べている。

6.天皇制崇拝思想(国体思想)という詐欺手段

昭和戦争(日中戦争、太平洋戦争、日ソ戦争)敗戦以前の日本は、
マスコミを含めて、官民あげて、軍事最優先の帝国主義国家であった。
この国家体制と、旧大日本帝国軍部による徹底した
神がかりの天皇制崇拝思想(国体思想)が日本を破滅させたのである。
軍部批判、政府批判は不敬罪にすり替えられて徹底的に弾圧された。

注:神がかり=科学や真理を無視して、理屈に合わない事がらを信じ行うこと。

旧大日本帝国陸軍が
昭和天皇から実質的な統治権・統帥権を簒奪した1931年以後、
1945年の敗戦まで、
旧大日本帝国陸軍は
神がかりの天皇制崇拝思想(国体思想)という詐欺手段を使って
日本国民を騙して、
日本国民を徴兵して、
日中戦争・太平洋戦争に駆り立てた。

旧大日本帝国陸軍は、
「日独伊三国同盟には反対」、
「支那事変はやりたくなかった」という
昭和天皇の【意思=統帥権】を無視して、

日中戦争拡大を推し進めた。
日中戦争の拡大が太平洋戦争に繋がった。

旧大日本帝国陸軍は、
昭和天皇の【意思=統帥権】を無視しておきながら
国民に対しては、
天皇制崇拝思想(国体思想)を強制して
大日本帝国陸軍は【天皇の軍隊である】と唱え続けた。

7.命令無視が引き起こした日中戦争泥沼化

旧大日本帝国陸軍と海軍の現地軍最高指揮官と
高級参謀たちと、大本営の高級参謀たちは
口先では「お国のため、天皇陛下のため」と唱え続けながら、
昭和天皇の意思や、日本政府の「支那事変不拡大方針」や、
陸軍上層部の「上海で停戦、制令線を越えて南京へ進撃してはならない」
という意思、方針、命令を徹底的に無視して南京へ進撃して
大事件
(=南京事件)を引き起こした。2008年4月7日午前0時55分〜
1時50分、日本テレビから『NNNドキュメント'08 兵士たちが記録した
南京大虐殺
』が放送された。あまりにもの残忍さに・・・・・・・。


この現地軍の方針命令徹底無視の南京進撃が日中戦争泥沼化と
太平洋戦争開戦に繋がった。【人道に反する】中国人の【大虐殺】と
合わせて、現地軍の司令官・部隊指揮官たちと高級参謀たち、
大本営の高級参謀たちの罪は、文字通り、万死に値すると思う。
彼らを弁護する余地は全くない残忍極まる歴史事実である。

この時点における日中戦争の拡大は、昭和天皇の意思に反し、
A級戦犯の共同謀議も存在しなかった。従って、日中戦争に関しては
当時の現地軍の司令官・部隊指揮官たち・高級参謀たちと、
大本営の高級参謀たちが、当時の陸軍刑法によって、きびしく
軍紀違反の罪を問われるべきであったと思う。しかし、日本中の新聞が
「皇軍の赫々たる戦禍(=戦争の惨禍)」を報道していた時代においては
あり得ないことではあるが。



8.無知で愚かな若手海軍将校と
  情報音痴の艦隊派海軍将官の開戦責任


1932年5月15日の海軍の若手将校たち犬養毅首相を殺害した。
5・15事件である。軍部の主戦派を追放して、満州事変を、
中国との話し合いで解決しようとしていた犬養首相を殺害した犯人たちは、
誰一人死刑になることなく数年で釈放された。


客観的にみれば、5・15事件は、旧大日本帝国軍部が、軍部に反抗
する人物は、総理大臣といえども抹殺するということを事実をもって示す
ために行わせた
軍部公認のテロ事件であったとすら言える。

5・15事件2・26事件を実行した若手将校たちの動機は純粋な
私心のない愛国心であった。しかし彼らの行動は【視野の狭い、偏った
ものの見方による
無知で愚かなテロ行為】であった。



彼らの
無知で愚かなテロ行為
【軍部独裁→日中戦争・太平洋戦争】
へと繋がり、彼らが想像もしていなかった、国内・海外における数百万人、
数千万人、数億人の
死亡者とその家族の惨禍・不幸という結果を
もたらした。日本人が忘れてはならない悲惨な歴史の教訓である。

昭和戦争の惨禍の原因の一つとして見逃すことのできない事件は、
1930年の旧大日本帝国海軍軍令部の
【統帥権干犯】主張と、
東郷元帥と伏見宮博恭王による
条約派海軍将官の徹底追放人事である。

1922年のワシントン会議、1930年のロンドン会議で、日本、米国、
英国などの主要国は、アジア・太平洋の地域秩序を確立するために、
中国の主権尊重・門戸開放、海軍力制限等の三つの条約を締結した。

ワシントン体制と呼ばれるこの国際協調秩序確立と
海軍力制限に、
旧大日本帝国海軍軍令部は強く反発した。

当時の加藤寛治海軍軍令部長はロンドン条約調印に反対するため、
直接、昭和天皇に抗議して、直接、昭和天皇に辞表を提出した。
しかし昭和天皇は浜口内閣のロンドン条約調印決定を裁可した。

