ザアア
ザァァ…
ザアア
ザァァ…
(う…)
波の音で目を覚ます。ここはどこだ?少しだけ目を開く。
(眩しい…)
少しずつ目を光に順応させる。しかし、視界は依然と白いままで俺は自分の視覚を疑った。
が、すぐにそれが杞憂だったことに気付く。
白い天井、壁、窓…。窓辺にはご丁寧に花瓶、それも花が活けてあった。見たところまだ新しい。
白を基調としたその部屋の中に俺はいた。正確には、ベッドに寝かされていた。
ふぁさ…
ゆっくりと布団を退け、上体を起こす。
「う…」 今度は声に出して呻く。あまり体の調子が良くないらしい。
………。
不調。白い部屋。パイプベッド。
…ここは…病院か?だとしたら何があったというのだろう?
俺は思い出そうとしてみる。
「ッ!?」
その瞬間、俺の頭に頭痛が走った。
記憶を手繰り寄せようとすると灰色の靄が掛かったように何も思い出せない。
その靄を払おうとすると痛みが走った。
「………。」
仕方ないので周りの状況を調べようと、ベッドから立ったときだ。
窓の反対側、扉の外から足音が聞こえた。
それが近づくにつれ、なにか話し声が聞き取れた。
「はは…彼は…だから…しんして…」
「…んと?いつに…かな…」
やがて気配は扉の前で止まる。扉の磨りガラスの窓から二つの影を伺うことが出来た。
一つは栗色の髪の背の高い、もう一つは黒い髪の背の低い人影だった。
二人とも髪は長く、女性だろうか?話し声も男の物とは思えなかった。
「む…、君は少し待っていると良い。」
「え、どうして、…」
「彼が、起きている。」
「え!兄さんが!!」
「焦るな。少し、検診しておきたいことがあるからな。」
「…わかりました。」
二人はそれだけ交わすと、まず、背の高い方が部屋に入ってきていた。
「………。」
「どうだね、具合は?」
見た目まだ若い女性だった。栗色のゆるやかなウェーブを腰まで垂らし、
全身を白衣で包み、眼鏡をかけた知的そうな女だ。フレームの奥に光る目は吊り目がちで、
ちょっと勝ち気な感じがしないでもない。首には聴診器、…医者だろうか。
「ここは…誰?私はどこ…?」
「………。」
重い沈黙が訪れた。女は眼鏡をズリ下げながら病人を見るような目で俺を見た。
ち、病人を見るような目で見るんじゃねーよ。
「なに、病人を見るような目で見るんじゃねーよ、って顔ね」
「…俺は病人じゃなかったのか…」
「そんな冗談かませられるほどならもう退院モノだ。
と、言いたいけれど、貴方にはまだやるべきことがあるわね…」
「ちょ、待てよ。俺は本当に病気だぞ。頭がおかしいんだ」
「知ってるわよ」
「ま、待て、そうじゃない。」
しまった、今の言い方じゃ俺がラリってるヤツみたいじゃないか!俺はあわてて言い直す。
「記憶が、無いんだ…」
「え?」
「なにも思い出せない。」
「………。」
女は真面目な顔に戻ると、ため息を吐き俺に向き直り、
「そう」
とだけ言って、少し考える仕草をした(まぁ、考えていたのだろうが)。
「ちょっと上脱ぎなさい」
「いやん」
冗談を口にしてみると、
「………。」
女の周りの空気が凍った。…なんだ?この戦慄は。
だが次の瞬間、コンマ数秒で女は白衣の中からメスを一本だけ取り出すとそれを俺の首筋に突きつけた。
「自分で脱ぐのとお姉さんに脱がされるのとどっちがいい?」
「自分で脱ぎます。」
口元を歪めて笑みを作ってはいるが、目が笑っていなかった。
俺はさっさと上に来ていたシャツを脱いだ。ふむ、と鼻を鳴らすと、
女は聴診器を自分の耳にはめると吸盤になってる方を俺の胸にあてた。
ぺた、ぺた…
このタイミング。このタイミングならもう一度、いやん、と言うことが出来る。
…だが、俺にはできなかった。不覚だ。この女は俺を生き殺しにする。
それでも医者か!………声にはならなかった。
「ふん、身体機能は異常はないな。」
そういって聴診器を外す。そして
「君…記憶がないのなら、しばらくここで療養するといい」
と言った。
「…普通に暮らすのに弊害があるのか?」
「いや、ない…。」
聞くと女はどこか翳った表情で答えた。そして。ぽつりと。
「戻らない方が、いいのかもしれんがな…」
そう呟いた。
「…俺はここにいて大丈夫なのか?家族は?治療費は?」
「…大丈夫だ。心配するな。代は先に預かっている。あぁ、そうだ。」
突如振り向く。そして扉に向かって呼んだ。
「もう大丈夫だ、入って良いぞ。」
ガチャ…
ノブが回る。
「………。」
目が合う。そこには…黒い髪を背中の真ん中まで伸ばした背丈の低い少女が佇んでいた。
その茶色の大きな瞳が俺を捉えていた。そして言った。
「にいさん…兄さん!」
小走りに少女は近寄ってきた。が。
ばし。
その小さな手首を女医が捉えていた。
「待て、アンジュ君。」
「先生?」
「彼は、これまでの彼ではないんだ…」
「え?」
「彼は、記憶喪失なんだよ…」
「そんな…。だって、じゃぁ、私のことは…!?」
「………。」
女医の無言は、肯定の意だった。そしてその肯定は正しかった。俺は…この子のことを思い出せない。
少女は振り返ると、俺に尋ねた。
「ねぇ、兄さん!私です、アンジェリカです!!」
勿論俺は、彼女を喜ばせる返答などできなかった。

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「ごめんなさい、取り乱して…」
「いや、まぁ仕方ないんじゃないか?」
ってなんかとても兄妹の会話とは思えないんだが…。
そんな二人は俺の病室を出て院内を歩いていた。
リハビリを兼ねての案内だそうだ。
肝の据わった姉さんは用事があるとかでリハビリを妹に押しつけ事務室に籠もってしまった。
ヤブ医者め…目覚めたばかりの患者(俺のことだ)はほおっておいていいのか。
「そう…ですよね。またきっと元の兄さんに戻りますよね?」
「保証はないけどな」
素っ気なく答える。
元の俺か。思い出そうとしてもさっきみたいに頭の中に灰色の靄が掛かる。やめだやめだ。
「そういえばまだ名前きいて無かったよな」
「え?あ、はいアンジェリカです。アンとかアンジュ、って呼ばれてました。」
「あ、いゃ、君の名前はさっき聞いたんだけど…」
「え…あ、兄さんの名前ですか?もう兄さん、自分の名前くらい…って記憶喪失なんでしたよね。あはは、覚えてますよ」
「………。」
さっきの女医もそうだが、この少女も一癖ありそうだった。
「兄さんの名前はユングヴィ。ユン兄さんです。」
「そうか…これからは"ゆんゆん"と呼んでくれ」
「ゆ〜んゆん?」
「ぐは…冗談だ。やめてくれ」
ユングヴィ。ユングヴィ…。心の中でその名を繰り返す。
何処か懐かしい響き。だがその懐かしさは、心の中で手を伸ばしてもすぐに消えてしまった。
「着きましたよ」
考えながら歩いていると、どこかについたのかアンジュが立ち止まっていた。
「どこに?」
「私の部屋です」
「…ぇ?」
見るとさっき出た俺の部屋と同じような外見の入り口。ただ違うのは、壁に掛かったプレートの文字。
『Angelica』
「お前も病人かッ!」
「そうですよ。」
「…頭がおかしいのか?」
「それは兄さんです」
言いながらアンジュはガチャリ…とノブを回し中に入る。
「何してるんですか?入って良いですよ」
「あ、あぁ…」
別に戸惑っていたわけではないが、そういえば一応見知らぬ女の子の部屋と言うことになるのだろうか?とりあえず入ってみる。
部屋はとてもじゃないが女の子の部屋という感じではなかった。
まぁそうである以前に病室だしな。でもそれっぽいと言えば、
「この花…」
「あ、その花、この季節になると中庭で咲いているんです。」
「俺の部屋のもアンジュが…?」
「うん…花、好きなんだ。花言葉とか、覚えると面白いですよ。兄さんもどうですか?」
どこからか分厚い本を取り出すアンジュ。
「お花百科事典」花だけに百花とかけているのか?事典のクセに小生意気な。
「…遠慮しておくよ」
「そうですか。でも、兄さんは変わりませんね。」
「?」
「さっきも今も。素っ気ない返事は昔から。
 そして兄さんはくだらないことを考えているときは必ず真剣な顔をするんです。
 ほんとどうでもいいことばかりに真剣なんだから」
事典を本棚に戻すと、向き直っていった。
「兄さんは、記憶が無くても…兄さんです」
そしていつのまにか俺の胸に頭を当てていた。
「………。」
少しだけこうしてあげようと思った。

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しばらくして、俺達は病院の外に出ていた。
「いいのか、勝手に出て…。そもそもアンジュも病人なんだろ?」
「いいんです。それに今日だけじゃないから。いつもこうやって風に当たりに来てるんですよ」
ふふ、と笑うと歩みを早める。散歩か。まぁ、本人が言うには、良いんだろう。
俺も別段体調が悪いでなし、付き合うことにした。病院から幾ばくか歩いてなるほど、
風も涼しく鳥はそこらでピーチクパーチクないて、何より潮の香りが心地よかった。
アンジュの話に因れば、ここは大陸と離れた島らしい。
周りは海に囲まれ、大陸までには橋も架かって折らず船を出すしかなかった。
もっともここは大陸から離れた田舎、食糧などある程度は自給自足できるし、
田舎とは言えある程度の施設はあるし、ましてやこの時代、機械などの故障も少なく、
そんなに大陸へ出向く必要もないのだろう。便は少なかった。
寧ろほとんど皆無に近い状態なので、大陸に逝くには船主の家に行って予約しなければいけないらしい。
街灯の少ない道を、この島のことを聞きながら二人で歩いた。ふと、
畑仕事をしている人影に目がとまった。色褪せた短い金髪に白い肌、
筋骨隆々の発達した体、シワの入った彫りの深い顔、の中年の男が鍬を手に土を耕していた。
「あ」
そう声をあげてアンジュが男に話しかけていた。
「お、アンジュちゃんかい」
「こんにちは、ケニーさん」
「アンジュちゃんは今日も元気だべな!」
「はい!ケニーさんが作ったお野菜がいいのかもしれませんね」
「はは、それはよかっただ!ん…?こっちの若いあんちゃんは見ねぇ顔だな。もしかしてコレか?!」
男…ケニーさんは小指を立ててわざとらしくニヤついた。
「ち、違いますよ!こっちは、私の兄さんなんです」
「え?」
ケニーさんが驚いた顔で俺を見る。…なんだ?少し驚きすぎじゃないか?俺はその態度に顔を訝しめた。
それに気付いたのか、ケニーさんは急いで笑顔を作り直すと俺に向けた。
「あぁ、あのずっと寝てた、っていう…。そっか、えがったな!」
「あ、あぁ…」
「はい!兄さんも、ちゃんと野菜食べて元気になってくださいね?」
俺が相槌気味に返事をすると同時に隣から、俺の変わりにか元気な声が響いた。
「ん…?俺は野菜嫌いだったのか?」
「ピーマンを避けて食べてました」
「………。」
「だはは、じゃぁ今度、女先生にピーマンのっこり渡しとくでよ!」
ピーマンの味を思い浮かべてみる。
「……やめれ」
あまりいい感じではないようだ。

