【近況報告】

超高年、アンナプルナ・ベースキャンプへ  2003.10 3期:佐藤敦


昨年のエヴェレスト街道トレッキングに魅せられ、引き続き今年もヒマラヤへ。
今回は約3週間の長期に亘るアンナプルナ内院へのトレッキング。 サンスクリット語で「豊穣の女神」という意味を持つアンナプルナは、ネパール中央部に大きく位置し、東西の距離は約80km。 その山懐、標高4200mに位置する内院は英語のAnnapruna sanctuaryの訳。 1970年のイギリス隊がベースキャンプに使った場所。
写真は、ポカラ、シャングリラホテルから望むアンナプルナ連峰


10月8日
 タイ航空でバンコク入り1泊し、カトマンドウへ。 ネパールの首都カトマンドウは人口約150万人。 ネパール全人口の7%が集まる最大の都市である。 国際ターミナルから国内ターミナルへ移り、そこからブッダエアーの16人乗りの双発機に乗り換え、ポカラへ約35分のフライト。 バスもあるが6時間ほどかかる。
 ポカラはネパール第2の面積を誇る盆地。 カトマンドウから西へ約200km、標高900mの温暖なリゾート地。 人口約9万5000人。 ポカラという地名はネパール語で池を意味する。 機窓からこれから訪れる白銀の山々が右手に現れる。

 ポカラでヒマラヤン・ジャーニーのパッサン所長に出迎えられ、明日から我々に同行するシェルパ頭サーダーの紹介を得る。 名はヒマール・ガルワーグ。
 その後、ネパールの4つ星のホテル シャングリラ・リゾートに宿泊。 ベッドに寝転がりながら、聖なる山「マチャプチャレ」(6993m)が指呼の間に望める絶好の場所。 3色のブーゲンビリアが咲き乱れるダイニングルームで、明日からの禁酒にそなえビール、ワインを飲み収め。

10月9日
 朝、ホテルにバス1台にぎやかに到着。 バスとはいえトラックを改造した様な代物。 屋根にテント、炊事用具、食料等満載しており、我々5名の他、サーダー、シェルパ2名、コック1名、ウエイター1名、キッチンボーイ2名、ポーター10名、それに運転手、助手合わせて総勢24名となる。 ポカラの朝の喧騒の街をナヤプルに向けて出発。

 ここで我々のメンバー紹介。私の家族が言うところの「3馬鹿プラスワン」に1名追加となり、「3馬鹿プラスツー」の5名である。
 少々説明を要する。 独身時代から大学ワンダーフォーゲル部の同期,後藤、松木、佐藤3人は、年休を利用しては山へ行ったり、車であちこち温泉巡りした。 結婚後も続けたので、奥様方から3馬鹿大将と言われるようになった。 馬鹿な3人ではなく、馬鹿な事を懲りなく40年も続けている3人と言う意味である。 しばらくして1年後輩、4期の及川君が加わりプラス・ワンとなり、今年から更に1年後輩の渋川君が加わってプラス・ツーとなった次第。

 渋川君はヒマラヤ初心者である。 我々とはほんの1年未満の経験差ではあるが、やはり初心者である。 よって“ザ・ヤンゲスト・オブ・オールドマン”の称号を与えた。事実超高年の中の最年少である。

 最長老は後藤君。 自然の摂理で天国への階段の一番上段にいる。 この自然の摂理に反し誰かが下から彼を追い越して逝ったら、彼が弔辞を読んでくれること確実である。 あだ名は「長老」。 ネパール語のあだ名は「ビスターリ」。 テンポが皆と比べゆったりしているから。 又他の4人より常に一仕事多い事から来る。 この長老はワンダーフォーゲル部には珍しい理学部数学科出身である。 当時数学科といえばよほど頭が良くなくては入れないと思っていた。 多分彼は中学、高校は数学の天才と言われていたに違いない。 学生時代、彼が自慢げに「シンプソン公式は…」と説明していたのが私の頭に残っていた。 最近になって「シンプソン公式」について質問したら、「それって何?」。 卒業したら「ただの人」になっていた。

 ポカラ・ハイウェイを46km、ナヤプルへ。 ハイウェイと名付けられてはいるが、両側で1車線のお粗末な簡易舗装道路で、遅い車がいると片側車輪を路肩にはみ出してクラクションを鳴らしながら追い越しをする。 スリル満点である。 約2時間でナヤプルに到着。 バスを降り、モディ・コーラ(モディ渓谷)の右岸を今日の目的地シャウレ・バザールに向けて歩き始める。(

