昔の話だ。

授業が終わるといつも、俺は荷物を手早くまとめ、教室を出て階段を上った。
たん、たん、たんっ…
心なしかその足音は弾んで聞こえた。
それもそのはずだった。あの頃の俺は教室でも浮いた存在で、誰彼と話すこともなく、かといって部活に燃えるわけでなければ、当然勉強にも興味がなかった。そんな俺を支えていたのが…音楽だった。

階段を昇り終えた先にあるのは第一音楽室だった。今では新しくできた第二音楽室が使われていて、この教室が使われることはなく、楽器も移されていってしまった…この一台の古ぼけたグランドピアノを除いて。
「ふぅ…」
やはり、三階分の階段は若い体であろうと容赦はない。俺は一息吐くとかばんをいつもの場所に放り、ピアノの前に腰掛けた。
幸運なことに鍵は掛かっていない。
ポロン…
古ぼけたピアノは少し音がくぐもっており、たまに真ん中あたりのG#がでなかった。しかし、俺の欲求を満たすにはそれでも十分だった。
一ヵ月前、この教室を見つけてから、これが日課だった。入学して三年目、春のことだった。


ある日のこと。
季節は梅雨をすぎ、やがて太陽は焼け付くような日差しを地球に降り注いで数日。今日もまた絶好調な核融合っぷりだ。…暑い。
それも欝といえば欝だが、それ以上に迫り来る期末テストがウザかった。数ヵ月前に第一音楽室(ココ)を見つけてから、俺の成績はうなぎ下りだった。特に数学が苦手で背水の陣だ。どうにかしなければ…と思いつつも、結局はここに来てしまったが。
「ふぅ…」
欝だし今日はショパンのノクターンかな…。そんなことを考えながら、荷物と制服をほかった。ノースリーブで窓を全開にするだけでかなり開放的だった。
ポロン…
ピアノの前に座り、俺は適当に指を鍵盤の上に踊らせた。

程なくして、それはやってきた。
ガララッ
ドアの開いた音がした。珍しくも誰かが来たようだ。俺は気配のほうに目を向けた、が
「………?」
誰もいない…?ピアノの音に気付き帰ったのだろうか?いや、それなら扉も開けずに気付くだろう。一瞬そんなことを考えていると、入り口のそばにある棚の影から音の主が姿を現した。目が合い、
「あ…」
「あ」
声があった。
棚にも隠れてしまうほどの小柄な少女。その姿に見覚えがあった。
「………。」
少女はポカンと口を開けたままこちらを見ている。
綺堂 出海。それが彼女の名前だった。何故俺が彼女の名を知っているかと言えば、彼女はうちのクラスメイトだった。…いやしかし、クラスメイトでなくても彼女の存在を知るものは多いだろう。その小柄な容姿と整った貌立ちは学校中の、特に男子生徒に、知れ渡るに易かった。
「桜内…くん」
ふと、少女が俺の名を呼んでいた。声色に少しだけ驚嘆を込めて。
「いつもここで弾いてるの?」
傍に来ると、くりっとした瞳で上目遣いで聞いてくる。まぁ、この人の場合、誰に対してもそうなんだろうけど。
「あぁ、何ヵ月か前にここ見つけてから」
「へぇ…ピアノ弾けるんだぁ、凄いなぁ」
はにかみながら、ポンポンと白鍵をならす。
こんなふうに誰とも接することが出来るのも人気の秘密だろうか?
「綺堂さんは?ピアノ弾きに来たわけでもなさそうだけど」
「あぁ、私はこれ」
そういって、手提げからノートと教科書を取り出して見せる。
あぁ、この人も嫌なことを思い出せる。
「…ここ、誰も来ないから。テストのときはここにきて勉強してたんだぁ。図書館より静かだよねー。」
えへ、とか聞こえてきそうな笑顔を作る。
「そっか」
ギシ…と椅子が軋みをあげた。
俺は腰を上げるとほったらかしていたカバンと制服を拾い上げ綺堂さんに背を向けた。
「え…どこに行くの?」
「帰る」
「え…」
「邪魔だろ俺」
そうだった。彼女は勉強。俺はピアノ。彼女がどれだけ勉強しようが俺は構わないが、俺がピアノを弾けばその妨げになるに決まっていた。
「え…そんなことない。桜内くんピアノすごくうまいし、別に帰らなくても…!」
そんな言葉を背中に受けた。だが俺は気にせずに、
ガララ…バタン
第一音楽室をあとにした。