ケニーさんと別れ、またしばらく散歩してから病院に戻った。
しかし色々と気になることがあった。島の町や施設も頼んでないけどアンジュが案内してくれたのだが…。
出かけにも思ったが、帰ってもやはりというかより強く思うようになった。この病院だけ妙に真新しい。
町の古くささを考えても、少し逸脱している。次に、ケニーという男。人柄自体はあまり問題無さそうだったが…。
あの鍬の持ち方。何か妙だった。畑仕事にはおおよそ向かないような…。
そして俺のことを紹介されたときの狼狽具合も尋常ではなかった。
まぁこれらに関しては、いま知るよしもなし、考えないことにした。してもだ。
「アンジュ」
スリッパに履き替えながら呼びかける。
「どうしたんですか?」
「さっきの…ケニーさん?の話によると、どういうことだ。料理はあの先生がしてるのか?」
「うんそうだよ!先生の料理すごくおいしいんだよ」
「なに」
その言葉に俺はあの女医がメスで料理をする場面を思い浮かべた。

「ピーマンだと?私の前では紙同然だ!」
女医はピーマンを宙に放りメスを振りかざした!
「ふはははは!」
すぱぱぱぱぱん!ばらららら
ピーマンが千切りされた状態でまな板に揃って落ちる!
「また、つまらぬものを切ってしまった…。ん?そこにいるのは誰だ?見たな…。見たからにはお前も紙同然だ、料理してやろう!」
女医は俺を宙に放りメスを振りかざした!
「ふはははは!」
すぱぱぱぱぱん!ばらららら
俺が千切りされた状態でまな板に揃って落ちる!
「また、つまらぬものを斬ってしまった…。」

「ぎゃぁ!!」
「兄さんどうしたの?血相を変えて…」
「いや、なんでもない。ここはほかに従業員は居ないのか?」
「うん、先生一人みたい。大変だよね」
良いのかそんなんで。
病院はそれほど大きくないが、町の大きさから考えてみると、
少し大袈裟なくらいの大きさはあった。真新しさと言い、何か腑に落ちなかった。
(いや…この島には他に病院がないのかも。深く考え過ぎか…)
記憶が無いなりに情報を体が集めようとしていた。

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日も暮れてくると、くだんの女医は夕食の準備に取り掛かった。
程なくして夕食は出来たのだが、その前に俺の検診をしたいとのことだった。
まさか、バらされるんじゃないだろうな…そんな恐怖を持ちつつ診察室に入った。
「ふむ、ユングヴィくん、アンジュ君と散歩に行ってきたわけだが、どうだったね?」
キィ、と回転椅子を軋ませ、女医は机から俺の方へと向き直った。
「まぁ、別に普通だが…」
「ふむ、尚よろしい」
「もういいのか?」
俺も結構ウロウロしたし、起きてから何も食っていない。いい加減腹が減った。
「じゃぁ、そうだな、血圧を測らせてくれ」
「あぁ」
女医は言うなり席を立ち、血圧測定器を持ってきて作業台の上に置いた。
「カフ…この帯のことだが、上腕に巻き付けてくれ」
俺は言われるとおりにすると、女医は聴診器を腕にあてがった。
「ふむこのくらいか…」
脈を取り終えるとポンプのようなものを握り始めた。
しゅこーしゅこー。
ぐ!音と共に上腕に取り付けたカフが締め付けてくる。
…この真新しい病院でこんな古くさいアナログデバイスで俺の血圧を測るとは良い度胸じゃねぇか。
「頭のイかれた男には最新デジタル式すら勿体ないってか」
「…何を言ってるんだ?」
女医が呆れた瞳で見返してきた。くそ、どこまでもバカにしやがって!
しゅこーしゅこー。
その間にもカフの締め付けは続いている。女医は瞳を測定器に戻すと、その値を細々と確認している。ふん、見ていろ!
しゅこーしゅこー。
ぐぐぐ…。
しゅこーしゅこー。
ぐぐぐぐ…。
しゅこーしゅこーしゅこー。
ぐぐぐぐぐぐ…
(うるぁぁぁぁぁ!) いい加減に腕の締め付けが苦しくなってきたので俺はここぞと一気に力を込めた!
ぼすん!
と同時に何か破裂音が聞こえた。
「………。」
「………。」
気まずい沈黙が訪れた。…測定器が壊れたようだ。すると、どうだ。
女医の殺意の込められた視線が俺に向けられている。まずい。まずすぎる。
何か言わなければ。そんなとき俺の口から漏れた言葉は…。
「時代遅れの代物じゃ、俺は図れないぜ…」
キメぜりふだった!!
「バカものぉぉぉぉぉぉぉ!」
怒号が走った。外で「診察室」と書かれたプレートが落ちた…気がする。
「お前、ムダに力を込めたな…?」
「…そういうものなんじゃないのか?」
「戯け。アナログ式を使うのも、デジタルよりも精度が高いからに決まっているだろう!っくぅ…!いまではデジタル式の方が量産されやすくて、これは値が張るんだぞ…」
知らなかった…。

そんなこんなで夕飯になった。
島の町の小さな病院では入院患者も少なく、全員で食堂にて食事をとることになっていた。
今日は起きてから何も口にしていなかったので、正直、腹が減っていた。減っていたのだが…。
「これは新手のイジメか…」
今夜はどうやらピーマンと肉、それから筍なんかの炒め物のようなのだが、
俺の皿だけはピーマン嫌いの小学生がそれを食べ終えたあとのようになっていた。
詰まるところ、俺の皿の上にはところどころ良い塩梅に焦げた緑色のそれしかのっていなかった。
「ピーマン…」
妹は呆然と俺の皿の上を見つめてそう呟いた。
「兄さん、残しちゃダメですよ」
いや、妹よ、確かに俺はピーマン嫌いだが、今、突っ込むべきはそこではない。
食堂に他の患者が入ってくる。っていうか、全てじーさんばーさんだった。
(こんなんで大丈夫なのか経営…)
それに続いて、最後に不良医者が入ってきた。俺の眼差しに気付くと女医は俺の元にやってきた。
「不服かね?」
「当たり前だ。俺はバリバリの成長期だぞ。」
「記憶がないんじゃなかったのか…。そもそも、もう君の二次成長は終わっている。」
「でも兄さん何したんですか?」
「あぁ、この男、やってくれる。血圧計を一つ壊してくれてな」
「違う。あれは俺の血圧がたまたま尋常でない値を出しただけだ」
「あんな値故意でなければ出せんわ!」
スパーン!
どこから出したかスリッパ(お客様用と書いてあった、俺には見えた)で俺の頭を引っぱたいた。
「あはは…」
妹よ、苦笑するだけでなく弁明してくれ。
「…それは兄さんが悪いですね…」
神はいない。そう思った。

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午後10時くらいかな?俺の部屋には時計がない(っていうか生活用品のほとんどがない)ので正確な時間がわからない。
唯一頼みの綱だった俺の腹時計も、夕食はピーマンだけ、という理不尽な仕打ちによって支障を来していた。つまり、腹が減った。
そんな俺は溜まりかねて、少しだけ食堂の冷蔵庫から頂こう、ってなわけで就寝時間を過ぎたにもかかわらず廊下を抜き足差し足で歩いている。
だがふと気がつく。
廊下の先…食堂から光が漏れていた。不振人物…だったら明かりは点けないか。
俺はそっと食堂の扉を開けた。
ギィィィ…
あ…
「あんたか…」
「…ユングヴィ君か」
見ると女医がグラス片手にいっぱいやっていた。こいつほんとうに不良医者だな…。
だが一応仕事の最中か?カルテが卓の上に投げ出してあった。
「どうした?眠れないか?シーツはちゃんと業者に回して定期的に洗濯・とりかえているけどな」
「いゃ、ベッドは問題じゃない。腹が減った」
「そうか、気の毒にな」
「誰のせいだ、誰の!」
「冗談だ。それに声を荒げるな。皆が起きる」
「………。」
そう言われて俺は静まった。「まぁ、座れ」と言われたのでとりあえず女医の向かいに座ることにした。
「仕方ないな。軽く何か作ってやろう」
女医はゆっくりと立ち上がると、キッチンに向かった。俺はその背中に声をかけた。
「ほんとうにあんたが作っていたんだな」
「小さい病院だからな」
「あんたの病院なのか?」
「いや、別に管理があってやっている。私は言わば、派遣医者だ」
「とんでもない医者が派遣されたもんだ」
「ふ、そうかもな」
喋りながら、そして酔いながらも、実際、女医は手際が良かった。
「って待て、ちゃんと包丁使え」
「ち…こっちの方が斬れるのに…」
悔しそうにメスを懐にしまう(いつもそんなところに持っているのか?)。危うくまな板の上でオペが開始されるところだった。