 出発にもたついているように思ったら、サーダーのヒマールが「ポーターがランナウエィ」と暗い顔をして言って来た。 最初日本語と英語がチャンポンなのでとっさに理解出来なかった。 ポカラで雇ったポーターの内2人がナヤプルまでバスで来たが、そこで逃走した模様。 バスのただ乗りで済んだ。  給料はポカラに戻ってから支払うシステムになっているので被害は無いが、ここではポーターは探せない。今日のテント場まではポーター達が荷物を分担して運ぶが、それ以降はシェルパがピストン輸送して運ぶ事にすると言う。 こんなトラブルは毎度のことで、大して苦にしていない様子に一安心。

 ここでサーダーのヒマールについて。 年齢は31歳。 ダウラギリ登頂サポートの際、指を1本凍傷で切断するという経験の持ち主。 肩幅が広くて胸板の厚い金太郎さんそっくりの風貌。 日本語は片言だけ。 英語もしゃべれるが流暢ではない。 難しい単語を使うと通じなくなる。 これは私の英語が悪いのだろう。 会社時代、国内営業なので英会話とは無関係。 もっぱら英会話スクールで覚えた会話きり身につけていないせいだろう。 約4時間歩き、今日の目的地シャウレ・バザールに到着。 このキャンプ地からは山は見えず。(

10月10日
 出発時にまた問題発生。 ポーターの一人が歯痛を訴えこれ以上歩けないと申し出る。 我々には仮病にしか見えないが、サーダーに「ここから返すのでチップをやってくれ」と言われる。 痛み止めにバッファリン6錠とチップ200ルピーを渡し解雇。 後でサーダーに「ヒマラヤン・ジャーニーからシェルパ、コック等にはチップは必要だがポーターには不要である」と言われたと文句を言うが、途中で帰るのでバス運賃も自分持ちなので、チップをやって欲しいと言われ了承。

 この日も行程は短く、ニューブリッジへ向かう。 時々マチャプチャレが顔を出し始める。 ニューブリッジへ向かう途中、下山してくるパーティのサーダーと立ち止まり情報交換をしていたヒマールが、真剣な顔をして「エクスキューズミー、リッスン、オール…」と。 この先にマオイスト(毛沢東主義の反政府組織)がいて、一人1000ルピーの“通行料”を徴収しているとの事。 我々5人で5000ルピー(約8000円)用意するように言われる。 写真撮影は?と聞くと勿論駄目と。 皆から集めた5000ルピーのみをポケットに、残りはザックの奥にしまいこむ。 余分なお金を見せると「モア、モア」と催促されるので隠せとの指示。 サーダーもポーターの給料が入っているポシェットをザックの奥へしまう。

 ここでシェルパ2人を紹介。 一人はソナム。 小柄で無口でおとなしい風貌。 彼がトップで歩くと何度も後ろを振り返り、我々に歩調を合わせてくれる。 もう一人はネパール語の発音が難しく何度聞いても名前を憶えられないので、「プレイボーイ」とあだ名を付けた。 すれ違う若い女性を見るとすぐ声をかける。 途中のロッジでも女性に話し掛けたりする。 又ネパール人には見えないすらりとした身長でハンサムなのでこの名を付けた。

 途中ロックビー・ビュー・ロッジという小さなロッジがあり、その小さな広場で休んでいると、ロッジの主人が出て来てサーダーに話し掛ける。 通訳してもらったら、1時間前までマシンガンを持った、二人のマオイストがここに陣取りお金を徴収していたが、ランドルンかガンドルン方面に姿を消したとの事。 ほんの1時間のすれ違いであった。 名目は観光税だから、金を渡すと、二重取りの無い様にとレシートを渡すという。 ヒマールもそう言ったが、ポカラのホテルで会ったヒマラヤン・ジャーニーの大河原社長夫人も言っていた。 記念になるのでレシートを貰ってきてくれと頼まれた。 半分冗談と思っていたが、現実になる所だった。 遭遇しなくてラッキー!という気持ちと、遭遇しなくて残念という気持ちが半々。 話の種になったろうに。

 下山後、カトマンドウの日本食レストラン「ローヤル華」の日本人のオーナー戸張氏から、ドイツ人トレッカーが、マオイストに抵抗して金を払わず、撃たれたと言う話を聞かされた。 どうなるか分からないので、結果として遭遇せずに済んで幸いであった。 みすみす5000ルピー寄付する事もないだろう。 5000ルピーあれば5人で3回分ロッジに泊まって食事が出来る。
 ニューブリッジの夜、明日の行程のチヌーダンダ、シャムロンの明かりが仰ぎ見る高さに見え、明日は相当なアルバイトになると覚悟。