翌日。テスト一日目。
適当にテストを終えると生徒は帰るもの、残って勉強するものと疎らになった。
俺は第一音楽室向かったけど。綺堂さんはこなかった。まだテストは続くと言うのに、ここに来ている俺も俺だが。一日お預けを食らっていた俺は指を鍵盤に踊らせた。
テスト二日目…の放課後。
この日も綺堂さんはこなかった。
彼女の特等席をとってしまったかな…なんて思った帰り道。廊下でつい最近見知った小さな背中がトテトテと歩いていた。
「綺堂さん…」
「あ…」
「隣でやってたのか…。言えば、テストのときぐらいこなかったのに…」
どうやら彼女は昨日も隣の空き教室を使っていたらしかった。俺が肩を竦めてみせると、
「ピアノ」
「え?」
「私がいると、ピアノ、弾かないでしょ?」
「………。」
確かに、人前で弾くのは好きじゃなかった。
しかし、それ以前に俺は人の勉強の邪魔を好んでするほどの悪趣味じゃない。それだけさ。 「邪魔だなんて思ってない」
…こいつはエスパーだろうか?
「桜内くんのピアノはとても無表情で氷みたいに綺麗。でも、どうしてだろう。無表情なのに、その旋律が悲しそうに聞こえたんだ」
「………。」
「おかしい、って言ったら少し失礼かも」
少女はてへへ、と笑って続ける。
「教室ではなんの表情も見せない、見えない桜内くんが、ピアノの旋律だけには、垣間見える」
「そーかい、よかったね」
俺は適当に答えた。自分でも気付いちゃいなかったけれど。
ノクターン一番、悲愴、チゴイネルワイゼン、その他最近の曲やらえとせとら。
俺の持っている楽譜にはどれもこれも、一概に暗い、とは言わないが、確かに、明るい曲は含まれていなかった。
こいつ…
「…テストが終わったら」
惚けてる俺に綺堂さんが言った。
「今度はちゃんとテストが終わってから来るね」
そういって笑うと、彼女は立ち去っていった。
それから、テストが終わるまで彼女が来ることは無かった。

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夏休みが終わると、また学校に喧噪が戻った。
…まぁ、俺は数学の補習で休みなど無かったが。
放課後の喧噪は以前にも、夏休み前にも増して、騒がしくなった。いまだって遠くから下手くそなブラスバンドの音が聞こえる。
それもそのはず。来月…10月半ばには、文化祭が待ち構えていた。
「………。」
残暑から逃れるために開けていた窓を少し閉め、俺はピアノの前に座る。
するとタイミングを見計らったかのように第一音楽室の扉が開いた。
ガララ…
開けて、しばらくは棚の影からは見えない気配。そして
「久し振り」
残暑など何処吹く風、清涼感を含む声で、そう言った。
休みが明けて三日目か。まぁ、久し振りか。
俺は無視してピアノを弾き始めた。

「桜内くん、ピアノ、うまくなった?」
「…そうか?」
しばらくして。何曲か弾き終えたとき、綺堂さんはそう言った。
俺はリアクションは薄い方だが、まんざらでもない表情だったのか、綺堂さんは笑った。
「うん、なんか前より綺麗っていうか、滑らかっていうか…」
「なんだよそれ」
「なんとなくだよ。休みの間も練習してたんだ。がんばるね〜」
「ま、まぁ…」
「もしかして、ここでしてたの?」
「う…」
俺は言われて言詰まる。
確かに、俺の腕の上達に関しては、それほどでもないが実感はある。
何故なら、彼女の言葉通り、休みの間ずっとここで練習してきたからだ。
だが、その理由は情けなさ過ぎた。
「まぁ、な。ずっと補習だったからな、俺」
「え?」
聞き返してしばらく、くすくすと彼女は笑った。
「やっぱり」
「やっぱりって…なんだよ」
「だって私、桜内くんが勉強してるとこ見たことないもん。授業はいつも寝てるし、テスト直前なんかみんな廊下で勉強してるのに一人だけ教室に入って机に突っ伏してるし。でも、その余裕っぷりがみんなに誤解させてるんだけどね。みんな桜内くんのこと頭良いほうだと思ってるんだよ」
…彼女の言うとおりだった。俺のクラスの認識は意外だったが(そもそも俺は認識されてるのか)、こと、自分のしたいこと以外となると急にやる気がなくなる。まぁ、誰でもそうなんだろうけど。
「で、なんで綺堂さんは"やっぱり"なんだ?」
「んー、私もそうだと思ってたんだけど、休み前にピアノ弾いてるところ見たとき、本当はこの人は違うんじゃないかって。」
「なかなか失礼な奴だよな」
「ふふ、そうかも。がんばってるのは勉強じゃなくて、こっちなんだって」
「………。」
俺はピアノに向き直るとまたピアノを弾き始めた。