程なくして何かを作ってやってきた。こと、と卓に置く。
「…なんだこれは?」
良い匂いがする。だが見た目はごちゃ混ぜだ。
「とりあえず、炒めた」
なにをだ。
「目的語を補え」
「あり合わせのモノだ。賞味期限が切れかけてどうしようかな、と思って…」
「………。」
「まぁ、食える、問題ない」
…あぐ。むしゃむしゃ。
「む…」
思ったよりうまかった。夕飯の野菜炒めもうまかったのだろうか?俺の場合はピーマンのソロ炒めだったけど…。
「ところで君はいけるクチか?」
かろん、と空になったグラスの中のうっすらと赤紫に煌めく氷を鳴らして見せた。
…俺は記憶喪失だ。わからん。
「赤ワインだけじゃないぞ。一応一通り揃えてある」
揃えるな。病院で一体何をして居るんだ。しかし、とりあえず無難に…
「じゃぁ、ただのウーロン茶をロックで」
「アホか」
「記憶がないんだ。自分がどれくらい飲めるのかはわからない」
「それもそうだったな。じゃぁ薄めに入れてやるよ、ウーロンハイ」
「………。」
その後延々とじーさんの病状がどうだの、ばあさんのボケ具合がどうだの、仕事の愚痴?
を聞かされて自室に戻ったのは3時間弱過ぎてのことだった。こんなことならこなけりゃ良かったかな…。

---------------------------------------------

「兄さん、起きて、起きてください」
「うぇあ?」
「朝食、始まっちゃいますよ」
ぐわんぐわん。
視界が揺れている。ついでに言えば頭も痛い。あぁ、揺すらないで…。
「病院行かなきゃ…」
「兄さん、ここは病院ですよ…。はっ…まさかとうとう兄さんの頭がやられたんじゃ…」
なにか失礼な戯れ言が聞こえる…。
「ふ…あぁぁぁ…」
完全な二日酔いだった。

「おはよう御座います」
「おふぁゆぉ」
扉を開けると、正反対の二つの挨拶が食堂に響いた。
「おや、おはようアンジュちゃん」
「アンジュちゃんは今日も元気だねぇ。早く退院できると良いねぇ」
「それに比べてなんだい、そっちの男の人はだらしないねぇ。アンジュちゃん、そんな男にくっついてないでワシんとここないか?」
アンジュに比べ俺は老人共に非道い言われようだった。っていうかいい年こいてナンパするな。しかも院内で。
「あはは…」
アンジュも苦笑している。
「それにしても、ほんとに大丈夫ですか?」
「あ、あぁ…なんとか。食欲は在るみたいだ…」
言って卓に着く。
「待っててくださいね、いま先生呼んできますから」
ぱたぱたと小走りでキッチンに向かう。小走りで、か…。

「はっはっはっ」
不良医者は乾いた笑い声をあげた。いや、勝ち誇った笑い声に聞こえなくもない。なんかムカつく…。
「大丈夫、身体に問題はない。本人が食欲があると言っているなら大丈夫だろう。
まぁ、吐き気がぶり返すようならあとで診察室に来るといい。市販のものだが薬を処方しよう」
流石に酒のことは口にしたくなかったのか、それだけ言うと、
二日酔いという症状名は告げずに再びキッチンの奥へと消えた(俺が症状名を告げようとしたものなら懐に手を突っ込んでいた)。

「ほんとうに大丈夫?」
三度キッチンへ行き俺の食事トレイを持ってくると、アンジュが俺に聞いた。栗色の瞳が、いつもより、少しだけ見開かれて俺を覗き込んでいる。
「あぁ、水を少し飲んだらだいぶ楽になったよ」
「そうならいいんだけど…」

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病院の朝は規則正しい。まぁ、それも当たり前か。
健康な体は健康な生活から。食べ終えて食堂の時計を見ると七時半を過ぎたところだ。
食事も少し多めだったかも知れない。俺は少なめに盛ってもらったけど。
食堂を出ると一度自室へ戻った。今日も町に使いを頼まれている。着替えると、病院の入り口に向かった。
「兄さん、遅いです」
「あぁ、悪い、一応二日…いや薬をもらってきたんだ」
「二日?」
「あ、えっと次の日にも持ち越したらよくないからな」
「あ、うん、そうだよね」
特に疑念は抱かなかったか、アンジュは追求してこなかった。
「行くか」
「うん」

海岸沿いを通る町への道。途中下る坂から見える、畑は圧巻だった。
どこまでも小さな木のような植物が並んでいる。
「兄さん、近くまで行ってみますか?」
「勝手に入って大丈夫か?」
「大丈夫ですよ。あそこの人も知り合いなんです」
「顔が広いんだな」
「小さな島ですから」
そう言ってくすりと笑った。

近くまで来てみると気づかなかったけれど、その小さな木のような植物は点々と小さな白い花を携えていた。
「今はオリーブの開花時期なんですよ」
「へぇ、これがオリーブなんだ」
実の漬物や油は見たことはあっても(そういう常識っぽいことはどうやら覚えているらしい)その植物、ましてや花なんかを見たことはなかった。…たぶん。
ざぁぁ…
それが潮鳴りだったか、風に揺れるオリーブの葉が奏でた音なのかはわからない。
一陣の風が過ぎると辺りに潮とオリーブの混じったなんともいえない香りが満ちた。
「気持ちいいな」
「でしょ?私、家にいるときよりこっちきて良かったかもしれないです。今は兄さんもいるし…」
「そか」
さっきと変わらない表情で呟く。
家。
俺が、俺たち兄妹が過ごしてきた場所だ。そこはどんな場所だったろう。
ふと考えてやはりやめた。別に頭痛がぶり返してきたわけじゃない。
ただ、昔のことを考えるのが無粋に思えた。
(今は今だよな)
風も気持ちよかったけれど、なによりその言葉が懐かしく、くすぐったかった。
ざぁぁ
オリーブの葉と花と。俺とアンジュの髪を優しく風が撫でた。

「お、アンジュちゃん。きとったんかいな」
振り返ると、ランニングにズボンというラフな格好をした男が立っていた。
髪は白髪交じりの茶髪、元は白かったろう肌は焼けて少し赤みがあり、
がっしりとした体格に口ひげを生やしたワイルドなおっさんだった。
見た目は昨日のケニーさんと同い年くらいだが(まぁ体格もだけど)、
体のところどころに傷跡があった。今は癒えていそうだが、
負ったときはそれなりに深手のものもあったのではないだろうか。
(…っていうかこの島の男はみんなこんなのなのか?俺もそのうちこんな風になるのか?ちょっと嫌だ…)
「あ、こんにちは、エドゥさん」
「おぅ、アンジュちゃんはかわええからいつ来ても大歓迎や。HAHAHA」
「もう、そんなこといってもなにもないですって」
「で、こっちのアンちゃんは?もしかしてコレなんか?」
ニヤニヤしながら俺に目を配った後アンジュに向き直り小指を立てるエドゥさん。
「ち、違いますよ、そんなんじゃ…」
「おぉ、最近の若い子はやっぱり隅に置けへんなぁ。ちゃっかり見ない間につくっとる」
「あ、あの兄さんは、私の兄さんなんです」
「…どうも」
「え…?」
一瞬エドゥさんが表情を曇らせた。でもそれは本当に一瞬で、もとの笑顔に戻ると
「そ、そっか、目ぇ覚めたんやな!良かったなアンジュちゃん!それとユン…」
俺の名前を呼びかけて留まるエドゥさん。
「あ、ユングヴィ(らしい)です。よろしく、エドゥさん」
俺は無難な挨拶をした。
「あ…」
アンジュが短く声を上げると、そっとエドゥさんに耳打ちした。
わかったと言わんばかりにエドゥさんはうなずき、笑顔に戻る。
「おぅ、よろしくな、ユンちゃん!」
「ユンちゃん…」
「あはは、その呼び方いいですね!」
「…そうか?」
「そ、そうですよ!」
それからしばらくエドゥさんと話して、なんだか納得のいかないまま、俺たちは別れた。

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町で買い物をして、その帰り道。俺たちは行きに下った坂を今は上っている。
「兄さん、少し寄り道していきませんか?」
くぃ、と買い物袋を傾けて病院とは反対の道を指し示した。生ものはあるけれど…
「大丈夫ですよ、そんなに時間とらないですから」
「そうか?」
じゃぁ、いいか。と思ってついていくことにした。

アンジュにつれてこられた場所は、病院からさほど遠くない小高い丘だった。
アンジュは小走りに丘の先のほうへと走っていく。
「おい、そんなに走って大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ、それより、ほら、兄さん、早く!」
笑いながら振り返ってそういった。無邪気だな…。そう思った。
はしゃいだその腕の中の買い物袋から野菜がひとつ落ちる。俺は歩いていってそれを拾ってやった。
「ほら」
「えへへ」
俺たちは袋を脇に置くと、丘の上に腰を下ろした。
「へぇ…」
思わず息が漏れた。丘の先はちょっとした崖になっていて、
夕日に染まる海と畑は行きに見ものとは違う魅力で俺たちを圧巻した。
眼下に広がるオリーブ畑が黄昏に染まっていた。
海は夕日に照らされきらきらと幾たびも瞬いている。
さぁぁ…
風が吹く。足元の草がゆれた。
「綺麗だな…」
「この島の…私の一番のお気に入りの場所なんです。この時間のこの場所」
「…わかる気がする」
「でもそれだけじゃダメだったんです。今、気がついたんですけど」
そういってクスリと笑った。
「? なんで?こんなに綺麗なのに」
「でも、ここには、私しか…兄さんが…居なかったから」
「あ…」
そうだ。
アンジュは俺の目覚めをずっと待っていた。ずっと一人だったんだ。
「アンジュ…」
「えへへ、ちょっと恥ずかしいです。そろそろ戻りましょうか」
「…そうだな」
そして帰り際こんなことを聞いてきた。
「ねぇ、兄さん。花言葉って知ってます?」
「なんだそれ?」
とりあえず記憶にない。っていうか記憶がない。
「花にはそれぞれ言葉を持っているんです。喋らない花たちが言葉を持つなんて不思議だよね」
「?」
「ほら、たとえば紅い薔薇の花束を女性に送るキザな男性が居るでしょう?
 あの花束には意味があるんです。紅い薔薇の花言葉は"情熱"とか"愛"って言う意味なんです。
 花束は愛の塊なんですね」
「はぁ」
「さっきのオリーブにも花言葉があるんですよ」
「え?」
一応、花はついていたが、あんなのほとんど木みたいなもんだった。あれもカウントされるのか…。
木も…木みたいなのもカウントされるのか。
ブロッコリーとかカリフラワーとかパセリとか。ぐぅ。腹が鳴った。
「もう、兄さん!」
「あぁ、悪い。あんな木みたいなのもカウントに入るんだな」
「木にも花言葉がついてるのも少ないですよ。それよりオリーブの花言葉、何だと思います?」
「さぁ、俺には見当もつかないよ」
「ふふ…」
俺の困った顔がおかしかったのか、そんな返答でもアンジュは笑っていた。
そしてアンジュは呟く。掠れた声で。俺には聞こえなかったけれど…。
「早く、平和になるといいですね…」

