『フィガロの離婚』なんでもわかるQ&A

地人会公演『フィガロの離婚』の作者ホルヴァートと作品の背景について、翻訳者の新野守広さん(立教大学教授)がわかりやすくまとめてくださいました。

■ホルヴァートの生涯と『フィガロの離婚』
   Q1:ホルヴァートはいつ、どこに生まれた人ですか?
   Q2:創作活動をはじめたのはいつ頃ですか?
   Q3:第一次世界大戦敗戦直後のドイツ社会の混乱は作品に影響を与えましたか?
   Q4:ブレイクしたのはいつ頃ですか?
   Q5:ヒトラーの政権掌握は、ホルヴァートにどのようなダメージを与えましたか?
   Q6:『フィガロの離婚』は喜劇と名付けられていますが、その背景は?
   Q7:『フィガロの離婚』はどのように評価されていますか?

■『フィガロ』をめぐる物語
『フィガロの離婚』は、19世紀後半にボーマルシェによって書かれた『フィガロの結婚』を下敷きにしています。ところで、アルマヴィーヴァ伯爵、伯爵夫人、フィガロ、スザンネをはじめとする登場人物たちは、『フィガロの結婚』だけに姿を見せるのではありません。『セビーリャの理髪師』、『フィガロの結婚』、『罪ある母』というボーマルシェの三部作全体が、若い頃の彼らの出会いから初老の頃にいたるまでの出来事をたどる連作になっています。それは青春時代の初々しい出会いから、熟年離婚へといたる現代のカップルの物語にも似ています。ここでは、この三部作について簡単にまとめてみます。
   Q1:ボーマルシェはどういう人生を送った人ですか?
   Q2:ボーマルシェ三部作はどんな物語ですか?
   Q3:『セビーリャの理髪師』(四幕喜劇)
   Q4:『フィガロの結婚』(四幕喜劇)
   Q5:『罪ある母』

■参考 ホルヴァート年譜
■参考 日本語で読めるホルヴァートの戯曲と小説

Q1:ホルヴァートはいつ、どこに生まれた人ですか?

1901年、アドリア海に面するオーストリア・ハンガリー帝国の港町リエーカ(Rijeka)(現クロアチア)に生まれました。父は多民族オーストリア・ハンガリー帝国の外交官、母はドイツ軍医の家系の出。父方にはマジャール系とクロアチア系が、母方にはチェコ系とドイツ系が混ざっていました。「エデン(Odon)」はハンガリー名です。ドイツ名は「エトムント(Edmund)」となります。外交官である父の転勤にしたがって、ベオグラード、ブタペスト、ミュンヒェン、プレスブルク、ウィーンを点々としましたが、短期間に転勤したため、各地の外国語が身に付くことはなかったようです。ホルヴァート本人は、ドイツ語は14歳ではじめて書いたと記しています。
 外交官である父はリベラルで開放的な政治信条の持ち主で、多民族国家であるオーストリア・ハンガリー帝国の少数民族のために尽力しました。作家になる決意を固めた息子エデンにも理解を示しました。

Q2:創作活動をはじめたのはいつ頃ですか?

ホルヴァートは、1919年ドイツのミュンヒェン大学に入学し、心理学、文学、演劇学、芸術学の講義を聴講しました。ちょうど前年の1918年に第二次世界大戦が終わり、ドイツではドイツ帝国が敗戦により終焉を迎え、新しくワイマール共和国が成立したばかりでした。在学中の1920年、『舞踏の本』というバレエ用のパントマイムの台本を書きました。この本は1922年に出版され、1926年にオスナブリュックで初演されました。しかし後にホルヴァートはこの第一作に不満を覚え、父の金銭上の助力を得て、残部をすべて買い取ろうとしたほどです。


Q3:第一次世界大戦敗戦直後のドイツ社会の混乱は作品に影響を与えましたか?