数週間後。文化祭まで2週間弱か。
放課後に、綺堂さんが第一音楽室に来る頻度は多くなっていた。
なんでも、受験勉強は今の内から、らしい。図書室にでも行ってやればいいのに。
っていうか受験するんだな。俺は…まだ決めてない。
だから、俺はまた邪魔になるから、なんて言うと
「気にせずに弾いてて良いよ。それに静かな場所だと逆にやりづらいんだよ」
…教室帰れ。俺が弾きづらいわ。
それに教室に帰ってもいまの時期だと文化祭の準備の邪魔になるらしい。
クラスの催し物の手伝いをしなくていいのか、と問うと、
「今年はうちのクラス、露店だから、クラスの委員の子たちが主だってやってるの。私たちはそんなに手伝うことないし。って、桜内くん、うちのクラスの出し物も知らなかったんだ…」
逆に呆れられた。
「まぁ、HRは大抵寝てるしな…」
そして露店でなにを売り出すというのかも、さして気にならない。
やれやれ、と言った表情で古ぼけた教室の、これまた古ぼけた机の上に受験対策用と覚しきノートを広げていた。
俺もピアノをまた弾こうかとピアノのカバーを開け布をとると(使われなくなったとはいえ、ちゃんとしないとな)、校内放送が鳴り響いた。
ぴんぽんぱんぽ〜ん
音階にしてドーミーソードー、っていう例の音が鳴り響くと、放送委員か、連絡事項を告げた。
「文化祭実行委員会から連絡です。」
声の主は女の声だった。
「文化祭の1日目、2日目に各クラスで体育館で行うパフォーマンス担当の人は、これから概要と段取りの説明するので、第一大講義室までお願いします。1-Aの中島君、後藤君…」 うちの学祭は、1日目と2日目とで分かれていて、各クラスで行われる催し物とは別に、午後に体育館で行われる催し物にクラスごとで参加する。
まぁ、要は発表会と言ったところか。
1日目ではクラスの中から代表者が1人、2日目は代表グループで発表する。
1日目は毎年緊張の一瞬だ。クラスからの犠牲者が死を覚悟で一人旅立つのだ。大抵は一人で芸人のマネをして笑いをとったり、クラスの催し物の説明をして終わる。
2日目は、グループという分け合って、発表のバリエーションに富んでいる。うちの学祭のメインイベントみたいなモノだ。
先ほどのようなコントの他、バンド演奏や、クラスぐるみの演劇など、なかなか規模はでかい。
まぁ、どのみち関係ないし、余計な音が入ってくるのはあまり心地よくない、俺が教室のスピーカーの下にあるつまみをゼロにしようとしたときだった。 「…、3-D桜内くん、藤原くん、…」
………。
「…なに?」
「…繰り返します、1-A中島くん、…」
…その情報に間違いが無ければ繰り返さないで欲しかった。
俺の名字は桜内とかいて"さくらい"と少し特殊なカタチで読む。
被っているヤツがいたら、いくらオレがクラスに関心が無くても気付いている。
…詰まるところ、俺のクラスに桜内は俺だけだった。
「…、3-D桜内くん、藤原くん、…」
スピーカーから聞こえる声は、最初に聞こえた通り、俺の名を呼んだ。
俺はスピーカーに伸ばしかけていた腕を引っ込めると少し考えた。
勿論、自分でそんなのに立候補するなんて面倒くさいことはしない。と、するとだ、誰かが俺を勝手にエントリーしたと言うことか?HRで寝ている間にでも根詰まったクラス発表に委員長か担任の教師(名前は忘れた)あたりが俺を抜粋したのだろうか?
いやしかし、俺のやる気のなさは周知の事実のハズだ。それに俺が何かできるような人間であることはアピールした覚えは…
「………。」
ふと、俺がピアノを弾けることを知っている奴が、俺のクラスには一人だけいた。
…嫌みなのか、振り返るとそいつはそこで、机に座ったまま朗らかに笑っていた。
「推薦しちゃった」

「冗談じゃねぇ、俺はやらねーからな。」
大講義室から第一音楽室に戻ると、綺堂さんが俺にいつものように上目遣いで「どうだった?」と聞いてきて、その返事がこれだった。
俺は、どうやら知らぬ間に一日目の、一人での発表に推薦させられたのだ。俺には毛頭やる気もなく、無論、実行委員にも、話を取り消してもらった。
でも、綺堂さんは
「えー、なんで?やればいいのに」
などと勝手なことを言う。
「桜内くん、ピアノ上手いからみんなビックリするよ!」
「あのなぁ」
俺はため息をつくと、説明の足りないこの娘に口を開いた。
「俺は、みんなに聞かせたくて音楽やりたいんじゃねーし、言っただろ?人前で弾くのは苦手なんだ」
まさか、綺堂さんはそれを知っていて、このために俺のところに来ていたのだろうか。
…人前で弾くことに慣れさせるために。
「だから、俺は出ない」
「そっか…」
肩を落とす。良心が少しばかり傷むが、あとでヘマをしないためにも俺は無難な道を選んだ。
「ごめんね、勝手に推薦しちゃって」
「…わかってもらえたなら、いいよ」
その言葉を最後に、俺達は第一音楽室をあとにした。下駄箱で綺堂さんが「じゃぁね」と言うまで、沈黙が続いた。
外に出ると、風が、秋色に変わり始めていた。まだ夏服の俺としては少し寒かった。

そして翌日。事件は起こった。

いつも通り登校、教室の隅の自分の席に座り、突っ伏す。いつもは気付けば一限目の真ん中あたりで目が覚めるのだが。今日はそうもいかないようだった。
HR中に、俺の名前が呼ばれた。
「おい、桜内…、桜内!」
「ん…」
俺は仕方なし、机から体を起こすと前を見た。担任教師が俺を呼んでいる。
「…なんですか」
「お前、一日目でないのか?実行委員からキャンセルしたから早く決めろって言われてるんだが」
今朝のHRは学祭の発表についてだった。
「…ぁあ、俺は出ませんよ。他の奴にでも頼んでください」
「う〜ん、どうするかなぁ…」
そんな言葉を最後に聞くと俺はまた机に突っ伏した。綺堂さんがこちらを見ていたような気がした。…少しバツの悪そうな顔をして。

HRが終わると教室に再び喧噪が戻った。
「おぃ、やっぱり桜内のソロはデマだったらしいぞ」
「誰かの悪戯か?」
「誰でも良いから代わりに一日目出てくれないかな〜」
みな、口々にそれぞれの思いを呟く。まぁ、俺には関係のないことだが。
そのとき、誰かの気配が俺の席に近づいてきた。
「おぃ」
「………。」
「おぃ、ツってんだよ桜内!」
ガッ!、と机を蹴られる。
仕方なく体を持ち起こすと、俺の前で4人の男がガンくれていた。
机を蹴ったのは、やや茶色に染められた髪、ピアス孔の開いた耳…そんな不良スタイルの持ち主の名は藤原といった。
俺は藤原たちに連れられて廊下に出た。