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病院に戻るとアンジュの部屋に居た。特に理由はなかったが。
「うーん、また一通り読んじゃった」
俺を連れ込んだ当の本人は最初は俺に花の説明なんかをしていたが、じき、自分が読むのに集中してしまったようだ。
して、恙無く読破したらしい。軽く伸びをすると、言った。
「ねぇ、兄さん、なにか楽しいことない?」
「………。」
確かにまだ夕食までに時間はある。しかし、この何もない病院で何をしろというのか。
ラジオなんかろくに電波が入らないし、テレビなんか国営放送しか映らない。
…ここは俺が妹のために笑いを取るべきなのか?
「笑いにはそれなりの流れが必要なんだ」
「…なにを言ってるの?」
「あ、いやなんでもない…」
危うく妹を芸人に仕立ててあげてしまうところだった。危ない危ない。
この道は険しい。だからそんな道を強いてはいけない。
「うーん…」
妹は、ひとしきり考えた後、言った。
「そうだ、お花事典読もう!」
そんな、さっきご飯を食べたのに忘れたおじいちゃんみたいな!!
「………。」
言葉が出なかった。突っ込むべきか?そう思ったが、どうもそうではないらしく、
アンジュはまた黙々と紙面上の花を眺め始めた。…頭がおかしいのか?
冗談半分でそんなことを考えていたが、ふと思った。
…アンジュの病気。それはなんだ?
「♪〜〜」
鼻歌交じりに事典を眺めるアンジュを見つめながら。俺は考えていた。
懐かしい感じがする。俺は…以前の俺は彼女の病気を知っていたんじゃないか。
俺の記憶とアンジュの病気。何か接点があるのか?
だが幾度となく巡らされた思考も記憶の靄に閉ざされ失敗に終わった。詰まるところ、何も思い出せなかった。
あの不良医者に訊くか…。
それくらいしか思いつかなかった。

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その夜のことだ。
ギィィ
出来るだけ音が立たないように食堂の扉を開けた。
「ん…?…君か」
そこには相も変わらずリキュールを片手にカルテ整理をしている女医が居た。…ほんとに、いいのかね、こんなんで。
怪訝そうな俺の表情に気付いたか、女医は
「そうシけた面をするな。大丈夫だ。ここの患者は若干名を除いて爺さん婆さんばかりで、それも加齢からの症状で大したことはないさ」
と面倒くさそうに言った。
「それになんだ?君はあれだけふらふらになっておいてまだ私の酌に付き合うのか?」
「…あれは量がおかしいからだろう」
言いながら女医の向かいに座った。
「それに俺は病み上がり、あんたは健康そのものだ」
「ふん、そう言うことにしておいてやろう」
ぱたむ、とカルテを置き、再びリキュール瓶をグラスに傾ける。こぽこぽ…
注ぎ終わると何故か新しいグラスにも、こぽこぽ…
「…お"い"」
「なんだ、違うのか?」
「さっきの会話の流れから、どうしてこうなるんだ」
もしかしてこの島の女はみんな頭がイかれているのか?
いや、アンジュもこの女もこの島の出身ではないようだが…。
考えている間も女医は、くい、とグラスを口に傾けていた。
「まぁ、いいじゃないか。飲め。酒は万薬の長だぞ」
「…飲み方さえ間違えなければな」
仕方なし、俺は注がれたグラスに少し口を付けた。…う"、これはちょっと強いかも知れない。
っていうか強いだろ。瓶のラベルを見ても20%は超えているようで、序でに言えば高そうな酒だった。
「み、水…」
「おぃおぃ、君はこのくらいで水割りに逃げるのか。男なら正々堂々とロックで勝負…」
「あんたなんで医者なんだ…」
俺は絡んでくる女医をのけるとキッチンでグラスの酒を水で割った。
…グラスになみなみと注がれていたので、水が入らない分はこっそりと流した。
「なぁ、聞きたいんだが」
テーブルに戻ると、俺は話題を切り出した。
「ん…こく、なんだ」
…人の話を聞くときくらい飲まないで居て欲しい。
「…アンジュの病気のことなんだが」
こと。
なんのことはない、女医がグラスをテーブルを置いた音だ。だがその音を境に食堂の空気が変わった。
「…思い出したか?」
目を細め、それは真っ直ぐに俺を見据えた。
長い睫毛を携えた切れ長の瞳に捕らえられると、刹那、心臓を掴まれたかのようにどきりとした。そんな俺は、
「い、いや…」
と切り返すのが精一杯だった。
「そうか…」
それだけ言うと女医はしばし瞳を伏せ、立ち上がった。
「お、おぃ?」
「酒が不味くなった…今日はあがりだ」
「アンジュのことは?」
「…また機会が来たら説明する」
そう言って酒を仕舞い、食堂を出て行ってしまった。
「………。」
一人残った俺は呆然としていた。
俺もグラスに残った酒を一気にあおって部屋に戻ることにした。
高い酒だ。だがどうしたことだろう。酒のコクは感じられず、苦みばかりが口の中に残った。

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今日はアンジュの散歩に付き合うことになってた。
「兄さんと行きたいところがあるんです」
とのこと。俺と行きたいところ?どこだろう。…というか俺はこの島に何があるのかすら把握してない。
「ふむ。少し周りに何があるのか調べてみるか」
少し早く目が覚めた…というか気になって眠れなかったので、俺は何もない病室を出ると、
事務室に行ってこのあたりの地図か何かがないか調べることにした。

「…ないな」
事務室の本棚には、当然というか、
「生体基礎」「やさしい看護」「人体改造計画」「ナイフ戦闘術」
など、医療関係の書物しかなく、あたりの施設に関する本は皆無だった。
…変な本もあったような気がするが、あの変態医者のだ。スルーだスルー。
ガチャリ
「ふぁ…なにをやっとるんだ、君は」
例の変態が現れた。
「いや、今日はアンジュに誘われて。どこにいくのかなー、って、ここは兄としてこの島の施設を下調べしようとだな…」
「当日のこんな朝からか?」
「………」
「………」
「今日は検尿の日だったな。どれ…」
カシャカシャ
「外でしてこんかい!…ったく。小学生か、お前は。…ないぞ、このあたりに施設なんてな。地図がいらないほどに」
「ふぅん」
じゃぁ、今日もフツーに街に買い物かな?
「だが…アンジュ君のお気に入りの場所がある」
「オリーブ畑の見える岬か?」
「いや…そこは買い物帰りの寄り道場所だな」
…よく知ってやがる。
「まぁ、ソワソワするようなトコでもない。あと2時間もすれば彼女も起きる。二度寝するなよ」
「へいへい」

「兄さん、兄さん、起きてください!」
日差しが眩しい。小鳥の囀りが妙に騒がしく感じる。そしてこの揺れは…
「地震…?」
「そんなわけないでしょう!?」
「おぃ、バカ兄はまだ起きんのか?」
「んぁ…」
二度寝した。

「もう、兄さんのバカ…」
「悪かったって」
チチチ…
陽気な一日。でも決して妹の機嫌は晴れやかではない。…俺の所為なんだけど。
俺達は病院を出てどこかに向かってた。どこに向かうのかは聞いていないが。
しばらく無言で歩き続ける。すると森に差し掛かった。
アンジュは黙々と歩いていった。
(人の手が加えられてない…でも、アンジュは迷わず歩いてる。どういうことだ?)
俺は少し不思議に思いながらもアンジュのあとをついていった。ふと、気付いた。
アンジュが躊躇いなく歩を進められるわけ。足下をみると、少しだけ草がかき分けられてる。獣道だ。
恐らく獣ではない…人間だろうが…アンジュ一人というわけじゃない。これだけ歩いた跡が残ると言うことは、
不特定多数の人間が何回もここを往復していると考えるのが妥当だ。
俺はアンジュの隣に並んだ。その方が何かあった時に対処しやすい。
「兄さん?」
「………ここ、お前以外にも誰か来ることあるか?」
「?どうしたの?急に?…そうだね。結構色んな人来てるんじゃないかな?」
森には手をつけられていない。獣道も、少しだけ痕跡があるくらいで、あまり目立ったものではない。
…その色んな人は、ここを隠そうとしてる?そしてそれにアンジュは気付いていない?
(どういうことだ…)
俺が思索にふけっていると
「兄さん、つきましたよ!」
アンジュの声で我に返る。いつの間にか視界が開き、再び陽光が俺の顔を差した。
まぶしさに目を細める。
しだいに光になれると、1つのものが俺の視界に飛び込んできた。
「すげぇ…」
バカでかい"樹"があった。病院の北の森。
俺の病室は当然というか、窓は南向きなのでわからなかった。これだけでかい樹だ。遠くからでも目につくだろう。
葉は青々と茂り、差す光を反射して、樹全体がきらきらと輝いているようだった。
「兄さんこっち!」
気が付くとアンジュは既に木の根本の当たりに移動し、器用に根っこをテーブルと椅子にしながらランチの準備を始めていた。
「驚いたよ。こんな樹があったんだな」
「うん、すごいよね。私…こんなおっきな樹、見たこと無かった」
「なんていう樹だろうな」
「さぁ…私も初めて見る樹だったから。でも、なんだかここにいると落ち着くの」
「この樹何の樹…」
「歌わなくて良いから!」
確かにそうだった。
何かを感じた。
大樹の下で。やすらかななにか。いるだけで落ち着く。
暖かい風…優しい葉擦れの音が響いて。
根っこの平らなところにバスケットを置くと水筒を取り出してお茶を入れるアンジュ。
今日の目的はただのピクニックだったらしい。
「兄さんが起きる前に頑張って作ったんだからね。先生にも手伝って貰ったけど」
…まぁ、ほんとは俺の方が早く起きてたんだけど。
バスケットからなにやら取り出した。3角形のパンになにやら挟まっている。サンドイッチかな?
「どうぞ、食べてみて兄さん」
「あぁ、頂きます」
俺はその1つを掴むと一口。
シャク。
なんだ。
「アンジュさんや」
「はい」
「これは何かね」
「レタスサンド!」
レタスが大量に挟まっているサンドイッチ。それがレタスサンドだ。
「作り方は?」
「レタスを切って挟むの」
「………なるほど」
なるほど、この少女に料理のセンスは…皆無だ。
「ふむ、こっちはなんだろう」
「こっちはね、トマトサンド!」
………トマトが大量に挟まっており、その赤い色素がパンに移り、パンは毒々しさを讃えていた。
「そうか。ったくしょうがないな、お前はピアノ」
ズキ…
その時だった。頭痛と共に。
「…!!」
頭の中に無理矢理映像を流し込まれたみたいに。
流れ出す。