与えました。というよりも、経済的政治的に混乱し、格差が助長し、政治的に緊迫するドイツ社会を描くことこそが彼の作品の根本モチーフになっています。
敗戦後のドイツ経済の混乱は1923年に最悪化し、年間数百%にもおよぶ極度のインフレになりました。街頭には失業者があふれ、一部の富裕な資本家層と中間の小市民層と大多数の労働者層に分かれた格差社会となり、右翼が台頭し、共産党が支持され、左右両翼間の対立が激化する緊迫した政治経済状況が生まれました。インフレが収まると「黄金の20年代」と呼ばれるつかの間の繁栄期が訪れ、その中心となった大都市ベルリンにはキャバレー、劇場、映画などのさまざまな文化産業が花開きました。しかしこの繁栄は政治的経済的な緊迫状態の裏面でした。ホルヴァートは、同時代の演劇人ブレヒトとならんで、ドイツ社会の矛盾を描いています。
1923年、ホルヴァートは最初の本格的な戯曲『『モーレン通りの殺人』と、散文『スポーツ童話』を書き上げました。そしてはじめてベルリンに長期滞在しました。以後彼は「黄金の20年代」の中心地ベルリンに頻繁に滞在します。地方にいるだけでは「精神的な静止状態」と「ロマン主義」に陥る危険があるというのです。ホルヴァート一家はミュンヒェン近郊の湖畔の保養地ムルナウに家を買いましたので、地方と大都会を往復する生活に入ります。 1926年に書かれた戯曲『絶景ホテル』は、この美しき湖畔の町ムルナウを舞台にしています。ところでこの美しき南ドイツの保養地は、緊迫する政治と無縁ではありませんでした。極右(ナチス)は地方の人々の生活に浸透します。1931年にホルヴァートはムルナウで、極右急進派と社会民主主義者の乱闘を目撃します。ホルヴァートの作品には、極右、ナチス、民族主義といった右翼思想が当時の人々の心をつかむ様子が描かれます。1928年に書かれた戯曲『秘密義勇軍スレデク』、1930年に書かれた民衆劇『イタリア風ガーデンパーティーの夕べ』、1937年に書かれた小説『現代の子』がその代表例です。

Q4:ブレイクしたのはいつ頃ですか?

ブレイクしたのは1931から32年です。有名な戯曲『ウィーンの森の物語』と戯曲『カシミールとカロリーネ』が上演されました。どちらも民衆劇(Volksstuck)と名付けられています。今日、ホルヴァートといえば、この二本の戯曲が最も有名です。
今や演劇界には、ホルヴァートの名が轟き始めました。ところが1933年3月のドイツ総選挙でナチス党が過半数を獲得します。これによりヒトラーが政権掌握し、多数決の力でワイマール共和国議会を終焉させ、ナチス党の一党独裁体制が合法的に誕生します。
ホルヴァートは心情的には左翼の側についていましたが、ブレヒトのように政治活動を行っていたわけではありません。またユダヤ人でもありませんでしたから、直接ナチスから排撃されることはありませんでした。しかし、オーストリアとハンガリーを出自とし、その多民族性にコスモポリタンの誇りを見出していたホルヴァートは、戯曲を上演してくれる劇場が激変したため、いったんドイツを去ります。ムルナウの両親の家は、ナチス突撃隊の捜索を受けました。


Q5:ヒトラーの政権掌握は、ホルヴァートにどのようなダメージを与えましたか?