【統帥権】の大本
=(ものごとの根本になるもの)である昭和天皇が
日本政府と日本帝国議会の方針・議決を全面的に承認したのである。
【統帥権】を犯していた
のは他ならぬ旧日本帝国海軍軍令部
であった。

1930年、ロンドン条約調印後、日露戦争の救国の英雄、
東郷元帥が
海軍力制限に強く反対し、
【統帥権干犯】主張に同調して、
条約に調印した財部彪海軍大臣を名指しで非難した。

さらに旧大日本帝国海軍最高の実力者で、絶大な権勢を誇っていた
伏見宮博恭王元帥が

【統帥権干犯】主張に同調して、
1932年、軍令部長に
就任して海軍の人事権を一手に掌握するや、
対米英不戦を主張する条約派海軍将官の徹底的追放を行った。

その後、艦隊派といわれた国際情勢音痴の最高指導者たちが支配した
旧大日本帝国海軍は、
太平洋における覇権の確立を目的に、
米国を仮想敵国として戦争準備に狂奔し、
ついには対米開戦を決意して日本を破滅させた。


1930年、艦隊派の海軍軍令部が唱えだした【統帥権干犯】主張という
【邪剣】【立憲君主制法治国家・日本】を刺し殺し、ついには
日本を破滅させたのである。

旧大日本帝国海軍の最高の実力者といわれ、人事を壟断し、
対米英開戦を主導した伏見宮博恭王元帥の指導者責任はきびしく
非難されなければならない。


無知で愚かであった海軍の艦隊派の最高指導者たちと
高級参謀たちは、現存する米国の太平洋艦隊を撃滅すれば、
太平洋における制空権と制海権を把握できる。
ヒトラーのドイツがソ連を打ち負かし、英国を降伏させれば、
日本は東南アジアの石油資源を確保できると考えていたのである。

山本五十六海軍少将(当時)は、1930年のロンドン海軍軍縮会議には
次席随員として参加した。現地で、山口多聞海軍中佐(当時)と共に、
強硬に対米7割を主張して、若槻禮次郎全権を困らせた。

大蔵省から参加した賀屋興宣氏が、財政面から多額の軍備拡張負担には
堪えられないと言うと、山本五十六少将は、
「黙れ、賀屋!なお言うと鉄拳が飛ぶぞ!」と怒鳴りつけた。
青ざめた賀屋興宣氏は、慌てて次の言葉を飲み込んだといわれる。

この事件は、当時から、山本五十六少将(当時)は、条約派でなく、
艦隊派であることを明確に示している。以後、海軍内で、

山本五十六海軍少将(当時)は、
対米開戦の推進力として
重用されることになった。

1934年当時から、山本五十六海軍少将(当時)は、
真珠湾攻撃を口
(くち)にしていた。
「俺も軍人だからね。どうしても米国とやれといわれれば、やってごらんに
いれたいね。真珠湾攻撃は、俺の夢なんだからね。

空母10隻、航空機800機を準備する。機動艦隊を編成して
真珠湾とマニラを奇襲すれば、米国太平洋艦隊と米国アジア艦隊を
潰すことは確実にできるんだよ」と同郷の斉藤博駐米日本大使に語った
と伝えられている。

山本五十六連合艦隊司令長官は、豪語するだけではなかった。
【海軍の天皇】といわれた彼の強力な主導により、空母が次々と建造された。

1941年12月の日米開戦時において、日本が保有していた艦隊型空母は、
赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴、瑞鳳、鳳翔、龍驤の9隻であった。

米国が保有していた艦隊型空母は、レキシントン、サラトガ、レンジャー、
ヨークタウン、エンタープライズ、ホーネット、ワスプの7隻であった。
この他に日本は4隻、米国は5隻の空母を建造中であった。

1939年には画期的な性能を誇る零式艦上戦闘機が開発・製造された。

1931年以降、日本の航空魚雷は、次々と改良を重ねていった。
平均水深12メートルの真珠湾で使用できる特殊な魚雷が開発された。

その上で、真珠湾の米太平洋艦隊を全滅させるという目的の
パイロットの猛訓練が行われた。


東京裁判に引き出されたが、判事投票1票差で、辛うじて絞首刑を免れた、
陸軍省軍務局長であった佐藤賢了陸軍中将によると、大東亜戦争開戦直後に、
海軍省軍務局長であった岡敬純海軍中将が、本来、御前会議に提出する筈だった
対米開戦の可否を検討する資料を佐藤賢了陸軍軍務局長のところへ
持ち込んだ事があった。

その資料は対米戦争を遂行するのは不可能であると判断せざるを得ないものだった。
しかし御前会議に提出されたのは、
山本五十六連合艦隊司令長官により
「対米戦争遂行可」とするものにすり替えられていた。


佐藤賢了陸軍軍務局長は、岡敬純海軍省軍務局長に
「どうして、海軍は対米開戦に、強く反対しなかったんだ」と問いただした。

岡敬純海軍省軍務局長は、
「海軍の中では、誰も、山本五十六連合艦隊司令長官に
楯突く
(たてつく)事はできない」と答えたという。

ちなみに、岡敬純海軍中将・海軍省軍務局長は、永野修身元帥・海軍軍令部総長、
嶋田繁太郎大将・海軍大臣と共に、海軍側のA級戦犯として、東京裁判に引き出された
3人の1人で、海軍の最高指導者の一人である。