幼い少年と少女が話し合っている。
「お兄ちゃんのために作ったんだよ」
「なんだよ、これ」
「クッキー」
「…っていう名前の炭か?」
「違うよ、クッキーだもん!」
「暖炉の薪が少なくなっていたな…炭を足すか」
「ダメだよ、食べてよ!」

「ユングヴィ」
「母上…」
「あの子はピアノを習っているの」
「………」
「貴方も知っているでしょう?あの子には包丁を持たせるなんて勿論、料理なんかさせたくないのよ」

「…兄さん?」
「あ…」
少し目眩がした。葉の隙間から差し込む光がキラキラと降り注いで、その眩しさに俺は気付いた。
「これ、アンジュが作ったのか?」
「そうだよ、さっきからそう…」
「そか」
ぽふ
俺はアンジュの頭に手を乗っけてぐしゃぐしゃにした。
「あー、髪ぐしゃぐしゃ!」
「包丁、使ったの初めてか?」
「え…うん…まずかった?」
「あぁ、ダメダメだ」
「そっか、ごめん兄さん…」
「いいんだよ。今はピアノとかそーゆーのは無いんだ。
またがんばって、うまいもん作れるようになったら、また作ってくれよ。あむ」
そういって、俺はアンジュの謎の野菜サンドを全て平らげた。
「え、ピアノって、兄さん…記憶が…」
「ん…なんか少しだけだけど…」
「もしかして、私の御陰かな?」
「かもね」
「そっか…よし!」 「…なにが良しなんだよ?」
「明日から毎日作ろう!」
「たまに、ぐらいにしてくれ…」
そのあと、バスケットの中に入っていた女医の作ったらしき料理も入っていたようで、アンジュとそれを食べた。
まったく、先にそっちを出してくれよな。

その日はただピクニックに行っただけだったけど。あそこがアンジュのお気に入りの場所みたいだ。
その理由が分かった気がする。日溜まりの中で、何処か懐かしい、優しさに包まれながら…。
「また来ようね」
そう言って、アンジュも笑ってた。
俺の記憶が蘇り始める。その理由は彼女の料理だけじゃない気がした。

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今日も買い物や病院の備品を集めると(っていうか俺は患者だぞ。あ、アンジュも)、
暇になったので、折角海に近いと言うこともあり、堤防に釣りに来ていた。
ザァァ…
吹く風が心地良い。良いのだが…
「釣れんな…」
「こういうのは我慢ですよ、兄さん。それにまだ糸を垂らして10分しかたってないじゃない」
アンジュが苦笑していた。
「お前に言われてもなぁ…」
ぱちゃぱちゃと、アンジュの足下のバケツの中ではすでに三匹の魚が跳ねていた。
一応、食べれそうにない小さいヤツはリリースしているのだが…。
「兄さんの場合焦り過ぎなんですよ。待ってればいいのに何度もキャストするんだもん」
「………。」
まぁ、アンジュの言うとおりではある。俺はなかなか手応えがないのですぐに場所を変えていた。
「だってなぁ…。隣でそんなにほいほい釣られてるのを見るとひっかからねぇ俺に原因があるんじゃないか?」
「だから、場所を変えるからだよ。兄さんは落ち着きが足りないんです」
「ぐぐ…」
たかが釣り、されど釣り。俺は死ぬる思いで妹の講義を受けた。
アンジュは自分の竿を堤防に置くと俺の竿をとり直々にレクチャーし始めた。
なんとも手慣れた手つきで餌をつけ直すと数メートルの場所にキャストした。
ちゃぷん
餌とおもりが沈み、浮きが波に揺られ始める。
「浮きがありますね」
海面を見つめつつ先生の講義は始まる。
「あぁ」
「あれが沈んだ瞬間に兄さんは引いているんです」
「…? 浮きが沈んだら魚が掛かったってことで引いて釣るんだろ?」
「…兄さんはそれが早すぎるんです」
ため息混じりに言う。
「魚がそれでびっくりして逃げちゃうんです。兄さんの場合、反射神経が良すぎるので、一拍置いて引いてみてください」
良いながらも目は海面のままだ。そのときだ。
くぃッ
浮きが沈んだ!今だ、と思いアンジュの方を振り返る。だがしかしアンジュはまだ反応していなかった。
「だから兄さんは…」
ひとこと言いながらやっと竿を引く。するとどうだ。魚がびちびち跳ねながら釣られて来るではないか。
「早すぎるんですよ」
「むむ…」
器用に糸を引き寄せると、釣り糸を掴み、ぷちと、釣り針を外し、俺のバケツに入れた。そして
「はい!」
笑顔で竿を俺に返した。
「へぇ…」
「ね、兄さんが早すぎるでしょ?」
それはそうなんだが…
「そうじゃなくて。アンジュがさ。慣れてるんだな、って」
「ううん、私も最初は全然出来なかったよ。餌だって気持ち悪いし、
 魚を外すのも怖いし、針を外すのも怖いし…。何より私も最初は釣れなかったから」
「そうなのか?俺の時みたいに引きが早すぎたとか?」
「違うよ、私なかなか反応できなくて…遅すぎたの。…兄さんが異常に早いんですよ」
「そ、そうか」
「ザックさんっていうんだけど、漁師さんが居て、たまにつれてきてもらったんです」
そんなことを、自分の竿のところに戻りながら、嬉しそうに語っていた。
「へぇ、アンジュってほんと顔広いんだな…」
「あ…」
と、途端に曇らせる。え、俺なんか悪いこと言ったか?
「あぁ、違うぞ、顔が広いというのは顔がでかいと言うことではなくてだな…」
「え…くす、違いますよ。っていうか、それくらい知ってますよ!」
逆に突っ込まれてしまった。なんだかよくわからない。
「兄さんは少し眠っていたんです。仕方ないですよ。早く追いついてくださいね。私、待ってますから。さ、兄さんもやってみてください」
「あ、あぁ…」
気にしても仕方ない、俺は竿を再び握りしめると、餌をつけ、キャストした。
ちゃぷん…
うん、さっきのアンジュみたいに静かに着水した。いいかもしれない。浮きが波のリズムでゆらゆらと踊り出す。
そして数十秒後、浮きが沈んだ!
今!と思う瞬間をぐ…と堪え、さっきのアンジュのタイミングで引き上げる。
さっきまではアンジュがつり上げる瞬間しか見ていなかったからわからなかったが、
引き上げるタイミングを見たからには大丈夫。手応えがあった。
竿を握りしめる手に緩やかに振動が走る。
ざっ!
飛沫を上げながら出水する銀色のそれが日の光を浴びながらきらきらと輝く。
フッ、俺もやればできるじゃねぇか。
ゆっくりと引き寄せ、釣り糸を掴む。その先にあったものは!
…缶だった。
「な…」
「あ…」
なんだこのやるせなさは。なんとも言えない切なさは。
「に、兄さん、今回は運が悪かったから…今みたいにやれば次は…」
「うぉぉぉぉ!」
この行き場のない怒りは、何処へ向かえばいい!!
「もういい、釣りなんてまどろっこしい手段は俺には似合わない。潜ってとる!」
俺はそこら辺に転がっている棒きれを掴むと、上着を脱ぎ始めた。
「ちょ、兄さん、だめだってば、病み上がりなのに…!」
「止めないでくれ妹よ、海賊王に、俺はなる!」
「海賊王になろうとした人は泳げなくなりましたから!」
ぎゃあぎゃあ。
俺達は堤防で騒いでいた。
そのとき、堤防に俺のものでもアンジュのものでもない影が差した。
「おうおう、元気だねぇ」
そこには背中まで伸びたブロンドの髪に顎鬚、日焼けした肌の、
甘いマスクのやっぱりマッチョなまだ30は行ってないだろう、男が立ってた。
今、名づけよう。この島はこれからマッチョアイランドだ!!
「ザックさん!」
「おーぅ、アンジュちゃん、ひさしぶり。最近港のほうには来ないから寂しかったんだよ」
「えぇ、兄さんが目を覚ましたから…」
「え…」
それを聞くとザックという男の表情が曇った。
そして視線を俺に移す。
「…ユン…?」
「…俺を知ってるのか?」
どこか呼びなれた雰囲気で俺を呼ぶザックという男。
そういえば、エドゥとか言う奴も俺の目覚めに驚愕していたような。
なんだ…?
俺が考え始めていると、
「ザックさん!」
「あ…」
アンジュが何か訴えるように男を呼んだ。
「あはは、えっと、そうか、目覚めたのか、HAHAHA…」
「おぃ、アンジュ、こいつなんか怪しいぞ。大丈夫か?」
「あの、その、えっと、大丈夫ですよ。ね、ねぇザックさん?」
「お、おぅよ。こちとら海の男だ、こえぇもんなんか、ねぇ!」
「いや、そんなことは聞いていないが…」
ザザァ…
暫くの時間、三人の間を波の音が埋めた。
むぅ…アンジュめ…まさかこんな男と俺に対して隠し事を共有する仲なのか!
お兄ちゃん、寂しい…。
「ザックとやら。お前は俺が名乗る間にユンと呼んだ。俺を知っているのか」
ぴく!
お、反応ありだ。
「っとぉ…」
頭をポリポリ掻きながらアンジュにアイコンタクトを取る。
アンジュが、仕方ないよ…って感じでうなずく。
ガビーン!!
妹よ、そうなのか!認めるのか!!仕方ないのかー!!!
お兄ちゃんに…隠し事をするのか…。
「ユン…俺は、その、…」
「う、うわぁーーーそれだけは聞きたくない!!俺をお兄ちゃんて呼ぶなーーー!!」
俺は耐え切れずに釣竿を放り出してその場を逃げ出した。