ドイツを去ったホルヴァートは、1933年にウィーンでユダヤ人女性歌手と結婚し、ハンガリー国籍を取得します(一年後に離婚)。そしてハンガリー国籍を利用してベルリンに行き、ドイツ作家協会に入会を申請します。ドイツ作家協会の作家だけがドイツ国内での活動を許されたからです(このドイツ作家協会は1937年に強制退会となります。戯曲を上演してくれる劇場がなかなか見つからず、経済的に苦境に陥り、年会費が払えなくなったからです)。
 ホルヴァートはナチスと妥協して、作家活動を続けようとしました。その背景には、ドイツの隣国オーストリアで彼の戯曲を上演してくれる劇場がなかなか見つからなかったことがあります。オーストリアは当時共和国でしたが、その社会はナチスの支配するドイツに劣らず排他的、かつ民族主義的であったと言います。ホルヴァートは民衆劇『ウィーンの森の物語』で、ウィーンの保守層から反感を買っていました。したがって、ドイツを去ってオーストリアで劇作家活動を続けることはむずかしかったのです。そのためペンネームを使ったり、共同執筆者となったりして、ドイツ国内で映画の脚本を書き、当座の生活を続けました。
1937年にアムステルダムの亡命出版社から小説『神なき青春』が出版され、数ヶ国語に翻訳される好評を得ます。そして『フィガロの離婚』と『男のいない村』の初演がプラハで、『最後の審判の日』の初演がメーリッシュ-オストラウ(現チェコ)で実現します。小説が出版され、チェコでの公演が実現し、ようやく経済的にもほっと一息ついたのですが、翌1938年オーストリアがナチスドイツに併合されて、状況が険悪化したため、ホルヴァートはパリに去ります。
パリでは『神なき青春』と『現代の子』の翻訳者に会い、『神なき青春』の映画化を計画していたアメリカのプロデューサーに会います。プロデューサーとの面談を終えたホルヴァートは、ホテルへ帰る途中シャンゼリゼを歩いていたところ、突然並木の大枝が落下し、直撃されて死亡します。

Q6:『フィガロの離婚』は喜劇と名付けられていますが、その背景は?

ホルヴァートは、ナチスの台頭とともに作風を変えました。「民衆劇」から「人間の喜劇」へ変えたのです。『フィガロの離婚』は後者に属していますので、喜劇と名付けられています。
まず「民衆劇」ですが、1931から32年にかけてホルヴァートの名を一躍有名にした戯曲『ウィーンの森の物語』と戯曲『カシミールとカロリーネ』は、ホルヴァート自身によって民衆劇と名付けられています。もともとオーストリアには、ウィーン民衆劇と呼ばれる喜劇が盛んでした。それは19世紀のウィーンでの市民革命(1848)の結果生まれた、市民階層の大衆演劇でした。
 ホルヴァートは、この19世紀の民衆劇を現代化しようとしました。社会の格差が拡大し、失業者があふれ、左翼と右翼の対立が激化する社会の実態を、教養階層が使う常套句やセンチメンタルな場面を多く用いて鋭く描こうとしたのです。ホルヴァートの描く登場人物たちは標準語で話します。ところが描かれている人々は実際には方言で生活していますから、そこに本音と建前のギャップが皮肉となって響きます。さらに登場人物たちは、当時の映画や流行本などではやったフレーズをたびたび引用して滔々と話し出しますが、すぐに会話は途切れ、「沈黙」というト書きが現れます。そのためホルヴァートの民衆劇では、文明化されていく人々の生活の実態との乖離が観客に的確に伝わる効果があると評価されてきました。この点は翻訳で再現するのは難しいところです。 『ウィーンの森の物語』は、ウィーンの下町の人形修理屋の娘が踊り子になり、やがて身を持ち崩して子供を失う物語です。『カシミールとカロリーネ』は、ミュンヒェンの11月の盛大なお祭りの一晩を舞台に、失業した彼氏と別れた女性が騒動に巻き込まれる話です。どちらの戯曲でもホルヴァートは、男女の恋愛ドラマを通してかなり残酷な社会状況を描いていますが、最後には希望の光が差してきます。『ウィーンの森の物語』では、失意の主人公(女性)を昔の許婚者が、『カシミールとカロリーネ』では失意の主人公(女性)を新しい彼氏が、優しく迎えます。
ホルヴァート  1932年以降、ホルヴァートは「人間の喜劇」を描くことを目標に掲げました。『セーヌ川の身元不明の女』(1933)、『行ったり来たり』(1934)、『一押し、二押し』(1935)、『フィガロの離婚』(1936)がそうです。実際『フィガロの離婚』はプラハの観客から大好評を受けました。しかしこれらの喜劇には、ナチスの支配するドイツでの経済的な苦境から抜け出すための妥協の産物という側面がありました。そこでホルヴァートはさらに喜劇の執筆を進め、1937年にファシズムに毒された少年や若者の姿を描く『男のいない村』と『ポンペイ、ある地震の喜劇』を書きました。これらの喜劇は、ナチス化されていくドイツ社会を内側から描いた貴重な劇文学としての価値があります。
 第二次世界大戦以後、長らくホルヴァートは忘れ去れていましたが、1960年代末、学生運動が盛んになる頃、西ドイツで再び脚光を浴びるようになりました。当時の学生運動を担った若い人々は、西ドイツ社会が戦前のナチスの責任を明確化していないと訴えました。そのような時代のなかでホルヴァートは、ナチス化していくドイツ社会を内側から描いたすぐれた劇作家として再評価されました。
 現在では60年代末ほどの活況はありませんが、毎年ドイツ語圏のどこかの劇場がレパートリーに取り上げる程度には上演されています。それらはおもに『ウィーンの森の物語』と『カシミールとカロリーネ』ですが、1999年には有名なオペラ演出家のリュック・ボンディがウィーン芸術週間で『フィガロの離婚』を上演したこともあります。