「…なんだよ」
「お前ザけてんのか?やる気もねぇのに勝手にクラスの代表になって、それでやりませんだと?」
「………。」
「おぃなんとか言えコラ!」
「なんとか」
「フざけんな!!」
ガッ!
藤原の拳が俺の頬を捉えた。
「ッ…!」
声にならない声をあげ、俺は廊下の壁にもたれた。
気付くとすでに廊下の見物になっていた。ザワザワと、何人か生徒がこちらをチラ見している。
「おぃテメーら、見せモンじゃねぇぞ!」
藤原のツレが声を上げて、生徒たちは散り散りになっていった。
藤原が俺に向き直った。
「お前ピアノ弾けるらしいよな」
「…それがどうした」
「調子こいてんじゃねぇッ!」
ドス!
「ぅ…ッ!」
「俺はテメーみたいなヤローが嫌いなんだよ…一緒にいるだけで虫酸が走る…」
「………。」
奴の蔑んだ視線と、俺のやる気のない視線が交錯した。
だったら無視すりゃいいのに…。つくづくそう思った。
「なんだよ、何か言いたげじゃねぇかよ、ぁあ!?」
俺の胸ぐらを掴むと、拳を構え、振りかぶり―――
「待って!」
静止の声が入った。
教室の扉から出てきたのは、綺堂さんだった。
俺達の方に歩いていくると、静かに俺を弁護し始めた。
「ごめんなさい…私が桜内くんを勝手に推薦してしまったの…」
綺堂さんは、伏し目がちにそう告げた。そしてその瞬間、
ガスッ
再び俺の頬に衝撃が走った。
「藤原く―――!?」
「うるせぇ!」
藤原は綺堂さんに向き直ることなく一喝すると、俺に言った。
「なんだよお前?綺堂さんに取り入って、バカじゃねぇのか気持ち悪ィ!」
そこまで言ったところで、一限目担当の教師が現れ、舌打ちし、連れと共に教室へと引き下がっていった。
俺は、無様に廊下に崩れたままだった。
「桜内くん、だいじょう…」
「戻れよ。」
「え…」
「一限始まるから、教室、戻れ」
「う、うん…」
すると綺堂さんもすんなりと引き下がっていった。
一日の始まりとしては最悪の部類だった。

放課後…第一音楽室に向かう途中、また藤原たちに絡まれた。
「おぃ」
「………。」
「シカトこいてんじゃねぇよ!」
ガン!
掴まれ、ボディブローを浴びる。
俺は今朝のダメージもあってか、そのまま階段の踊り場に崩れた。
「………。」
「………。」
無言のまま見つめ合う。無論、雰囲気は最悪だ。
今度は俺の方から口を開いた。
「お前…俺にどうして欲しいんだよ。」
「うるせぇ!お前なんか…消え失せろ…」
藤原の瞳には、宿っていた。憎悪が…。
「ちょっとピアノが弾けるくらいでいい気になってんじゃねぇ…」
「………。」
「お前一人の所為で、俺らが笑いモンになんだぞ、ぁあ!?」
「………。」
「お前のくだらねぇ音楽のせいで、3-Dのおぶっ!?」
あまりにもこいつの言うことが子供染みていたので、無視を決め込んでいたが…。だけど。
「何がくだらねぇんだよ…」
やはり、俺にだって言われてムカつくことはある。
「テメー…」
俺はベラベラと五月蠅い藤原を蹴り上げていた。体勢を崩した藤原の目が、鋭くなった。

「お前のやってること全部だよ!」
そういって、殴りかかってきた。

それから先は覚えていない。ひたすら、藤原と殴り合ったことを除いて。
藤原の取り巻きが流石にやばいと思って教師を呼んできたのか、俺達の殴り合いは静止させられた。
どうやら取り巻きは藤原ほどバカではなさそうだった。

第一音楽室に行くと、そこには既に綺堂さんの姿があった。
「あ、遅かったね…って!」
彼女の言葉は途中で途切れた。
「わ…だいじょうぶ?また藤原くんにやられたの?」
「あぁ」
「ごめんね、私が勝手に桜内くんの…」
泣きそうな顔で謝る。
「だいじょうぶだ。あいつの顔も、同じくらいボコボコにしてやった」
「え?」
暗くなりつつある空越しの窓を鏡代わりに自分の顔を見て、腫れたところに触れてみる。
…思ったより非道かった。藤原の方がちょっとマシかも知れない。もっと殴ってやるべきだった。
「なぁ、綺堂さん。」
「なに?」
「さっき学祭の実行委員会の所に行ってきた。」
「………。」
「…俺さ、発表出るよ。」
「…!」
窓の外を見つめたまま、俺は綺堂さんにそういった。
空はまだ明るすぎて、窓の鏡は綺堂さんの表情までは映してくれなかったけど、少しだけ空気が和らぐのが分かった。
「…どうして…」
「全く…最悪だぜ…。ホント、なんで俺がこんな面倒なことをやらなきゃいけないんだか」
言いながら、俺はピアノの蓋を開け、布をとり、椅子に座る。
「でもさ、嫌なんだよな。」
「…?」
「確かに、俺は誰かと干渉を持つのは好きじゃないけど…」
「けど…?」
綺堂さんの問い返しに俺は鍵盤を叩きながら続けた。
「これまで俺を支えてくれたのはこいつ、こいつらなんだ…。それを、愚弄するのは…」
「桜内くん…」
「単純だよな、俺…」
言って、自嘲気味に笑っている自分に気付く。顔も腫れて、情けないことこの上ない。
「ごめんね」
「…何謝ってるんだ?」
「私が勝手なことしなきゃ」
「だからもういいって。過ぎたことは…しょうがない。あいつらに聞かせてやるさ。俺の音を…」
そして、また、鍵盤に指を滑らせる。
いつもと違う音に聞こえた。