 ここで私の役目であるが、取りまとめ役、英語ならリーダーだが、日本語では死語になっている「小間使い」である。  空港で利用税をまとめて購入したり、3時のティ・タイムに紅茶でなく日本茶が飲みたいと、私が呼ばれる。 「おーい、紅茶でなく日本茶が飲みたいので、お湯だけ貰ってきてくれ!」。 これは私への言葉である。 サーダー、シェルパはロッジで指ではじくビリヤードのような遊びにふけっており、コックはその見学者。 キッチンボーイはどこにいるか不明。 皆が遊んでいるロッジに入り、「エクスキューズミー」と。 通常この「エクスキューズミー」はシェルパやコックが我々バラ・サーブ(旦那様)に対して使う言葉であるが、ここでは私がコックなどに使う。 「タトパニ、ディノス!」。「ノーティー」。「タトパニ、オンリー!」。 ネパール語と英語のチャンポンである。 ようやく通じてお湯が手にはいる。 こんな役目が大半である。 娘に言わせると「父ってパシリじゃない?」。 パシリとは使いっ走りの若者言葉である。

 このトレッキングに際し、ネパール語のカセットテープとテキストを買って勉強したが、実際の会話はほとんど一方通行で終わった。 唯一双方向会話は、「タパインコ・ナム・ケ・ホ?」(名前は何て言うの?)である。 村で休憩する時など、子供に話し掛けると通じ、回答も「メロ・ナーム・アマンダ」など返って来て内容も理解出来る。 私の名前を聞かれても「メロ・ナーム・サトー」と答えられる。 しかし、ロッジで売っているバナナを指して「エスコ・カティ・パルサ?(値段はいくらですか?)」。 これは通じるが、回答は当然ネパール語で来る。 これが全く分からない。 こんな一方通行の会話は意味無い。 幸いサーダーが通訳してくれるので不便はなかったが。

 この日の夕方、逃げたポーターの荷物を担ぎ上げ、デポして、またここに戻るという仕事を二人のシェルパがやり、なんとかしてポーター不足を補った模様。 食料は減る一方なので、だんだん楽にはなるが、シェルパに余分な仕事が増えたのは確実である。

食事について
 コック1人、キッチンボーイ1人、キッチンヘルパー2人の計4人で我々の食事を作る。 唯一の蛋白質源は1日1個の卵である。 これは最後まで続いた。 朝はおかゆに卵料理。 チャパティに卵焼きを乗せたのや、ゆで卵、スクランブル・エッグ等である。 昼はチャパティと紅茶。 デザートには何故か必ずりんごが付く。 夜はスープにインゲン、ブロッコリー、ジャガイモ、オクラ。 通過する村で購入した名前がわからない野菜などを煮た物。 それに時には缶詰の魚が付く。 サラダは大根、胡瓜、トマトの輪切り。
 食後には必ずデザートの果物の缶詰がでる。 殆どベジタリアンの食事である。 これでは皆体重が減るのは当然。 帰国後体重を計ったら60kgを切っていた。

 コックはサーダーの次に高給取りで、勿論チップも2番目に多い。 名前はラム・バハダール、通称ラムさん。 長身にいつもダウンベスト姿で、甲高い声で命じているが、実際に料理を作っている姿は誰も見ていない。 渋川君に言わせると、料理の最後に調味料を振り掛けるだけだらしい。 夕食時時々顔を出して、料理の出来具合を聞きに来る。 「グッド!」と回答。もし彼の不興をかって、沸騰水で作り冷やして出してくれるレモネードを生水で作られでもしたら全員お腹を壊してしまう。 彼らは沢の水を平気でそのまま飲んでいる。 味にうるさく、常にまずい、食欲が湧かないとこぼしている長老も、「グッド!」「デリシャス」の連発。
 このコック、行動中の荷物は個人装備だけの小さいもので、ザックはサーダーより軽く見える。 なぜかザックにこうもり傘を立て、傘の先端を突き出して避雷針のようにして歩いている。 雨が降るはずが無いこの乾季に何のまじないか? 聞きそびれた。

 食事の中で唯一慰められたのはキッチンボーイ兼ウェイターの「ティロッグ」である。 陽気なモンゴル系ネパール人で、朝に「モーニング・ティー」と大声で呼びながらティカップを運んでくる。 その後まもなく洗顔用に熱いお湯を洗面器に満たし持って来る。 これで手と顔を洗っていると朝食である。 まずい食事でもティロッグが給仕して、「サトさん、モア?」と言われるとついお代わりをしたくなる。 毎日お代わりのボールを出したのは、私とザ・ヤンゲストの二人だったように思う。 歩いているとき、大声で話したり歌ったりして陽気を振りまく。

10月11日
 昨夜頭上に見えたチヌーダンダを経由して、これまた仰ぎ見たチョムロンへ登って行く。 思ったよりきつくは無く、2200mの展望が利くキャンプ場に着く。 ここからはアンナプルナ・サウス、マチャプチャレ、ヒウンチェリが見える。 チョムロンはこの流域最奥の常住村で、グルン族が住んでいる。 日本のODAによる簡易発電施設もあり、夜になるとあちこちのロッジに灯火が点る。