Q7:『フィガロの離婚』はどのように評価されていますか?

『フィガロの離婚』には古い秩序に対する和解があります。これを現状への妥協とみるか、多様な価値観を許す社会への新しい一歩とみるかで、まったく違った戯曲になります。そのためこれまでの研究者たちの評価では、かならずしもはっきりとした判断が下されてはきませんでした。
 『ウィーンの森の物語』や『カシミールとカロリーネ』の登場人物たちに比べると、『フィガロの離婚』の最後の場面で故郷に戻ってきたフィガロは、人生や人間性に対するより積極的で肯定的な考えを持っています。しかし城館の新館長となり、孤児院の孤児たちの教育を引き受け、スザンナと和解して子供をつくる希望を語るフィガロは、戻ってきた伯爵を受け入れるのですから、古い秩序と妥協することになります。
 それは、子供を生まない夫婦を差別する古い社会の延長上にある秩序ですし、男性中心の社会ですし、貴族と召使という封建制度の名残をとどめる社会です。この点を否定的にとらえて、『フィガロの離婚』を積極的に評価しない研究者もいます。また逆に、伯爵を許すフィガロの姿を通して、人間性に重点を置いた寛容な革命がユートピアとして描かれており、全体主義的な残虐な革命思想への抵抗が表現されている、として『フィガロの離婚』を高く評価する研究者もいます。
今回の公演では、古い秩序との妥協という側面を、むしろさまざまな価値観を持つ人々が共存する社会への第一歩の試みとみなすことで、グローバル化する21世紀における『フィガロの離婚』の意味に新しい光が当たるのだと思います。


Q1:ボーマルシェはどういう人生を送った人ですか?

ボーマルシェは本名をピエール=オギュスタン・カロンといい、1732年にパリの時計商の息子として生まれました。野心家だったようで、国王ルイ15世の側室に時計を呈上したりして宮廷に近づき、22歳の時に王室御用の時計職になりました。その後のボーマルシェには、成り上がり者特有の数々のエピソードが生まれます。貴族階級の未亡人と二度結婚し、二度とも夫人が死亡して莫大な遺産が転がり込むという幸運(?!)にめぐまれたり、当時の有力な金融業者である政商に見込まれて多額の援助を得、豪邸をたて高級官位を買い派手な生活を送ったり、1775年にアメリカ独立戦争が始まると、イギリス嫌いの彼はアメリカ独立を支援し、多額の援助をしてアメリカ独立の影の立役者になったりといったように、その半生は劇作家の枠を超えています。『フィガロの結婚』について見ても、この戯曲には貴族階級を風刺する箇所があったため、当時のフランス国王ルイ16世は上演を禁止しました。しかしボーマルシェはさまざまな手段で上流階級の好奇心をかきたてたため、とうとう国王は初演を認め、大好評を得たのです。弁舌さわやかで物怖じせず、どんな偉い相手でも機を見て食いついていくフィガロは、波乱の人生を送ったボーマルシェその人であるという説もあるほどです。
 『フィガロの結婚』は1789年のフランス革命を引き起こす導火線だったという見方もありますが、実際のボーマルシェは保守的な王党派に属していました。革命が起こると一時パリを逃れ、ロンドン、オランダに身を潜めます。革命の混乱が静まる1796年にふたたびパリに戻りますが、その3年後の1799年に脳溢血で亡くなります。

Q2:ボーマルシェ三部作はどんな物語ですか?