この資料すり替え事件以後、佐藤賢了陸軍軍務局長は生涯、山本五十六長官を
信用しなかったといわれる。

戦前・戦中を通じて、日本の陸海軍は犬猿の仲であった。

1943年4月18日まで、日本海軍は
完全に山本五十六連合艦隊司令長官
指揮していた。


従って、
対米開戦、ミッドウエィ海戦大敗北ガダルカナル大敗北を含めて、
それまでの、日本海軍の勝利と敗北は、
すべて山本五十六連合艦隊司令長官の功績であり、責任であった。


旧日本帝国陸海軍の最高指導者たちが対米開戦を決意した最も重要な前提条件は、
「ヒトラーのドイツはスターリンのソ連を打ち負かし、スターリン政権を崩壊させる」
ということであった。この最も重要な前提条件が間違っていたこと
明瞭になった以上、対米英開戦準備が100%完了していても、
日本は対米英開戦を躊躇なく止めるべきであった。

東条英機、伏見宮博恭王、永野修身、嶋田繁太郎、山本五十六など旧日本帝国陸海軍の
最高指導者たちの、あまりにもの愚かさに、改めて呆れざるを得ない。


9.日本の敗戦を決定的にした
  
マリアナ沖海戦での
  
 壊滅的大敗北


サイパン島戦が始まった時点の、44年6月19日−20日の
マリアナ沖海戦で、日本海軍は完敗した。

日本海軍は、戦艦5隻、航空母艦9隻を核に艦艇73隻、
航空機473機を投入した。

これに対する米国海軍の戦力は航空母艦15隻を含む
艦艇112隻、航空機956機であつた。

米国海軍は当時の日本海軍には無かった最新鋭の
レーダーを持っていた。空中の戦闘機に無線電話で
作戦指令を行う空中戦闘システムとそれを動かすシステム
要員を持っていた。



43年に完成した米国の最新鋭戦闘機ヘルキャットの性能と
防護力は日本のゼロ戦をはるかに超えるものであった。

しかもVT信管と呼ばれる対空砲火の威力を飛躍的に高めた
機能を備えた防御兵器で、米国戦闘機の攻撃の網を
くぐり抜けた日本の艦隊攻撃機を撃墜した。

当時の【無知で愚か】であった旧日本帝国海軍の
最高指導者たちと、高級参謀たちは、誰一人として、
これらの米国海軍の最新装備についての情報を持っていなかった。

【無知】というのは【情報収集の手段を持っていないこと】である。
【愚か】というのは【情報に基づかず独り善がりで意思決定する】
ことである。

日本海軍は航空機300機を撃墜され、パイロットを多数失ない、
空母3隻を撃沈され、空母4隻を撃破された。
日本の空母機動艦隊は壊滅した。

日露戦争の日本海大海戦のバルチック艦隊に相当するのが
日本の空母機動艦隊で、東郷連合艦隊に相当するのが
米国の空母機動艦隊という図式であつた。

日露戦争当時のロシア宮廷は【無知で愚か】であった。
かれらは東郷連合艦隊が最新の軍艦で編成され、
【下瀬火薬】という最新の爆薬を持っており、しかも戦艦の
砲撃手の技術水準は世界最高であったという事実を全く知らず
バルチック艦隊を日本海に派遣したのである。

マリアナ沖海戦で、日本海軍は完敗した。
日本の空母機動艦隊は壊滅した。
米国の空母機動艦隊は無キズであった。

マリアナ沖海戦完敗で日本の空軍戦力、海軍戦力は、
米国の空軍戦力、海軍戦力にまともに立ち向かう力を失った。

45年3月〜6月の沖縄戦の時点では、
日本の空軍戦力、海軍戦力は完全に無力で、
沖縄を包囲した米空軍、米海軍に手も足も出なかった。


沖縄は九州・鹿児島からは約660キロである。
台湾・台北からは約630キロである。
現在では飛行機で1時間以内で行ける距離である。

九州南部から発進したカミカゼ特攻隊機は2,571機
あった。36機が空母に、14機が戦艦に、138機が
駆逐艦に突入したが、米軍になんらの打撃を与えることは
できなかつた。
戦艦【大和】は米軍機386機の集中攻撃を受けて
空しく九州坊ノ岬沖90海里の地点で撃沈された。

1945年8月、昭和天皇の降伏の決断がなければ
旧大日本帝国軍部(陸海軍)の
【本土決戦=1億総玉砕=無理心中作戦】
日本民族は完全に滅亡していただろう。

10.ポツダム宣言即時受諾反対が
  
原爆投下日ソ戦争
(ソ連の対日参戦)を招いた

無知で愚かであった旧大日本帝国軍部の最高指導者たちと
大本営陸軍部の参謀たちは、
サイパン島戦や沖縄戦で10数万人の住民が
日本軍の牢固たる【玉砕】思想で死亡したことを
いささかも反省することなく、
連日、主要都市が米軍機数百機による無差別焼夷弾爆撃で焼き尽くされ、
釜石、室蘭が艦砲射撃を受け、青函連絡船4隻が撃沈され、
都市住民の食糧が尽き果て、
戦争を遂行するための軍需物資も尽き果て、
原爆が投下され、
ソ連が対日参戦して、