二日後。俺は二日ぶりに登校した。
まず、腫れた顔というのは無様だったし、なにより、作曲に時間が必要だった。残された時間は一週間と少し。曲作りで時間をとるわけにはいかない。俺は二日間で曲を完成させ、下準備をした。
教室へ行くと、藤原がガンを飛ばしてきた。一指触発…そんな空気が教室内には流れており、誰しも、俺と藤原に話しかけなかった。学祭前のムードとしては最悪だったが、幸い、クラスの出し物やらに関しては問題ないようだった。


そしてその放課後。


「…なんで二日も学校休んだの?」
綺堂さんがいつもように問う。
「曲を作ってたんだよ」
俺もいつものように蓋を開け布をとり、ピアノの前に腰を下ろす。
「…オリジナルなんだ…!」
「…言っただろ。コピーなんかじゃ俺の音なんて言えないんだ」
「聴いてて良いかな?」
「御自由に」
えー、いまから聴くとあとの楽しみが減るし、でもちょっと興味あるし〜、なんて一人で問答を繰り返す綺堂さんを放っておいて俺は練習することにした。
ポロン…

「こんなもんか」
曲を作り終えても、弾けるようになるわけではない。やっと通しで弾けるようになると俺はいったん指を休めた。
「へぇ…」
「…どうした」
「なんか、不思議な感じ」
「…そうか」
まぁ、俺はピアノを弾くのは好きだが、天才的に上手いわけでもなく。弾き始めの曲をこの人の前で披露するのも初めてだし、下手と言われてもぐぅの音も出ないが。
「最初はいつも弾いてる曲みたいな感じだったんだけど…。途中から、変わった。」
「………。」
「なんていうか、ピアノがいきなり小さくなったって言うか…」
ふむ。
最初会ったときもそうだったが、この娘、やはり聞く耳を持っているな…。
「綺堂さん、なんか楽器やってるか?」
「え?私?私は全然なにも…。小さい頃にちょっとピアノをやってただけで」
「そうか。続ければよかったのにな。勿体ない」
「?」
綺堂さんは終始「意味が分からない」といった顔をしていた。
俺はそれを無視して練習を再開し、曲の諸処のアレンジにかかった。


練習とアレンジを繰り返す日々が過ぎ、そして本番前日、ゲネプロを通すこととなり、出演者は体育館に呼ばれた。
そこには藤原の姿もあった。
「よう、腰抜け、ちゃんと来たみたいだな」
「………。」
無視だ無視。
「チ、感じ悪ィヤローだぜ。」
…お前だけには言われたくない…。
見ると藤原はスティックと思しき物を持っており、また藤原とその仲間たちもその肩にソフトケースを携えていた。
一人何も持たない奴がいるが、彼がヴォーカルなのだろう。どうやらこいつらはバンドとして出演するらしかった。
(…なるほど、くだらない音楽、ね…)
と、そこにやっと実行委員が来てなにやら紙を配りながら説明を始めた。

俺は体育館二階の控え室にいた。勿論、藤原たちもいる。
軽い講義室クラスの部屋で、実際広く、人数からしても丁度の良い配室だろう。
ゲネの段取りはこうだった。
最初に一日目のソロ出演者がその順番通りに通し、二日目にグループがまた順番通りに通す。
その間にさっき配った紙…PAシートに必要事項を書いておけとのことらしい。
ちなみにいまは一日目の出演者の最初あたりのようだ。
そして…
「3-Dの桜内さん、そろそろスタンバってください」
俺の順番は頭でもなく、またトリでもない、微妙なポジションだった。
部屋から出る際に、一瞬、藤原と目があったのを覚えてる。


ステージに機材はもう入っているらしかった。下手にPA卓が設けられている。そこにエンジニアと思しき人がいた。
俺に気付くと、こちらへ歩いてきた。
「次の出演者さんですね。今回のPAです。よろしくお願いします。」
「お願いします。」
今回と言ってもな…学祭なんて去年も一昨年も全然参加していなかったからな…。しかし、学校側も結構やるな。まさか業者を連れてくるとは。
俺はそんなことを思いながらPAシートを渡した。
「ほほぉ、ピアノと…ん?打ち込み?」
「あぁ、はぃ、これです。」
俺は鞄からMDを取り出した。
「あぁ、録音を使うと言うことかい?」
「えぇ、MDはだいじょうぶですか?」
「うん、だいじょうぶ、使えるよ。えぇと、…」
PAはPAシートに目を落としてから色々質問を始めた。
「どんな音使ってる?」「どんなタイミングでながす?」などなど…。
一通り質問を終えたのか、PAは一息ついて、いった。
「ふん、だいたいわかったよ。しかし君も一人なのに手の込んだことするね」
「それほどでも」
「じゃぁ、通してみるよ」
「お願いします」