ボーマルシェの三部作は、『セビーリャの理髪師』、『フィガロの結婚』、『罪ある母』です。これらはすべて、アルマヴィーヴァ伯爵、伯爵夫人のロジーヌ、フィガロ、スザンネの物語です。『フィガロの離婚』に登場するこの四人は、そもそもボーマルシェの元の話ではどのような人生を送っているのでしょうか。

Q3:『セビーリャの理髪師』(四幕喜劇)(1773年完成、1775年初演)

 舞台はスペインのセビーリャ。美男子で多くの浮名を流してきたスペインの若き大貴族アルマヴィーヴァ伯爵が、セビーリャの街角でロジーヌという若い娘をみそめます。ロジーヌは貴族出身の娘ですが、いまは初老の医師バルトロの養女となり、この嫉妬深い養父の厳命で家の外に出られない状態になっています。というのもロジーヌに惚れこんでいるバルトロは、養女であるにもかかわらず彼女と結婚しようと、変な虫がつかないように囲っているからです。  アルマヴィーヴァ伯爵がロジーヌの部屋の外で恋の歌を歌い、彼女からの色良い返事をもらっているところに、昔伯爵に奉公していたフィガロが偶然通りかかります。今や「セビーリャの理髪師」となったフィガロは、医者の助手と薬剤師も兼ねており、なんと具合の良いことに、医師バルトロの家に住み込みで働いているというのです。フィガロは伯爵のお役に立とうと、まず伯爵を軍人や音楽教師の弟子といった風に次々に変装させて、バルトロの家に引き入れます。
 だまされたと知ったバルトロは、真夜中にもかかわらず急遽結婚式を挙げようとして公証人を手配しますが、フィガロが機転をきかせたおかげで、アルマヴィーヴァ伯爵とロジーヌはめでたく結婚します。最後の決め手は、嫉妬深い養父のもとを去って若い伯爵と結婚したいというロジーヌの意志でした。 このように『セビーリャの理髪師』は若々しさに溢れ、シリアスであるよりもむしろいかにお客を楽しますかに重点がある喜劇です。この喜劇の数年後、貴族階級を大胆に風刺する『フィガロの結婚』が書かれます。

Q4:『フィガロの結婚』(四幕喜劇)(1780年完成、1784年初演)