日本国民皆殺しが刻一刻、現実味を増しているというのに、
陸軍省の地下壕の中から、国民義勇隊の創設、原始時代の
竹槍による【本土決戦=1億総玉砕=無理心中作戦】を叫び続けた。

無知で愚かであった旧大日本帝国軍部の最高指導者たちは、
【戦うための武器を持たない】(大本営陸軍部河辺参謀次長の言葉)
大政翼賛会を再編成した国民義勇隊に、原始時代の竹槍による
【刺し違いの戦法】で本土に侵攻する米軍を迎え撃てと叫んでいたのである。



『昭和史8 終戦の悲劇』研秀出版 1980年発行:
大本営陸軍部は、【挺身斬込み】を実行するための、『国民抗戦必携』という
小冊子を作った。
竹槍で敵兵の腹部をひと突きすることから、ナタ、ゲンノウ、
出刃包丁、トビ口などの使い方を詳しく図入りで説明したものである。
軍需工場で強要労働に従事していた女子挺身隊員、勤労動員中学生、さらには
一般主婦にまで竹槍によるゲリラ戦の訓練を強要した。


今井清一著『ドキュメント 昭和史5 敗戦前後』 平凡社 昭和50年5月発行 第105頁

サイパン島戦や沖縄戦で現実に起きた通り、
もし【本土決戦】が行われたならば、
おびただしい数の住民が戦闘中の殺戮や
日本軍の【玉砕】思想で死亡したり重傷を負って
日本全土は文字通り地獄と化していただろう。

米軍の死傷者の増大を防ぐため、米国は【本土決戦】という
事態になればソ連軍と共同で北海道・本土侵攻作戦を
行うことになった思う。

NHK日ソプロジェクト著『これがソ連の対日外交だ 秘録・
北方領土交渉』(日本放送出版協会 1991年7月発行)の第6頁及び
第16頁は、「もし本土決戦において、ソ連の対日参戦がなければ、
米軍の犠牲者数は、100万人〜150万人に達すると推測されていた」
と述べている。

ソ連軍が北海道や本土に侵攻してきた場合、
1945年8月以降に、満州・北朝鮮で現実に起きた通り、
凶暴・凶悪なソ連軍兵士の
レイプ(強姦)・殺戮・暴行・略奪・奴隷狩り

日本全土は文字通り地獄と化していただろう。

日本全土を地獄にして、国民全部を道連れにしょうとした
旧大日本帝国陸軍の【玉砕】思想に基づく
【本土決戦=一億総玉砕】
【無理心中作戦】として筆者が強く非難する理由である。

海外諸国に多大の惨禍を引き起こし、
日本民族を滅亡の淵に陥れた
旧大日本帝国軍部の最高指導者たちと
大本営の高級参謀たちの
無知と愚かさは、
時代を超えて、
徹底的に非難されなければならない。


旧大日本帝国軍部の最高指導者たちと
大本営の高級参謀たちは
東京裁判で裁かれるまでもなく、
加害者として、海外・国内において
昭和戦争の惨禍を引き起こし、拡大させ、戦争終結を遅らせた
指導者責任を負わなくてはならない。

旧大日本帝国軍部の最高指導者たちと
大本営の高級参謀たちは、
東京裁判で裁かれるまでもなく、
ヒロシマ・ナガサキ・シベリアの惨禍を招いた
指導者責任を負わなくてはならない。


旧大日本帝国軍部の最高指導者たちと
大本営の高級参謀たちは、
東京裁判で裁かれるまでもなく、
【1億総玉砕=無理心中作戦を最後まで叫び続けた
彼らの無知で愚かな命令に従う他に道はなかった
レイテ島、硫黄島、沖縄、カミカゼ特攻隊、
戦艦大和などの犠牲者たちに対する
指導者責任を負わなくてはならない。

良心不在のウソつき組織


半藤一利編著『歴史探偵団がゆく 昭和史が面白い』(文藝春秋97年1月発行)第125頁より引用
高木=高木俊朗氏・作家、著書『インパール』、『陸軍特別攻撃隊』など
岩田=岩田正孝氏・元陸軍省軍務局軍事課課員




旧大日本帝国海軍は、太平洋戦争中においてすら、昭和天皇や、内閣や、
陸軍に対して発生した事実の正確な報告をしなかった。ミッドウェイ海戦の
大敗北やマリアナ沖海戦の壊滅的敗北の事実を徹底的に隠ぺいした。
国民に発生した事実を正確に知らせるなどという考えは、
旧日本帝国海軍の指導者たちの頭のなかにはひとかけらも存在しなかった。
責任ある立場、公的な立場にある者が、事実を隠ぺいすることは
犯罪であるという意識は全くなかったのである。


読売新聞(朝刊)2006年5月27日第15面、『検証・戦争責任 第2部』は
「ミッドウェイ海戦惨敗の実情を、海軍軍令部は、首相である東条にさえ隠した」
と述べている。

新井喜美夫著『転進瀬島龍三の「遺言」』(講談社 08年8月発行)第26頁には
「東条元首相は1944年6月のサイパン戦の直前までミッドウェイ海戦
(1942年6月5日〜7日)で日本海軍が惨敗した実情を知らなかったと
瀬島龍三が語った」と書かれてある。