「それじゃ、もう少しミドルをあげて」
「そうですね、当日もこんな感じのイコライジングで」
「おっけ、わかった。お疲れ様。」
一通りどころか二通りも三通りも演奏して、PAと相談する。
完璧に演奏しやすいように調整してもいいのだが、如何せんただの学校の体育館だ。音ヌケも悪く、なにより妙に耳に残るリバーブのたちが悪い。どちらかというとそちらに重点を置いて調整した方が良いのではないか。
そんなことを考えていたが、ふと、時計を見ると俺に当てられた時間は既に数分オーヴァーしていた。

第一音楽室に戻ると、珍しくピアノの音が聞こえた。たどたどしく、聴いていて少し不快感を覚える。誰が弾いてるんだ…なんてのは愚問か。
俺は扉を開けた。
「よ、なにやってんだ」
「あ…」
「綺堂さんはここに勉強しにきてるんじゃなかったのか」
「え、うん、ちょっと休憩中」
ピアノ用の椅子に座りながらえへへと笑った。
「リハは終わったの?」
「…まだだな。音に関しては大丈夫だが、今日は音響しか来てなかったからな」
「音響だけって…桜内くん他になにかやらかすつもりなの?」
ん…しまった…。ついぞこの口が…。本当は照明とも合わせようと思っていたのだが…。そこまでする奴はいないのか、学校が単にケチなのかは知らないが、前日に照明担当は呼んでいないようだった。
俺は平静を装ってしれっ、と答えた。
「ん…いや、別に。ちょっとピアノの詳細を聞きたかっただけだよ。ほら、ピアノってここにあるグランドピアノと第二音楽室、体育館のと、どれも違う音出すだろ?」
「…ふぅん?まぁいいや」
訝しげな視線だったが、なんとか振り払えたようだ。
「それで?明日もリハがあるんだ?」
「あぁ。とは言っても今日でだいたい調整できるからな。希望者だけだよ」
「へぇ、随分とやる気なんだ」
「そうだな。もうこんなやる気出す機会なんて無いかもな」
俺は話しながら教室に置いてある机から椅子を持ってくると、綺堂さんの隣に置いて座った。
「よっ、と…ところで、…綺堂さんホントにピアノやってたのか?」
「え?うん、どうして…」
「さっきのアレ、非道かったぜ」
「えー!聞こえてたの!?」
「あぁ。っていうか、綺堂さんだって俺のピアノ、隣で聴いてたときあっただろう…」
「あぁ、そういえば…」
意外と天然なのかも知れない。
ピアノってのは意外と弱く弾いても結構音が通る。古くなったこの部屋なら尚更だ。まぁ、俺だって誰かに聴かせるために弾いてるわけではないが。
「あ」
思いついたように綺堂さんが席を立つ。
「ごめん、練習したいんだよね」
俺に椅子を差し出す。しかし、俺はそれを断った。
「いや、いいよ」
「え、どうして?明日本番だよ?」
「綺堂さんも知ってるだろ?テスト直前とかもそうだけど、俺、いまはなんもやりたくないんだ。やると逆にほころびを見つけちまってさ…カッコ悪いことにそれで焦るなんてアホすぎる」
「…そうなんだ。でもテスト前は単にやる気無いだけなんじゃないの?」
「…かもな」
ふふ、と笑った。
「それに、綺堂さんもピアノ弾きたいんじゃないのか?」
「え?私はそんなに弾けないし…」
「そうだな、さっきのアレは勘弁願いたい」
「………。」
ジト目で睨まれる。俺が悪いのだろうか?
「だ、だから、一緒に弾いてやるよ。」
「ほぇっ?私弾ける曲なんて…」
「綺堂さんはそのへんの鍵盤テキトーに押してて良いよ。こうやって、…」
ぽろん、ぽろん、と鍵盤を単音で等間隔で叩く。
「んで、そうだな…fだけは弾かないでくれ」
「えふ?」
「あ、あぁ、ファ、かな」
ポンポンと、白鍵が二つ並ぶ、その右側を叩いてみせる。
「え、うん…」
これは状況がまだ読み込めてないな…。だがこういうのは習うより慣れろだ。俺は強引に連弾を始めた。
「そんじゃいくぞ。」
「え?え?」
「せーのっ」
ポロン ポロロロロン
ポロン ポロロロロン…
………。
……………。
…………………。
「すごい…曲になってる…!どうなってるのこれ!?」
「さぁ、な…」
驚嘆する綺堂さんに対して俺は曖昧に答えた。
音楽に馴染みのない人にやると大抵は驚いてくれる、ささやかな俺の魔法だった。そのネタは、ただ単に押してはいけない鍵盤を決めて調を決定し、あとは相手の指の動きを見ながら曲になるようにコードを繋げてテキトーに弾く…といったものだった。
綺堂さんはかなり良いリアクションの持ち主だった。
昔からこういった音遊びは本番前によくしていた。ある程度弾けるようになれば、いざというときに対してのアドリブを考える力があった方がいいしな。
今日は綺堂さんの受験勉強は捗らないようだった。