「…なんだあいつ?」
「兄さん、記憶をなくして頭もおかしくなったのかも…」
「いや、あいつ、"仕事"のときはすげぇキれるし、普段は常にあんなんだったぞ…?」
「ざ、ザックさん…」

---------------------

「ハァハァ、くっそぅ、お兄ちゃんショックだ…」
とりあえず走り出したはいいモノの、ここがどこだかわからない。
いつかアンジュと買い物に来た町のような気がするんだけど。
記憶喪失の序に方向音痴にもなったのか…。俺、もしかして末期か?
往来のど真ん中でウンウン一人でうなっていると、声をかけられた。
「コンニチワ、スミマセンガ、ワタシ、道ガ教エテ欲シイデース。教会ドコデスカ〜?」
振り返るとそこには、異国の顔貌に、ガウンを羽織った男がいた。旅の牧師だろうか?
「いや、俺も道に迷ってンだけど…」
俺はぼやきながらも、カタコト男に断ろうと思ったが、ちょっと悪戯心が芽生えた。
「お前さ、ココの言葉わかんねぇの?」
「HAHAHA、来タバカリデ、スミマセーン」
「そっか。じゃぁ挨拶はナンジャオリャア!だ」
「ソウナンデスカ、初メテ知リマシタ!アリガトウゴザイマース!」
でもそれだけじゃ迫力に欠けるな…。
「あと、扉は蹴破って入るといいぞ。No door No kick!」
「エエエエ!」
流石にこれには驚いてるみたいだ。
「ちょっとびっくりするかもしれないが、これがこの国の流儀なんだ」
「ワァオ…」
「そうそう、教会はあっちだぜ。気をつけていきな」
道はわからんが、とりあえず野生の勘で適当に向こうの道を指差す。
「Wow、親切ニドウモ!ソレデハ!!」
旅の牧師はガウンを翻すと爽やかに笑いながら歩いていってしまった。
まぁ、牧師なんてどうせ頭の中が平和ボケしてるようなやつらばっかだろう。
ちょっとは刺激があるといいんじゃねぇか?
「兄さーん」
立ち代り入れ替わりに妹がやってきた。
ザックと何を話していたのが少し気にかかった。
「ハァハァ、…」
「お、おぃ、大丈夫か…?」
「もう、兄さんいきなり私も釣竿もおいて帰っちゃうんだもん」
これでもアンジュは病に伏せる身…もう少し身を案じてやるべきだったか…。
「あれ、そういえば釣った魚と釣具はどうしたんだ?」
「うん、ちょっと運ぶの大変だったから、ザックさんに頼んじゃった」
「…そっか」
「どうしたの、兄さん、さっきからおかしいよ?」
「あ、いや、何でもない。帰るか」
不安が顔に出ていたのか。俺は振り切るように顔を上げると、いつもの表情を取り戻した。
「………」
「………」
が、俺は、帰る、とか言って歩き出さなかった。
「どうしたの兄さん?」
「道に迷った」

--------------------------------------
帰ってくると女医が御立腹だった。
「ただいまー」
「ただいまですー」
「フン!」
カツカツカツ!
帰ってくるなり俺の横を通り過ぎ壁に突き刺さる三本のメス。
「キャー!」
「ぬわー!」
「ん、なんだ、君たちか。おかえり」
「何をやっとるんだあんたは!!」
「何って、ダーツだ」
「メスでダーツをするな、メスで!!それも入り口方向の壁に的をかけるな!!」
「先生、危ないですよ、患者さんが入ってきたらびっくりしちゃいますよ」
俺とアンジュ二人の抗議に渋々壁の的を外しにかかる女医。
「アンジュ君がそういうなら、我慢するか…」
アンジュの抗議しか聞いていなかった!!
「………」
「ったく、聞いてくれよ」
メスを胸にしまいながらなにやら愚痴る女医。
「今日は患者も少なかったから診察室で一人でやってたんだが」
なにをだ。
「いきなり扉を蹴破って男が入ってきてな…」
「えぇ、先生大丈夫だったんですか?」
「アンジュ君、私を誰だと思ってるんだ」
「………」
「………」
俺たちは少しだけ沈黙した。
しかし奇特な奴がいたもんだ。この平和そうな島でそんな強盗まがいなことをね…。
だが気の毒なのは分かる。よりにもよってこの医者が居る病院が標的だったなんて、ある意味運が悪すぎた。
俺がそんなことを思っていると、女医は続けた。
「しかし奇特な奴がいたもんだ。扉を蹴破って来たかと思えば、男の第一声が、
なんじゃオリャー!!
とかいってきて、それは私のセリフだろう!と盛大に突っ込んでしまった
。 まぁ、そんな言い方はしないでも、風貌からして牧師かなんかなのだろうが、
本当に変な奴だったな。今度あったらただではおかん」
………、HAHAHA,ほんとうに奇特な奴がいたもんだなぁ。この人のことだ。メスの何本かが宙を舞ったのだろう。
これは、もう、この話題に触れないほうがいいかも知れん。
良く考えればあの牧師風に指した道は今日の帰り道の方向だったような気がしないでもないなぁ…。
「そうか、災難だったな…アンジュ、部屋戻ろうか?」
颯爽と背を向け病室に戻ろうとしたが、
「ちょっと待てぃ」
ぐゎし
鋭い痛みが肩に走った。鬼のような力で俺の肩を女医が握っている。
「お前、何か知っているだろう」
鋭いのは痛みだけではなかった!!
「あんた、凄い力だな。握力一体いくつだよ」
「話を誤魔化さないでもらおうか。それともりんご二個を同時に破壊したその真価を見たいとでも?」 ………。
「アンジュ、お兄ちゃんはちょっと先生とお話がある。先に病室に戻っていてくれ」
「に、兄さん!」
「話は向こうで聞いてやる、歩け!」
「ヒィィィ!!」
「にいさーん…!!」
アンジュの俺を呼ぶ声がだんだん遠くなるのが分かった。

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「ったく、お前は碌なことをせんな」
「ちょっとしたお茶目心だろ。だいたい俺がいつ碌でないことをしたって言うんだ」
「………」
「あ、俺記憶喪失だから、そんなことした覚えないや」
「もういっぺん眠りにつくか」
「ヒィィィィ」
あれから、診察室で逆さづりにされた挙句(しかも亀甲縛りだった)、髪が伸びた、
とかいって投げナイフならぬ投げメスで散髪が行われた。サーカスもびっくりの荒業だ。
そしてアンジュが釣ってきた魚を調理する予定だったのだが、今日も俺はピーマンだけだった。
だが、折角俺と一緒に言って釣ってきた魚だから、
とアンジュが申し出てくれたおかげで俺は今日はたんぱく質にありつくことが出来た。俺はいい妹を持った!!
「星の数だよ。お前がやった碌でもないことは…」
「…お前は俺を知っているのか?」
「…まぁな」
カロン…
カラン…
同時に揺れる女医の手の中のグラスの氷、俺のグラスの氷。
「なら教えてくれよ。俺、記憶喪失なんだろ?なにか思い出す手がかりに…」
コトン
女医がグラスをテーブルに置く。
「やめておけ」
「なんでだよ」
「お前、今あの子と居てどうだ」
「?アンジュか?」
「あぁ、そうだ」
「どう、って別に」
「幸せ、ってのは、そうそう簡単になれるもんじゃない。」
トクトクトク…
グラスに新たなブランデーを注いでいく。
「増してや人間は、今を不幸だと決め付けて欲望を満たそうとする。
 ユングヴィ。君は今幸せなんだよ。幸せに気づいてやれ」
わからなかった。こいつの言っていることが。
幸せ?記憶喪失だって言うのに?気づく?何に?
「どういう意味だよ」
「何れ分かるときが来るだろう。存外、そのときは近いかも知れんぞ」
最後の一杯を飲み干すと、女医は部屋を出て行ってしまった。
聞きたいことは沢山あるのに…仕方ない、また今度聞くか。
今聞いても教えてもらえそうになかった。

この島の秘密。今日知ったことは、女医とザックとか言う男が俺の過去を知っているかもしれないということだった。

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「ハァ、気が重いぜ」
「もう、元はといえば兄さんが変なことしようとするから…」
俺たちは島の町の、ちょっと外れにある(病院も外れにあるが、西側の病院と逆、東側にある)教会に来ていた。
大したことはないが、ちょっと作りの細かい取っ手が俺の気分をゲンナリさせた。

ことは数時間前に遡る。

チチチ…
ふぁさ…
この時期ともなると、朝でも少し暑く、二度寝への意欲を削られる。俺の部屋は日当たりのいいほうだった。
エアコンはあるのだが、女医曰く、俺は記憶がない以外ほぼ健康、使うだけ経済的・環境的に損だ、とか言いやがって稼動しない。
そして何より俺の早起きの促進なのかもしれなかった。
「姑息な手を…だが俺は負けない!」
ぼむっ
俺は再びシーツの海原へとダイブ!!
「起きんかい」
スパーン!
「つつ…何をする」
シーツから顔を上げるとそこには不良医者が居た。
「このクソ暑いというに、二度寝をするな。シーツが汚れる」
「あの…俺患者だよね…俺の心配してください」
「たわけ。頭以外は正常だろう」
なぜこうも嫌な言い方しか出来ないでか。
「さっさと来い、朝食の準備はもう出来ているぞ。アンジュ君も待っている」
俺は渋々体をベッドから起こすと、女医についていって食堂へと向かった。

食堂の扉を開けると、アンジュが手を振って俺を呼んだ。
「ほら、行ってやれお兄ちゃん」
「うるせ」
半ばムシしながら俺は女医の横を通り過ぎると、アンジュの座っているテーブルへと向かった。
「おはようございます、兄さん♪」
「あ、あぁおはよう」
テーブルの向かいに座ると、そこには、いつもと違う、♪マークが飛び出そうな勢いの妹が居た。
「なんだか機嫌よさそうだな」
「うん、嬉しくて。謝りに行くとはいえ、兄さんと行くのは初めてだから!」
待て。話が見えない。俺の見えないところで話が進んでいる。
「えっと…どこへ?」
言いながらサラダのトマトをフォークに刺す。
「え?教会に行くんじゃないですか?さっき先生が今日は兄さんが教会に用事があるから一緒に行ってやれ、って…」
ポトリ
トマトがフォークから落ちた。