 『フィガロの結婚』は『セビーリャの理髪師』の後日談です。舞台はスペインのアンダルシア地方になります。領主アルマヴィーヴァ伯爵の城館で伯爵の従僕として働くフィガロが、伯爵夫人ロジーヌの侍女頭のスザンネ(フランス語読みではシュザンヌ)と結婚する一日を描いています。  アルマヴィーヴァ伯爵は、表向きはフィガロとスザンネの結婚を祝うふりをしていますが、実は代々領主に認められてきた初夜権を行使して、スザンネを寝取ろうと狙っています。それを知ったフィガロとスザンネはふたりで力を合わせて知恵を絞り、伯爵に初夜権を放棄させ、伯爵をだまして火遊びの相手に伯爵夫人を身代わりに立ててぎゃふんと言わせ、万事を見事に丸く収めます。劇中では、アルマヴィーヴァ伯爵に向かってフィガロは次のような大胆なセリフを浴びせます――「伯爵様、あの女(スザンネのこと)は渡しません、あなたは身分の高い領主様だから、大した能力をお持ちだと思っていらっしゃる。貴族、財産、身分、階級、すべてそろえてふんぞり返っている! そういった財宝を手に入れるのに、あなたは何をなさいました? 生まれてきた、ただそれだけのことで、それだけのものを手にお入れになった。そのうえ、人間としてもあなたは平凡な出来だ。それに引きかえこの俺なんぞは・・・・」。これはまだフランス革命が起こる前のことです。初演はコメディ・フランセーズでしたが、『フィガロの結婚』はコメディ・フランセーズ始まって以来の大ヒットになりました。そして実際、初演の5年後にフランス革命が起こりました(1789年)。『フィガロの結婚』がフランス革命を起こしたわけではありませんが、市民階級が力をつけてきた革命直前の雰囲気が喜劇仕立ての中に感じられるのは確かです。 この戯曲の大好評を受けて書かれたモーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』では、貴族階級への政治風刺はそれほど強調されていません。ホルヴァートは、『フィガロの離婚』はボーマルシェの『フィガロの結婚』の後日譚であると、はっきり書いています。
 さて、ボーマルシェの『フィガロの結婚』では、捨て子であったフィガロの実の母親が見つかります。また、伯爵夫人を敬愛するケルビーノ少年(フランス語読みではシュリュバン)が女装して夫人の部屋を訪れ、たまたま部屋を見に来た伯爵から隠れる場面がありますが、これは次の『罪ある母』への伏線になります。
 伯爵の城館の庭師アントーニオ、その娘ファンチェッテ(同ファンシェット)、馬丁ペドゥリーロ(同ペドリーユ)が登場し、アンダルシア地方の人々の生活が表情豊かに表現されています。このような地方色は、ホルヴァートの『フィガロの離婚』でも、伯爵の城館を守って国に残ったアントーニオ、ファンチェッテ、ペドゥリーロに感じられます。ホルヴァートの場合、おそらくそれは彼の故郷であるハンガリー地方のことかもしれません。

Q5:『罪ある母』(1792年初演)

 この戯曲の舞台はパリです。時代は1790年末に設定されており、アルマヴィーヴァ伯爵と夫人はスペインからパリに住まいを移しています。
この戯曲では、『フィガロの結婚』から数えて20年以上も年月が経過しています。20年の間に人々の人間関係は変化しました。『フィガロの結婚』の後、伯爵は軍関係の仕事でメキシコに3年間滞在しますが、その間に伯爵夫人のロジーヌはケルビーノと恋に落ち、不義の子供レオンを生みます。罪の重さのあまりケルビーノは自殺します。伯爵はレオンが実の子ではないと感づき、冷遇します。そしてフロレスティーヌという孤児を養女に迎え入れて可愛がりますが、この少女は伯爵が他の女性に産ませた子供でした。伯爵も伯爵夫人もお互いに不義を重ね、それを相手に隠しているわけです。そしてレオンは20歳になりました。ここで戯曲は始まります。
 今フィガロは伯爵の信頼を失っています。代わって伯爵の全幅の信頼を受けるのは、ベジャースという伯爵の元秘書です。このベジャース、伯爵一家の人間関係がごたごたしているところにつけこみ、フロレスティーヌと結婚して伯爵の財産を横取りしようとたくらみます。このタルチェフも顔負けの策士のたくらみがほとんど成功すると見えたちょうどそのとき、フィガロが知恵をめぐらしてベジャースのたくらみを寸前で破り、見事伯爵を守ります。そして、伯爵夫人のロジーヌはケルビーノとの不義を皆の前で告白して修道院へ入る決意を固め、衝撃を受けたレオンはマルタ騎士団へ入る決意をし、それがかえって伯爵とフロレスティーヌの心をとらえて一家の結束が固まり、かろうじてベジャースを追い出すことに成功するのです。
 ベジャースはアイルランド人という設定になっており、イギリスを嫌ってアメリカを応援したボーマルシェの嗜好が反映されています。



ホルヴァート年譜
1901アドリア海に面する現クロアチアの港町リエーカ(Rijeka)に生まれる。父は多民族オーストリア・ハンガリー帝国の外交官、母は代々軍医の家庭の出。父方にはマジャール系とクロアチア系が、母方にはチェコ系とドイツ系が混ざっている。
1902父の転任にしたがって、ベオグラード、ブタペスト、ミュンヒェン、プレスブルク、ウィーンを点々とする。
1919●1918 第一次世界大戦終結、ドイツとオーストリア敗北。
●ドイツ帝国は崩壊し、ワイマール共和国成立。オーストリア・ハンガリー帝国崩壊し、共和国が成立。