さて、翌日。俺は当日リハのために早めに登校していた。
俺はリハの時間が近づくと教室に鞄を置き、体育館へと向かった。

「よろしくお願いします」
「お願いします」
今日は照明さんにも演出を頼まなければならなかった。
「ここでいったん音が切れるんで…」
「ふんふん、じゃぁここで…」
「一度通してみましょう…」
「了解です」
そんなやりとりが続いた。
………。
……………。
…………………。
ジャーン!
演奏が終了する。
「どうですかー!?」
下手のPA卓からPAが叫ぶ。俺も叫んで答えた。
「だいたいオッケーです!」
「了解でーす!」
「照明のタイミングどうでしたかー?」
「だいじょぶでーす!」
「はーい!」
とりあえず、カタチは完成したようだった。あとはテキトーに第一音楽室で指ならしでもしようか。
「あ」
、と思い出した。
「すんません、コロガシもう少し近くにもってっても良いですか?」
コロガシとは地面に置くタイプのモニタースピーカーだ。今回は録音の音に合わせるので、聴きながらでないと弾くことは出来ない。しかし、あまりに遠くに置いて大きい音を出すとピアノ用の集音マイクがモニターからの録音も拾ってしまう。音のバランスが崩れるのだ。 「んー、じゃぁ板用のテープあるから」
PAはひゅぃっとテープを投げて俺に渡した。俺はいまのモニターのカドに合わせて、テープを貼った。
モニターを動かし、
「じゃぁ、すんませんこのくらいの位置でもう一回お願いします。」
「は〜ぃ」
こうしてリハは終わった。

祭りの風景は賑やかだった。あちこちで風船やらが飛び交い、屋台から煙が上り、特設ステージからはバンド演奏などが聞こえてくる…これらは午後のステージとは別の物のようだ。 まぁ、うちの学校の学祭は一般公開してるしな。人も来る。
俺は第一音楽室の窓から中庭を見下ろした。
「ふぅ」
今年も結構人がきてるみたいだ。…別に人混みが嫌いではなかったし、祭りが嫌いというわけではない。しかし、今日の午後にステージを控えているのが鬱だった。
(緊張しているのだろうか…)
そんな風に思っても見たが、どちらかというと面倒くさい、という思いが7割ほどを占めている気がする…。
「ふぅ」
もう一度ため息をつくとピアノの前に座り直した。

昼メシに他のクラスの出し物の焼きそばとフランクフルトを調達をしてきて、少し。1時ちょっと過ぎくらいに綺堂さんが来た。
「あ、いた」
「わ、ほんとだ、桜内くんこんなとこでやってたんだぁ」
「こんなとこうちの学校にあったんだねぇ〜」
どうやら今日は連れだってやってきたらしい。彼女らの好奇心の視線に俺は少し、動物園のパンダに同情を覚えた。
「がんばってる?」
「がんばってない。俺は本番前はリラックスする主義なんだ。…そういえば綺堂さんが誰か連れてここに来るのも珍しいよな」
「そうそうこの子いつもこうやって一人で抜け駆けするんだから」
「なにげにテストの成績いいんだよ、こいつ〜」
友人と思しき女生徒が綺堂さんを小突きながら言った。

談笑してどれほど経っただろうか。
まぁ、主に談笑してるのは綺堂さんを含む女生徒3人で俺はボーッとするかピアノを弾いてるかくらいだ。放送のチャイムが第一音楽室に、学校に鳴り響いた。
ぴんぽんぱんぽーん
「文化祭実行委員です。これから午後のステージに上がる人は体育館に集まってください」
ぴんぽんぱんぽーん
やれやれ、行くか。腰を持ち上げる。
「いよいよだね!がんばってね!」
「あたしら、一番前で見るからね」
「…せんでいい」
俺は鍵盤に布をかけ、鍵のない蓋を閉めると、後ろで談笑する少女たちを残し、第一音楽室をあとにした。

体育館に行き、簡単な説明を実行委員から受けると、俺たちはこの間のゲネの時の控え室に移動した。
2日目の奴らがいないので、部屋は妙に広く感じられた。
ブーーーーーーーーっ
遠くでアラートが聞こえた。喧噪が静まっていく。続いて学祭実行委員の声が聞こえ、生徒会役員の声が聞こえ、校長の声が聞こえた。
鬱陶しい前置きを聞かなくて済むのは少しラッキーかもな。その代償は大きいが…。
やがて
「それでは最初の人お願いしまーす!」
「あ、はぃ…!」
俺の隣の奴が腰を上げると実行委員に連れられてステージへと向かっていった。…ぉお、まるで処刑台へ向かう罪人のようだ…。苦笑せざるを得なかった。
そして、とうとう俺の番がやってきた。
「はぃ、次の人スタンバってくださーい」
「はぃよ」
軽く伸びをすると俺は実行委員について行った。