「どういうことだよ」
「お前が自分で蒔いた種だ、ちゃんと謝って来い」
後ろでアンジュが苦笑してた。
朝食を終え、診察室でくつろいでる女医の元へ行くと、なんでも昨日悪戯した牧師に謝って来いとの鼓と。
「だいたいアンタは行かないのか。あんただってメスを振り回すわなんだかんだしたんだ…」
「お前もそうして欲しいのか」
気づくとさっきまで椅子で寛いでいた女医がゼロ距離で抜刀ならぬ抜メスしていた。
「それでは教会に詫びを入れて参ります」
「よろしい」
アンジュは最後まで苦笑してた。


そういうわけで俺たちは教会に来ていた。
「もう、兄さん、ちゃんと謝らなきゃ、行くよ」
「あ…」
アンジュがためらう俺の手を小さな手で覆って、そのまま取っ手を握る俺の手ごと引っ張って扉を開けた。
…なんだろう。昔にもこんなことあったような…。

『えー、ヤだよ、おっちゃん絶対キれてるもん』
『もとはといえばお兄ちゃんが悪いんだからね!お兄ちゃんが隣のお屋敷のりんごを全部部屋から、エアガンで打ち落とす!、とかわけのわからないこというから』
『ほんとに全部打ち落とせた俺ってすげぇw!』
『すげぇw、じゃなくて行くの!あとでお母様にも怒られるんだから!』
『うわぁ、やめてくれぇ…、ここのおっちゃんは遠くジャパーンの今は亡き雷オヤジの…』
ズリズリ…

「…さん…兄さん?」
「ん…あ…」
「もう、どうしたの?」
「悪い、ちょっと、ぼうっとしてた」
「もう、今日はちゃんと謝りに行くんだからね」
「はぃはぃ」
っていうか、あのバカ医者がメスなんぞ振り回さなきゃただの悪戯で終わったんじゃねぇのか?
ギィィィィ
「お…」
扉を開けると、予想外の光景が目に付いた。まず、礼拝に来ている人が多かった。
「こんな小さな村の小さな教会にここまで礼拝に来るのは珍しいな」
「そうですね。そうかもしれません」
アンジュが隣で曖昧に相槌を打った。
…これだけ人が居るということは…この町の人間はよほど信心深いのか、あるいは祈りを挙げるための何かがあるのか。
また、こうしてみると色々な人が居る。ケニー、エドゥ、ザック…この島であった奴らを見ても、
肌の色や喋り方、…明らかに人種が違うか、少なくとも出身は違う。この小さな島で、そこまでの人間の相違が現れるとは思えない。
この教会を見渡しても祈りを捧げる人々は多種の人種から成っているようだった。
俺が邪推をしていると、一人の男が近づいてきた。
「おぅ、ユンにアンジュちゃん」
「ザックさん」
漁師だったか。金髪の男が話しかけてきた。
「今日は休漁か?」
「まぁな。ユン…お前こそ今日はお祈りか?…と、今のお前は記憶がないんだったな」
「ザック…あんたは俺の過去を知ってるのか?」
「あ、その、なんだ…」
「ザックさん!」
「そういうわけなんだ…。お前には早く記憶が戻って欲しいとは思ってるけど、俺の口からは…」
「………」
「………」
少し、重たい空気が鎮座した。
知らないことの幸せ、か。俺には記憶はないけれど。
そんなもんがあるほど、俺という人間は大人だったんだな…。
「オー、アナタハー」
そんな空気を切り裂くように胡散臭い言葉が聞こえてきた。この声は…。
「コノ間ワタシニ嘘教エタ人ーーー!!」
「あぁ、悪かったな。ちょっと悪戯心が芽生えたもんで」
「もう、兄さん!」
「はっは、おめぇは記憶なくても変わらんな」
…なんか、ザックの発言に俺の存在が否定された気がした。
「イインデース、神サマ、ミナ平等デース!」
「そいつぁよかった」
「良かったね、兄さん」
心の広い牧師でよかった。やはりどこか頭の中が平和ボケしてるようだ。また悪戯してやろう。
「どこかのバカ医者が色々振り回したようで。流石にそこまでは予測できなかった。命があってよかったな」
「もう…。あの、これ粗品ですが…」
「Oh,オ嬢サン、アリガトウゴザイマス」
お菓子の包みを渡すアンジュ。包みを受け取ると、部屋で司教たちに分けてくるといって奥の事務室に行ってしまった。
「仲良くやってんだな」
それを見ていたザックがつぶやいた。
「あの牧師は違う国の人間なんだよ」
「どういうことだ?」
「なんでもねぇ。それじゃ俺は港に戻る。じゃあな!!」
ぎぃ、ばたん
「ザックさん…」
教会から出て行ったザックをアンジュが静かに見守っていた。
「アンジュ…」
「ねぇ、兄さん」
「?」
「来て」
「え、おぃ…!」
急に手を引っ張り出すと小さな子供みたいにはしゃいで教会の奥へと早足に歩き出す。
「ほら、兄さん」
「あ、あぁ」

奥には、聖母像があった。いつからのものだろう。像は少し錆付いてくすみ、母は寂しそうな笑顔を湛えていた。
祈れというのだろうか。何に?幸せに?記憶が戻ることに?
でも、女医もアンジュもザックもまるで記憶が戻ることが幸せじゃないみたいだった。
だったら、何に…
「ねぇ…」
気がつけば、兄さん、と妹が俺の手を握っていた。
「ドレスを着ていたなら、結婚式みたいだね」
「…ばぁか」
胸が高鳴っていた。幸せは、多分、すぐそこにあった。
「アンジュ」
変わりに背丈の低いアンジュの頭に手を乗せる。
「俺の記憶がないのが、寂しいか?」
柔らかな髪、静かに撫でる。
「俺は…アンジュやザック、あの不良医者の言うように、記憶なんていらない気がするんだ…。
 今こうしていられるから。お前を好きでいられるから」
「兄さん…」
人目も、聖母すらも気にせず、俺はアンジュを抱きしめてた。

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その帰り道…。
「えへへ…」
「なんだよ、気持ち悪いな」
「だって嬉しいんだもん」
町の東にある教会と反対側、町西の病院に帰るまでの道のり。西日が煌き、向こう、海に反射していた。
「お前さ、ザックは?」
「え?」
「あいつと…その…ごにょごにょ」
「あー、もしかして兄さん、妬いてるの?」
「ば、ちが、そうじゃなくて俺は兄としてだな…」
「あ、照れてるー」
「この!」
二人赤い顔を夕日のせいにしながら、病院までの間だけど、繋いだ手は暖かかった。

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「ったく、お前は。実の妹に手をかけるのか?」
「ばっ、あんたどこで聞いたんだよ!」
「アンジュ君が嬉々として私に話したぞ」
「〜〜〜っ」
そういう女医も嬉々としてグラスの氷をカラカラとならす。
俺は相変わらず入院していて、記憶も戻らないままだったけど、何不自由なく生活していた。
最近では病院の仕事を手伝うほどだ。って言ってもいつも通り買出しとそれに加えて掃除とか食事の準備、
あとは医療事務にかかわる簡単な雑用とかだった(カルテ整理とかだ)。
アンジュについては、まだ思い出せないし、当人も、女医も何も言わなかった。
「妹、たって、俺には記憶がない。そういう感情が沸いたって当然だろう」
「わからんぞ?お前はもしかしたらシスコンだったんじゃないのか?」
「マジかよ…思い出さないほうが幸せ、ってそういうことなのかよ…」

季節も変わって。
ザァァァァ…
雨が降ってた。
「今日も雨か…」
アンジュが窓にへばりつき、口惜しそうに外を見つめていた。
「仕方ないだろう。この季節ばかりは前線が停滞するからな」
「つまんないな…」
「そのうち止むだろうけど、しばらくは危ないな。台風が来てるみたいだし」
「えーっ」
「病院の買い出しも最小限に抑えて出るぐらいにしないと、途中海辺の道通るから危ないぞ?」
「へーきですよ、そのくらい」
俺はこいつの病気がなんなのかも聞かされていない。みすみす危険因子は作りたくなかった。
「アンジュ」
「兄さん…」
コンコン…
「入るぞ」
ガチャリ
許可を出しても居ないのに女医が入ってきた。
「まだ入って良いとは言ってないぞ」
「お前には聞いてない」
あきれた様子だが、一応相槌を返してくれた。
「どうぞ」
「君も遅いな、アンジュ君…」
早く用件を言え。
「そうそう、朝のニュースを見て知ってると思うが、ちょっと大き目の台風が近づいていてな。
君たちも大変だと思うから、今のうちに買出しに行ってもらおうと思ってな」
「わかった」
「おぃ」
「ん?」
「ちょっと耳貸せ」
女医が強引に俺を引っ張ってくると、無理やり俺の耳に情報を垂れ流した。
「ひそひそ(ここは医療機関だ。一応避妊具も取り揃えてあるから買う必要はないぞ)!」
「ぶっ」
盛大に吹いた。
「ば、バカか、ンなことするか!第一、アンジュは患者なんじゃないのか!」
「ひそひそ(そっちの機能はバッチリだぞ。無論、新品だ。今日なんか安全だぞv)」
「か、帰れセクハラ医者!!」
「どうしたんですか、兄さん」
俺が声を荒げてオヤジ化した女医を追い払っていると、気になったのか話しかけてきた。
だ、ダメだ。
不覚にもあんなこと言われた後に、アンジュをまっすぐ見つめられない!!
俺の眼差しは勿論、何より心の眼差しが。
「あ"っぁ〜〜〜〜!!」
俺は狂気の悲鳴を上げ床でもんどりうった。

「もう、びっくりするじゃないですか」
「いや、その、…」
シトシト…
雨の弱まってきた頃を計り、買出しに出ることにした。俺は黒くて大きな傘を、アンジュは小さくて紅い傘をそれぞれ差して。いつもの町への道を歩いていた。
「もう、また倒れて…また、独りぼっちになっちゃうかと思った…」
「………」
「ばか…なのは俺か。だいじょぶだよ、俺、結構丈夫みたいだし(頭以外は)。しばらくリアクション芸は封印するさ」
くそう、元凶はあの淫乱医者なのに!!
アンジュと時間を共有するようになって確信していった。
こいつは、出来るだけ強くあろうとしてるだけで、ほんとは凄く脆くて、弱くて、泣き虫で…。
今、俺って言う存在があって、それが彼女を支える柱になってる。もう、彼女自身の柱は罅が入っていたんだ…。
しかし、"また"、か。彼女は俺の記憶を無くした時のことを覚えているのか?
俺はそんなことを考えながら街へと歩いていった。空が暗く翳り始めていた。