ミュンヒェン大学入学。心理学、文学、演劇学、芸術学の講義を聴講(1922まで)。
1920執筆活動を始める。
戯曲『舞踏の本』
1923以後、おもにベルリン、ザルツブルク、ムルナウ(バイエルン地方、両親の家があった)に滞在。
戯曲『モーレン通りの殺人』
1924散文『スポーツ童話』
1926戯曲『絶景ホテル』(喜劇)
戯曲『3018高地の暴動』(後に『登山電車』と改変)南ドイツ方言による「民衆劇」
1929戯曲『登山電車』ベルリン初演、大成功。
戯曲『秘密義勇軍スレデク』がベルリンで初演される。 戯曲『会議場をめぐって』(笑劇)
1930小説『永遠の俗物』
1931戯曲『イタリア風ガーデンパーティーの夕べ』(民衆劇)ベルリン初演、大好評、クライスト賞受賞。
戯曲『ウィーンの森の物語』(民衆劇)ベルリン初演、大成功。
1932戯曲『カシミールとカロリーネ』(民衆劇)ライプツィヒ初演、賛否相半ば。
散文『使用上の注意』を執筆し、新しい民衆劇についての彼独自の考え方を述べる。
1933●1933 3月のドイツ総選挙でナチス党過半数を獲得。ヒトラーが政権掌握。ワイマール共和国からナチス党一党独裁体制へ移行。
ドイツを離れ、ザルツブルク、ウィーンに移る。⇒ドイツ語圏での亡命生活スタート
戯曲『セーヌ川の身元不明の女』(喜劇)
1934戯曲『行ったり来たり』(笑劇)チューリヒ初演、好評。
1935作品が上演されないため、経済状態が悪化する。
戯曲『一押し、二押し』(喜劇)
1936戯曲『戦場から帰ったドン・ファン』完成
戯曲『フィガロの離婚』(喜劇)完成
戯曲『信仰 愛 希望』(5つの場面よりなる死者の舞踏小曲)ウィーン初演。
1937小説『神なき青春』アムステルダムの出版社から出版され、大好評。英、米、仏、伊、中など多数の国々に翻訳される。
☆この頃から、「民衆劇」とはニュアンスの異なる「人間の喜劇」を作る方向に向かう。その代表作、戯曲『男のいない村』と戯曲『ポンペイ、ある地震の喜劇』が書かれる。
戯曲『フィガロの離婚』プラハ初演。
戯曲『男のいない村』(喜劇Lustspiel)プラハ初演。
戯曲『天国めざして』(童話劇)ウィーン初演。
戯曲『最後の審判の日』チェコで初演。
小説『現代の子』アムステルダムで出版。
1938●1938 ナチスによるオーストリア併合。
ナチスの禁書リストに名前が載る。
オーストリアを離れ、ブタペストを経由してパリへ向かう。⇒ドイツ語圏を離れる。
『神なき青春』の映画化の話し合いの帰り、シャンゼリゼの並木で落雷にあい、落下した大枝に直撃されて死亡。


日本語で読めるホルヴァートの戯曲と小説
日本語に翻訳されている戯曲・小説:
@ホルヴァート著作集(三修社、1987)全二巻
●第一巻戯曲編 カージミルとカロリーネ(岩淵達治訳)、信仰愛希望(大久保寛二訳)、ウィーンの森の物語(越部暹訳)、イタリー風ガーデンパーティーの夕べ(棗田光行訳)、セーヌ川の身元不明の女(棗田光行訳)
●第二巻小説編 永遠の俗物(有賀健訳)、現代の子(戸室博訳)、神なき青春(上田浩二訳)

A戯曲『秘密義勇軍スレデク』(「新劇」1973年6月号所収)

(新野守広)


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