体育館内部の舞台裏を歩いてステージを向かう。
「こんなトコあったんだな…」
「ウチの体育館、市でも一番大きいらしいですよ。部活の他にも休日とか一般の人も使ってるんですよ…。入学したときに聞きませんでしたか?」
実行委員の子は親切に教えてくれた。
「入学って…2年も前だからなぁ、忘れちゃったよ」
「くす、ダメですね。」
なんて話してると、やがて行き止まりになった。
「どうぞ、この扉の向こうがもう袖ですので」
「あぁ、ありがとう」
「がんばってくださいね!」
それだけいうと他にも仕事があるのか、実行委員の子は去っていった。
扉を開けると、独特の空気が漂っていた。たかが体育館だが、いまここは舞台袖と化しているのだ。幕の向こうに、いまやっている一人コントの様な物が見える。…残念ながら笑い声は聞こえない。
「………。」
ぞっとしないな。俺は歩いてPAの所へ向かった。
「…ちっす」
「お、君か。桜内くんだったね」
「はい」
「いまの子は音響ほとんど使わないからモニターはもう移動させといたよ」
見るとモニタースピーカーが一つ、ピアノの側のテープが貼ってある場所に設置されていた。
「どうもッス」
「緊張してるかぃ?」
「まぁ…。でも、良い緊張かな」
俺は正直に言った。やる気の有無に関係なく緊張はする。それに今回は…藤原にバカにされるは癪だしな。
そして、あと数分で目先の舞台は俺の空間になる。スポットが、視線が俺を捉えるのだ。…スポットはねぇか。簡易照明だけって照明さんも言ってたな。
「そっか」
笑顔のまま、PAはそれだけを俺に返した。
「最初はやる気無かったんだけど…やっぱこの空気に触れると」
「ははは…君もバンドマンなんだね」
「…そうかも」
「お、終わるみたいだよ。準備して。」
「うぃっす」
そして、俺の発表が始まった。制限時間5分の戦いが…。
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「ったく、めんどーだったぜ…」
「でも、桜内くんすごかったよ。会場の人、みんな驚いてたもん」
演奏が終わると俺はさっさと教室に戻り、荷物をまとめ、第一音楽室で自販機で買った缶コーヒーを飲んでいた。そこに綺堂さんが訪れてきたという次第だが。
「はぃはぃ。で、いいのか?」
「え?なにが?」
「今頃クラスのやつら、みんなでつるんでんじゃないの?」
「いいよ、別に」
「そうか」
綺堂さん曰く、彼女の担当は今日の午前中だったらしい。まぁ俺なんて担当の枠すらないが。
「それに桜内くん、明日どうせ学校サボるでしょ」
「………。」
ピアノと言い、ここにいることと言い、明日のことと言い、綺堂さんは、よくもまぁ色々と俺のこと見透かす。少し感心していた。
「ねぇ、さっきのもう一回聞かせてよ」
「やだよ。それにここMD再生できる機器とかないし、なによりめんどくさいし」
「えー、MDなくても弾いてたのに」
「それは、本番前に、録音のこと言いふらされてもな…」
「じゃぁ、私が弾くよ」
綺堂さんは、トテトテ、とまさにそんな擬音が相応しいような小走りでピアノのもとへいくと、蓋を開け布をとり、「こんな感じだったかな〜?」と、なにやら奇怪なメロディーを奏で始めた。はぁ〜。なんか疲れるなぁ。ここ最近の疲れは全部この人にあるような気がする。
「あー、わかったよ、俺が弾くよ!」
空の夕焼けが宵に染まろうとしていた。




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のちに、実行委員の方で発表を録音していると確認したので、ここに記すことでもないであろうが、一応、記しておこう…。
実際、俺もよく憶えてないんだけどな。

発表の録音はこちら

「えーっと、次は3-Dの桜内君ですね」
俺は名前を呼ばれ、ステージに出ると実行委員の司会者の言葉のタイミングなど無視し、客席の方に顔を向けることなく、ピアノへと向かった。その間…一瞬横目で客席を見た。…綺堂さんはほんとに真ん前に座っていやがった。そして…一瞬、藤原と目があって、オレと藤原は目を細め、背けた。
ギシ…
椅子に座る音さえ館内に木霊する。
「桜内君はピアノを…」
司会者がウザいので
ポロン…
と音を出すことで牽制する。
「お、お〜っと、そ、それではどうぞ…!」

司会者が袖に隠れるのを確認すると俺は鍵盤に指を滑らせた。
ポロロン…
最初はゆったりと。
ゆったりと入り、高音部だけの演奏、そこから階段、スケールを速く弾いたりと、続けざまに展開させた。制限時間内でやるための計算だった。
ジャーン前半が終わると一度暗転する。そのとき、綺堂さんの顔が「あれ?これだけ?」ってなってた様な気もする。時間がなかったので真実は定かではないが…。
そして遅れ様に拍手が聞こえた。
一度息を整えると、俺はPAに向き直る。了解したようにPAが頷くと俺は手を挙げた。録音を流す合図だ。俺は素早くピアノに向き直り再び手を鍵盤に構えた。
そして拍手を遮るかのようにスピーカーから録音が流れ始めた。
ドコドコドコ…
いきなりのドラムに拍手がやみ、ぉお、という驚嘆の声が聞こえた。
そして
ポロン…ポロン…
次の小節から白玉の和音を幾つか入れる。これは照明への合図だった。
パッ
と再びステージがライトアップされる。ここからはドラムに合わせた演奏だ。ドッドッ…とモニターが鳴るたび強い振動が俺の心臓を掴むようだった。スケールを展開させ、ゆっくりとした演奏を挟むとピアノはバッキングに回る。
そしてここで更にストリングスが挿入され、一気にクライマックスへ向かう。
ジャーン!
爆発音を交えた締めの音に伴い場内は暗転した。

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