ミッドウェイ海戦で、日本海軍は、主力航空母艦4隻を撃沈、撃破され失い、
その全艦載機と多数の優秀なパイロットを失った。日本海軍が
中部太平洋における制空権、制海権を失ったこの大敗北の実情を
海軍は徹底的に隠ぺいしたのである。

上記のように岩田正孝・元陸軍省軍務局軍事課課員は「終戦まで
ミッドウェイ海戦惨敗の実情を知らなかった」と語っている。

当然、山本五十六の責任は不問に付された。米国であれば、
ここで山本五十六は連合艦隊司令長官を罷免されていたはずである。

総理大臣兼陸軍大臣であり、一時は陸軍参謀総長まで兼任していた
東条英機をはじめ、大本営陸軍部や陸軍省の幹部たちが
ミッドウェイ海戦の大敗北の実情を全く知らずに
数々の重要な軍事行動の意思決定を行った
という事実に戦慄せざるを得ない。

海軍が、ミッドウェイ海戦やマリアナ沖海戦の壊滅的敗北の事実を
昭和天皇や、首相ら閣僚たちや、陸軍に正確に報告せず、
そのために、その後、誤った判断・意思決定・軍事作戦で、
海外、国内で数百万人が戦争の惨禍で亡くなった。

艦隊派の海軍の最高指導者たちと高級参謀たちの罪は万死に値する。
まぎれもなく、彼らは、日本という国を滅ぼした【不忠の輩(やから)あり、
国民を騙し(だまし)続けた【無知で愚かで無責任な】指導者集団であつた。


詐欺師たちによる洗脳教育と兵士を盲従させるための
リンチの日常化


旧大日本帝国陸軍と海軍の最高指導者や高級参謀たちは、
昭和天皇の【意思=統帥権】を無視しておきながら
口先では「天皇陛下バンザイ」と唱え、
国民に対しては、
「お国のために死ね」
「天皇陛下のために死ね」
という徹底した洗脳教育を行い続け、
国民を騙し、

数百万の善良な国民を死地に追いやった。

旧大日本帝国陸軍と海軍の最高指導者や高級参謀たちは、
兵士の【人命尊重】という考えはひとかけらもなく、
【おまえたちは1銭5厘(徴兵令状の郵便葉書1枚の値段)
消耗品だ】
(高杉一郎著『シベリアに眠る日本人』第199頁)
言い続けていた。

筆者は、旧大日本帝国陸海軍は徴兵令状1枚で徴兵された新参兵にとっては
【奴隷収容所】
そのものであったと思っている。

日本経済新聞2004年9月8日第40面の『私の履歴書』で、エコノミストの
金森久雄氏は1944年陸軍に招集され、陸軍二等兵として8ヶ月過ごした体験を
「兵隊の思い出はあまり語りたくない。夜は私的制裁がはじまる。初年兵を並べて、
スリッパでほっぺたを殴るなどは日常茶飯事である」と述べている。

読売新聞2004年9月28日第13面の『時代の証言者』の中で、漫画家の
水木しげる氏は「日本の軍隊じゃ、兵隊はいつも殴られてるんですから
と述べている。

1958年放送された、フランキー堺さん主演の名作テレビドラマ
『私は貝になりたい』は、旧日本帝国陸軍の不条理なタテ社会で、
上官の不条理な命令に忠実に従った、赤紙で招集された一人の理髪店主が、
戦後の戦犯裁判で絞首刑になるという哀れな悲しい物語である。

日本経済新聞2005年5月4日第28面の『私の履歴書』で、
加藤寛千葉商科大学長
は「(軍隊では)案の定、苛められっ放しだ。
軍人勅諭が暗唱できない、糧秣の米俵が担げない、あれができない、
これができない。で、
【この国賊】と殴られる。口から流れる血の赤を見ると
興奮して凶暴になる上官もいて、本当に痛い目をみた」と述べている。

日本経済新聞2006年8月11日第32面の『私の履歴書』で、遠州茶道宗家の
小堀宗慶氏「軍隊の理不尽さ思い知る」との見出しで次のように述べている。
「最も理不尽に感じたのは靴の紛失事件だった。ある日、風呂から上がると
私の靴が片一方しか見あたらない。片方だけ履いて山田中尉に報告に行ったが、
そこからの中尉の対応は想像を絶するものだった。兵舎の二階の長い廊下の
端に立たされ、いきなりバーンと殴りつけられた。
ばたつと倒れるが、倒れたままになっていられない。素早く立ち上がり、
直立不動の姿勢に戻らなくてはならない。軍隊とはそういうところである。
また、
バーンと横殴りに殴られる。立っては殴られ、立っては殴られ、
長い長い兵舎の廊下を端から端まで移動した。

誰が靴を持っていたのかは問題にしない。無くした私に落ち度があるという
おかしな理屈で罰せられるのだ。挙げ句の果てに、「今度はお前が盗ってこい」
という我が耳を疑う命令が下された。生まれてこの方、人のものを盗るなど
考えたこともない。それを、人に教える立場の教官が命じるのである。
軍隊とは、ここまで人の道とかけ離れた常識がまかり通る世界
なのかと、改めて思い知った。」