「よし、これで大体買い終えたかな」
「そうですね。これだけあれば1,2日分は保つと思いますよ」
「ったく、街の近くに病院建てろよな…」
俺の愚痴にアンジュが苦笑する。
ふと
ポツン…
鼻先に雫。そして次第にそれは増えていき…
ザァアアアア…
「降ってきやがった…」
「降って来ちゃった…」
顔を見合わす。
「もっと非道くならない内に急いで帰るか」
「えぇ…あ!」
頷いたのも束の間、アンジュは走り出していってしまった。
「…アンジュ?」
たたた…
その先には、店の軒先で立ち止まっている、いや、外に出られないでいる小さな、アンジュよりもずっと年の低そうな少年がいた。
「お買い物?」
アンジュが話しかけてる。
「うん…でも雨降って来ちゃって…」
「そっか…偉いね。よし、じゃぁお姉ちゃんの傘、あげる!」
「いいの?お姉ちゃんは?」
「大丈夫、もう一本おっきな傘があるから」
「ほんと?ありがとうお姉ちゃん!」
そういうと、少年はアンジュの差し出していた赤い傘を遠慮がちではあるが受け取り、礼を言って急ぎ足で家路へと着いていった。
「ったく、仕方無ぇな…」
「えへへ…」

病院に戻ってから数時間。夕食の最中に思わぬ客は現れる。
コンコン…コンコン!!
病院の食堂の扉を少し強めなノックが訪れた。
「?」
俺とアンジュは顔を見合わせた。この病院で入院しているものだったら、個室でもなければわざわざノックなんてしないさ。
女医は立ち上がると、客を出迎えた。
ガチャ…
そこには、30を半ばも過ぎた中年の女性が立っていた。
傘は差してきたが急いできたのだろう。体の至る所が雨に濡れていた。
「あの…こちらにうちの子供は来てませんか?」
中年の女性が問う。
「?」
女医がジト目で俺を睨んだ。
知らん。知らんぞ、俺は何もしてない!
俺は首が取れるかと思うほど高速で、懐に利き腕を突っ込んでいる女医に、否定のジェスチャーを送った。
なんで俺だ。
「そうですか…ウチに帰ってきたら、病院のお姉ちゃんに傘を返しに行くんだって…」
「!」
俺達は顔を見合わせた。
「あの子だ」
「私の傘?」
「何か知っているのか?」
俺達は女医とおばさんのもとへ行くと、食堂を一度出た。

「そうか。少年はアンジュ君の貸した傘を返そうとこの嵐の中、病院を目指していたと言うんだな」
「えぇ、恐らくそう言うことだと思います」
聞く限り、ここに辿り着いていないと言うことは…かなりまずい状況だ。
早く見つけないと子供の体力がもたんな…。
「あ…私が…傘なんか貸したから…」
「ん?」
振り返ると少し青い顔をしたアンジュがそう呟いていた。
「バカ。誰が雨ン中自分の傘貸し出したヤツ責めんだよ」
俺はいつかみたいにアンジュの頭に手を乗っけると、くしゅくしゅとかき回した。
「おい」
女医が俺を呼び止める。
「分かってるって。行ってくれば良いんだろ?」
「あぁ。分かってるなら良い」
「おばちゃんはちょっと待っててよ。」
「いや、私も…」
「ここまで来るのに結構バテてるだろ?風も雨もかなり強くなってきてる。動けるヤツだけ動いた方が良い」
俺はこれ以上遭難者を出さないためにもおばちゃんに釘を刺す。
「じゃぁ俺は行ってくる」
「兄さん…私も…」
「アンジュは…」
色々な理由で待っていて貰おうと思ったが。
「………」
女医の目が連れて行ってやれと催促していた。
…まぁ、こいつが責任感じている以上連れていってやりたいのもある。
「よし、いこう」
俺は黙って頷き、傘立てから傘を引き抜き、扉に手をかけた。
バン!!
「大変だ!橋が決壊して川の中州に流された子供が取り残されてる!ちょっと悪いけどユン借りてくぜ!?ってあれ?ユングヴィは?」
女医の、アンジュの、おばちゃんの指差す先、俺は潰れていた。

「うわー!俺の鼻栓が!血が!!」
強い風で鼻に挿していた栓が吹っ飛んで再び血が流れ出す。というか、傘も差してくるんじゃなかったかな…結構走りづらい。
「ははは、だっせェなw」
「誰のせいだ誰の!」
「もう、二人とも今は言い合ってる場合じゃないです!」
病院近く、川に架かる橋を目指しながら走る。ザックの話によると、増水により橋が決壊、
そこで流された子供が不幸中の幸いか泣かすに取り残されてしまったらしい。
俺だけは走りながら鼻栓を詰め替えている。
「ここか」
橋に辿り着くと、見事に橋は壊れ、激しい流れが轟々と音を立てている。
「結構激しいな」
「この分だと結構流されてる…か」
「どうするの?」
「下流へ様子を見に行こう」

しばらく川沿いに進んだところ、少年はいた。不安そうな顔で怯えている。
「いた!おーい!」
「あ、お姉ちゃん達!」
「今助けるから!」
とりあえず少年に言葉を投げかける。
「で、どうするよ!結構距離あるぜ!?持ってきたロープじゃ届くかどうか…」
「泳ぐ」
「は?何いってんだよ!辿り着く前にお前が流されちまうだろうが!」
「そうだよ兄さん!」
「アホ、誰がここから泳いで渡るなんて言ったんだよ。俺は少し上流から飛び込んで中州を目指す。ザックは浮き輪の変わりになるものを見つけてきてくれ。アンジュ、お前はここに残れ」
「兄さん、私も何か…!」
「一人で不安になってるヤツがいる」
「あ…」
「いいな?それじゃ二人とも、頼んだぜ!」
「了解」
「わかった」

俺は激しい雨の中、少しばかり上流に駆け戻り、傘をその辺に置くと飛び込んだ。
ざばぁ!
体が持って行かれる…脅威と化した自然はみるみるうちに俺の体を下流へと運んでいく!
茶色く濁った水の中、なんとか水を掻き分けて川の中程目指す。少年のいる中州まであと少し。
(見えた!)
中州はほとんど流れに削り取られ、少年は今にも流されそうになっていた。
「ザーーック!」
「おうよ!」
「うわぁ!」
俺がザックを呼ぶと同時に少年の悲鳴が響く。
ざぶん!
とうとう流水に削り取られてなくなってしまった中州から少年の体が川へ落ちた!
「っと!」
ジャストタイミングで俺は少年の体を捕まえる。背中に回すと、おんぶの形で体を掴ませる。
「だいじょぶか?しっかりつかまってろよ」
「うん…でもお兄ちゃんこそ大丈夫…?すごい血が出てる…」
「大丈夫。ただの鼻血だ」
当然ながら鼻栓なんか流されてた。
中州のある場所よりやや下流。そこにザックが待ち構えている。
ザックは俺達に向かってロープのついた丸太を奇声と共にブン投げた!
「う゛ぁああああああ!!」
ぶぉぉぉぉん!!
「え…」
その丸太はまっすぐ俺の方へ飛んできて
ズガン!!!
俺に命中した。
「兄さん!!」
「うわ、やべ!おい少年!とりあえずその兄ちゃんはいいから丸太につかまれ!!早く!!!」
おい。
背中から子供が移動する感触だけが伝わる。これでとりあえず子供は無事か…?
ぶくぶく…
今の衝撃で体がまともに動かない。仕方ない、少し意識が冴えるまで体を休ませて下流で岸に着こう。
そう考えてる時だった。
「兄さん!」
ざぶん。
「アンジュちゃん?!」
「お姉ちゃん!」
嫌な予感がした。
「きゃああああああ!!」
嫌な予感は1秒後、的中した。俺が軽くダウンしたのを心配してだろう。アンジュが川に飛び込みやがった!
「テメ、あとで覚えてやがれ!!」 俺はザックにそれだけ叫ぶと、痛みによる目眩と麻痺が震撼する体に鞭を打って、再び泳ぎ始めた。

泥水の中じゃ視界は効かない。寧ろ、目なんか開けたら暫くム○カ状態だ。
アンジュを目指して闇雲に泳ぎ、顔を水面から上げてアンジュの位置を確認するとまた泳ぎ始める。
くそ、流れが速くなってきてる…このままだと海までいっちまう!
どれだけ繰り返したろう。口の中が泥でジャリジャリ言って気持ち悪いくらいになってくると、アンジュの体を捕まえた。
「だいじょうぶか!?」
「兄さん…私…兄さんに迷惑かけてばかりだね…。」
「まったくだ」
しかし、会話してる場合じゃない。この状況を打破しないと。
しかしつかまれそうな岸がない!このままじゃほんとに海まで流されちまう!
くそ…どうしたらいい。
「つかまれ!!」
え?
そのとき、浮き輪ロープが投げられた。溺れる者、浮き輪を掴む。
「いいか?引き上げッぞ!!」
俺達の体は岸に引き上げられた。

「いんや、良がった、畑の見回りさ行ったら、あんちゃん達が川で大変なことになってるって聞いたからよ」
「ほんと、感謝してるよ、ケニーさん。どっかのバカとは違って」
「ち、悪かった、って言ってンだろ!俺だってワザとやったわけじゃねぇよ!」
あれから。俺達は一度病院に戻って暖をとった。
子供は無事で、親と共に一晩病院に泊まっていく運びとなった。
ガチャ
「ほら、ホットレモネードだ」
「サンキュ」
女医からカップを受け取る。
「二人もどうぞ」
「あざす」
「しょーしな(ありがとう)」
「アンジュは?」
「…よく眠っているよ」
「そっか」
「んー心配か?」
ザックが横から小突いてくる。
「あ、当たり前だろ!」
「ほぉ。先生、こいつは記憶を失っても」
「あぁ」
「うるさいな、兄として妹を心配するのは…」
「はいはい当たり前ですね、お兄ちゃん♪」
ザック…いつか殺す。


しかし、それから数日。アンジュの様態が悪化し始めた…。
-第一章 OliveHill-