読売新聞(朝刊)2006年9月26日第12面で、
山岸章連合初代会長は次のように述べている。
「海軍甲種予科練習生に志願しました。入隊する時に先任下士官が
【おまえたちは第1種消耗品】と言うんだ。第1種消耗品とは3年以内に
戦死する兵隊だな。軍隊は、食事は保障するけれども命を保障しない。
軍人精神注入棒で毎日のように殴られる。暴力と権威で押さえ込むだけ。
自主的な正義感、団結、闘争心などはない。死んだ方がましだと思うまで
追い込むんだ。」

日本経済新聞2006年12月5日第44面の『私の履歴書』で、
渡邉恒雄読売新聞主筆は旧日本帝国陸軍での軍隊生活に
ついて次のように述べている。
「古参兵によるびんたは当たり前。理性的な判断や合理的な思考が
存在する余地すらない。不条理な精神主義と陰湿な制裁が横行していた。
あるとき、一等兵の誰かが丸太を並べた上に何時間も正座させられていた。
江戸時代の拷問のようだった。
私も毎日、【上靴(じようか)】と呼ぶ
皮のスリッパで頬を張られた。


読売新聞(朝刊)2007年3月24日第1面『編集手帳』は
「志願して17歳で海軍に入った
城山三郎さんは、朝から晩まで
殴られずくめ
の絶望を味わった」と述べている。

日本経済新聞2007年5月16日第40面の『私の履歴書』で、
映画監督・脚本家の
新藤兼人氏は、「
苛酷な私的制裁が待っていた。
隊の玄関には野球バットをひと回り大きくした【直心棒】が掲げてあった。
これで兵隊のケツを殴るのだ。暗闇の営庭で整列し、【軍人は忠誠を
尽くすを本分とすべし】と股を開いてケツを突き出すと上級水兵
(=上官)の【直心棒】が唸りをあげてとんでくる。踏ん張りが悪いと
吹っ飛ぶのである。5回殴られる。殴られたケツは紫色になる。
【直心棒】による私的制裁は毎夜続いた。
私たち海軍二等水兵は、アメリカと戦争するのではなく、
日本帝国海軍と戦争だと思っていた」と述べている。

不忠の輩(やから)による洗脳教育

旧大日本帝国陸軍は
神がかりの天皇制崇拝思想(国体思想)という詐欺手段を使って、
日本の社会から言論の自由を駆逐してしまった。

言論の自由を駆逐した上で徹底した洗脳教育を行ったのである。
昭和天皇の思いを徹底的に無視しておきながら、
「中国への軍事侵略は国のためである」という洗脳教育を行った。
さらには「大東亜戦争は聖戦である」ということまで言い出したのである。
この洗脳教育の影響及び反動が、良し悪しは別にして、
現在は少数派の昭和ヒトケタ以前の世代には根強く残っている。
靖国神社の遊就館の展示は洗脳教育の遺産である。

昭和天皇に対する真の忠誠心があったとは信じられない事実が
あまりにも多すぎる。逆に、旧大日本帝国軍部は、畏れおおくも、
昭和天皇を傀儡として利用していたと思える。

司馬遼太郎氏は「昭和6年(1931年)以降の日本は、
もはや天皇が統治する法治国家ではなくて、
旧大日本帝国軍部が占領していた国家であった」
(『「昭和」という国家』(NHK BOOKS 1999年3月 発行 
第16頁〜第17頁、第98頁〜第99頁)
と述べている。

筆者が旧大日本帝国陸軍及び海軍の最高指導者たちと
大本営の高級参謀たちを
【不忠の輩(やから)と非難するゆえんである。

太平洋戦争敗戦後、日本に奇跡的な経済繁栄をもたらした
国際平和主義堅持の通商国家という思想は
昭和戦争敗北以前には無かった。

旧大日本帝国軍部(陸軍&海軍)の最高指導者たちは、1945年8月の
昭和天皇の降伏の決断まで、末期ガンが体内に広がるのを
防げないのと全く同様に、広大な中国大陸から広大な東南アジア・
太平洋の島々へと戦線が果てしなく拡大・拡散するのを防げなかった。

旧大日本帝国軍部(陸軍&海軍)の最高指導者たちは、誰一人、
大義名分を欠く不正不義の中国戦線の拡大・拡散を防ごうともしなかった。

当時の新聞を見ると、マスコミも【皇軍の赫々たる戦果(戦禍?)】を
大きく報道し、日中戦争バンザイであった。

中国において、当初はドイツ・チェコの最新武器で、その後は、
ソ連と米国の最新武器で、善良な日本軍の兵士たちが続々と戦死
しているにもかかわらず、命がけで不正不義の中国戦線の拡大・拡散を
阻止しようとした旧大日本帝国軍部の最高指導者は一人もいなかった。
ましてや戦禍を蒙った中国国民の惨状を考えた旧大日本帝国軍部の
最高指導者は一人もいなかった。

加藤陽子・東大教授は、著書『戦争の日本近現代史』(講談社新書)
第283〜4頁で、「1940年初頭の数字によれば、この時中国にいた
支那派遣軍は85万人の規模に膨れあがり、太平洋戦争開戦前、
すでに20万人もの戦死者を出していた」と述べている。

これら旧大日本帝国陸軍と海軍の最高指導者たちと、大本営の高級参謀たちは、
戦場に出て戦死することなく、国内でぬくぬくと生き残って、
戦後も【指導者責任】を追究されることもなく、
【加害者】であったにもかかわらず、逆に【犠牲者・被害者】であると装い、
国民を騙し続け、年額、500万円〜800万円という、
信じられないような超高額の軍人恩給を貰い続けた。

「全狂乱」だった日本陸海軍の
最高指導者たちと高級参謀たち


1941年4月、英国首相チャーチルは、「誠心誠意及び善意をもって日本国民に
友誼的メッセージを送る」とし、「日本帝国政府及び国民の注意に値すると思われる
若干の質問をあえて示唆したい」と、ソ連訪問中の松岡外相に対し、駐ソ連大使を
通じて書簡を手交した。

そのうち工業生産に関するところは次の通りである。
1941年のアメリカの鋼鉄生産高は7500万トン
イギリスは1250万トン、合計9000万トンとなる。

ドイッが前回におけると同様、敗北することがある場合、
日本における鋼鉄生産高700万トンは、単独で戦争を行なうのには不十分
ではないか。

チャーチルらしい、まことに人をくった書簡で、大本営陸軍部の機密戦争日誌は
「内容極めて不遜、憤慨に堪えず」と怒っている。

怒るのは一応もっともだが、チャーチルの指摘していることは、さらに「もっとも」で
あろう。

アメリカ空軍の重爆撃機B29の爆撃効果を調査するため戦後来日した
「戦略爆撃調査団」は国防省に詳細な報告書を提出したが、
その結論において次のように述べている。

要するに、日本という国は、本質的に小国で、輸入原料に依存する産業構造を
持てる貧弱な国であって、あらゆる型の近代的攻撃に対し無防備だった。

手から口への、全くその日暮しの日本経済には、余力というものがなく、
緊急事態に処する術がなかった。

原始的な構造の木造都市に密集していた日本人は、彼等の家を破壊された場合、
住む家がなかった。

日本の経済的戦争能力は限定された範囲で短期戦を支え得たにすぎなかった。
蓄積された武器や、石油、船舶を投じて、まだ動員の完了していない敵に対し
痛打を浴せることはできる。

ただそれは1回限り可能だったのである。

このユニークな攻撃が平和をもたらさないとき、日本の運命は既に決まっていた。

日本の経済は、合衆国の半分の強さをもつ敵との長期戦であっても、
支えることはできなかったのである。

このアメリカ戦略爆撃調査団の報告書には、日本がアメリカに対し戦争を始めた
ことについて、次のように結論を述べている。

日本の戦争能力を一瞥(いちべつ)しただけでも、日本がアメリカとの戦争を
決意したのは、正気の沙汰だったのかという疑問がすぐ浮んでくる。

公文書に「正気の沙汰ではない」とは、ずいぶん思いきった叙述だが、
調査団のアメリカ人将校たちも、ほかにいいようがなかったのであろう。

元首相若槻礼次郎は、終戦のころの陸軍は「半狂乱」だったと書いているが、
終戦時に限らず、陸軍は、そして海軍も、いつも「半狂乱」どころか「全狂乱」
すなわち正気ではなかったのである。

そう認めるよりほか、この旧式兵器しか持っていない資源の乏しい貧弱な工業国が、
世界を相手に戦争をしかけるなどという、ありうべからざる現象を説明しようがないと
思われる。

出典:若槻泰雄著 『日本の戦争責任(上)』 第41・43・45・63頁
原書房1995年7月発行

あまりにも無謀な
新規徴兵383万人による労働力不足

日中戦争が泥沼化し、まったく解決の目途がなかったのに、
あまりにも、愚かで、無知であった旧大日本帝国陸海軍は、
無謀にも、新たに太平洋戦争を始めた。

兵力の大量動員を余儀なくされた。

1940年(昭和15年)には157万人であった陸海軍現役軍人数は、
1944年(昭和19年)には540万人へと急増する。
太平洋戦争を始めたため、新たに383万人の徴兵を余儀なくされたのである。
無謀としか言いようがない!

一方で、軍需物資の増産を迫られた産業界では、
383万人新規徴兵による労働力不足が深刻化した。



旧大日本帝国陸海軍は「国民徴用令」なる法律を作って、
女性・学生を勤労動員して、産業界の労働力不足を補おうとした。

朝鮮人の強制連行は、産業界の労働力不足対策の一環として行われた。

1942年(昭和17年)の国民動員計画196万人のうち、13万人の、
1943年(昭和18年度)の国民動員計画239万人のうち、20万人の
朝鮮人強制連行が、計画に織り込まれた。

1944年(昭和19年)には、国民徴用令を朝鮮にも適用し、1945年の
敗戦までには、80万人にものぼる朝鮮人を、日本国内の炭鉱、鉱山、
建設現場などに強制連行して労働させた。

志村英盛訳文 ポツダム宣言

-日本に要求内容を全部受け入れる降伏
(the Unconditional Surrender)
求める米国、中華民国、英国の声明−
ベルリン(ポツダム)時間:1945年7月26日午後9時20分発表

(日本時間:1945年7月27日午前4時20分発表−
発表と同時にトルーマン大統領は、あらゆる手段を使って、
この要求内容
(A statement of terms )を日本国民に知らせるよう指令した。)
 
我々−アメリカ合衆国(米国)大統領、中華民国政府主席、及び
グレートブリテン国(英国)総理大臣は、我々の数億の国民を代表して
協議の上、日本に対してこの戦争を終結する機会を与えることに意見が
一致した。
 
米国、英国、及び中華民国の巨大なる陸軍軍事力、海軍軍事力、
空軍軍事力は、欧米諸国より数度にわたる増強を受け、日本に対して
【止めを刺す】態勢を整えた。この軍事力は日本が抵抗を止めるまで
戦争を遂行するという連合国の決意に支えられ、かつ鼓舞されている。
 
立ち上がった世界の自由諸国の国民の力に対する、ナチス・ドイツの
不毛、かつ無意味な抵抗の結果は、日本国民に対する極めて明白な
先例をに示すものである。
現在、日本に対して集結された軍事力は、ナチス・ドイツに対して
集結された軍事力より、さらに測り知れないほど強大であり、
我々の軍事力の最高度の使用は、日本の軍隊の不可避、かつ
完全なる壊滅、日本国民の国土、産業、及び生活手段等、全ての
完全なる破壊を意味する。これは日本の完全なる破滅を意味する。
 
日本は、無分別な打算により日本を破滅の淵に陥れた自己中心的な
軍国主義指導者が引続き支配するのを認めるのか、あるいは
理性にかなった進路を選択するのかの、いずれかを決定しなければ
ならない。
 
我々の戦争終結のための要求内容(terms)は以下の通りである。
我々は以下の要求内容(terms)を変えることはない。
以下の要求内容(terms)に代わる要求内容(terms)は無い。
我々はこの要求内容(terms)の受諾の遅延を認めることはできない。
注:terms =The details, specifications, obligations,
requirements, and conditions of an agreement, or contract.
 
我々は、無責任な軍国主義が世界より駆逐されるまで、
平和、安全、及び正義の新秩序はあり得ないことを主張する。
それ故に、日本国民を騙して、世界征服戦争に駆り立てた
軍国主義はこの世界から永久に取り除かれなければならない。
7 
上記の如き新秩序が建設され、かつ日本の戦争遂行能力が
破壊されたことが確証されるまでは、日本の諸地点は、我々の
指示する基本的目的の達成を確保するため、連合国が占領する。

カイロ宣言の条項は履行される。日本の主権は本州、北海道、
九州、及び四国、並びに、我々の決定する諸小島に限定される。
 
日本の軍隊は完全に武装を解除された後、各自の家庭に復帰して
平和的、かつ生産的な生活を営む機会を与えられる。
10 
我々は、日本人を民族として奴隷化する、又は、国民として
滅亡させる意図は無い。しかしながら、我々の捕虜を虐待した
者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加える。
日本政府は、日本国民の間における民主主義的傾向の復活強化に
対する一切の障碍を除去しなければならない。
言論、宗教、及び思想の自由、並びに基本的人権の尊重が確立
されなければならない。
11 
日本は、その経済を維持し、かつ公正なる実物賠償の取立を
可能ならしめる産業を維持することを許される。ただし、日本が再軍備を
することができるような産業はこの限りではない。産業維持のための
原料の入手は許される。
日本は、将来、世界貿易への参加を許される。
12 
上記諸目的が達成され、かつ日本国民の自由に表明せる意思に従い
平和的傾向を有し、かつ責任ある政府が樹立されたならば、連合国
占領軍は直に日本より撤収する。
13 
我々は、日本政府が直に全日本軍の無条件降伏を宣言し、
かつ、上記行動における日本政府の誠意について、適当、かつ、
充分なる保障を提供することを日本政府に要求する。
上記以外の日本の選択肢は迅速かつ完全なる破壊のみである。


東京駅付近:Photo by US Army

大阪:Photo by US Army

横浜・関内・伊勢佐木町一帯(画面左下が桜木町駅):Photo by US Army

川崎:Photo by US Army

東京以外の都市の無差別焼夷弾爆撃による死亡者数は、
大阪約1万3,000人、名古屋約8,000人、神戸約8,000人、横浜約5,000人など
合計して約20万人と推定されている。空襲により重傷を負ったものは
合計して約14万人と推定されている。
日本全国の死亡者数と重傷者数は合わせて34万人と推定されている。

主要都市における無差別焼夷弾爆撃による死亡者数:

都市名 死亡者数
東京都区部 83,793人
青森市 1,767人
仙台市 1,066人
長岡市 1,454人
富山市 2,275人
日立市 1,578人
福井市 1,583人
甲府市 1,127人
横浜市 4,616人
川崎市 1,001人
静岡市 1,952人
浜松市 3,549人
名古屋市 8,630人
豊川市 2,477人
津市 1,239人
大阪市 10,388人
堺市 1,876人
神戸市 8,841人
明石市 1,461人
和歌山市 1,208人
岡山市 1,737人
高松市 1,273人
福岡市 1,009人
八幡市 1,996人
鹿児島市 3,329人
合計 151,225人

資料出所:太平洋戦争研究会編著『図説 アメリカ軍の日本焦土作戦』河出書房新社
 【ふくろうの本】2003年3月発行

関連サイト:

@戦没者の60%強140万人は餓死であった

A本土決戦 1億総玉砕−国民を道連れに無理心中!

B日本戦争経済の崩壊-The United States Strategic Bombing Survey

Cノモンハン戦争から学ぶべきこと

D陸自の海外派遣に反対

以上