10月12日
 チョムロンのロッジや民家が建ち並ぶ長い坂道を標高差350m下り、降り切った所からつり橋を渡り、長い登りにかかる。 狭い渓谷をクルティガールの村を経由してシノワのロッジで休憩。 ネパール美人の愛嬌を受ける。 彼女を入れてマチャプチャレをバックに記念撮影。 そこから谷沿いのゆるい坂を登ったり下ったりしながら今日のキャンプ地ドバンへ。 アンナプルナB.C.までの1,2を争う長くきつい行程。 ドバンのキャンプ地 はネパール映画のプロデューサー御一行が入り大混雑。 狭い場所を見つけてやっとテントを設営。 夜中騒がしさを覚悟していたが、騒動も無くすんなり眠れた。 このキャンプ場からは山は見えず、ジャングルの鳥の鳴き声、蝉の鳴き声のみ。

10月13日
 ドバンからバンブーを経てマチャプチャレBCへ。 サーダーから昨日より更にきつい行程、高度差も1200mと言われ緊張して登る。 狭い谷を抜け出るとやっと視界が開ける。 羊の放牧が見られ、名も知らない高山植物のお花畑が現れる。 思ったよりは労少なくBCにたどり着く。 標高3400m。富士山頂上に近く、空気の薄さを感じる。

10月14日
 いよいよ登りの最後の行程、アンナプルナB.Cへ。 道はゆるやかな登り。 通常なら走って登れる斜度だが、酸素が平地の半分しかなく、ゆっくり登る。 アンナプルナT峰(8091m)が眼前に広がりながら近づいて来る。 その左手にはアンナプルナ・サウス(7219m)、ヒウンチェリへと続く大屏風。 やっと念願の目的地に到着。 登って来た道を振り返ると、ガンガプルナ、グレィシャー・ドーム、アンナプルナV峰、マチャプチャレが大空に高くそびえている。 正に360度の迫力あるパノラマが展開。 夜は氷河の末端が崩れ落ちるドドーンという音が絶え間なくテントの中まで聞こえて来て、高度障害の浅い眠りが妨げられた。

 アンナプルナBCには各国のパーティがテントを設営。 4軒のロッジも相当に込んでいる模様。 不思議な事にここまで一人の日本人にも会わなかった。 欧州人がほとんどで、アジアでは韓国人が多く、その次が中国系。 多分台湾人かシンガーポーリアンと推定。 日本の山にうじゃうじゃいる中高年のオバタリアンではなく、若い女性が多い。 中には単独行の女性も見られる。 文化の違いか、狩猟民族と農耕民族の差異か。 「これでは日本は滅びる」とは大げさな長老の弁である。

 驚いたことに、ここでのシェルパ達の娯楽はトランプの他にバレー・ボールがある。 粗末なネットを張ったコートで、この薄い酸素をものともせず飛び跳ねている。 私なんか夜トイレから戻って、シュラフのチャックを閉めるにも息を整えなければならないほど酸素不足を感じたが、彼らは平気である。 私の実測肺活量は4250CCだが、彼らは8000位あるのか!

10月15日
 アンナプルナBCには2泊。 昨年到達したタンボチェの4100mより高所に登ろうとテントサイトのアンナプルナBCより上部の丘めざす。 高度順応のお陰か、酸素不足をあまり感じないままに4605mに到達。 記念に石を取得。 満足してベース・キャンプへ戻る。 4600m付近はお花畑で花の名残りがあちこちに。 多分有名なブルー・ポピーだろう、枯れた群落が見られた。 サーダーに教えられヒマラヤの香草「スンパティ」を摘む。 乾燥させて火にくべると良い香りがして、病気も治ると言われている。

 ここに来てまた問題発生。ポーターの一人が高山病で下山を余儀なくされる。 ネパール人でも高山病にかかるのだ。  他のポーターが草履、サンダル履きの中、しっかりした登山靴を履いており、植村直己に似た風貌の元気なポーターであったが。 チップをやり解雇。 今回は400ルピー。 ここから一人ポカラまで帰るという。 これで4名離脱となる。 幸い荷物は軽くなっているので問題はなく、荷物を入れる籠も予備を持っているとサーダーは明るい顔。

 明日は下山。 ここに再度来たいかと言う話になって: 私は費用がただで小遣い30万円貰えれば来る。 松木君は100万円くれたら来る。 長老は黙っていたが、もう来る気はなさそうだ。 よほど辛かったのだろう。 及川君とザ・ヤンゲストには聞くのを忘れた。 高山病のためか、忘れる事が多くなってきた。

10月16日
 いよいよ下山開始。 下りは早い。 濃厚な酸素をめざし、登りに2日かけた所を1日で下る。 高山病予防薬の「ダイアモックス」の副作用である指先のしびれも無くなり、低所へ低所へとひた下る。 バンブーで幕営。
 テントでの話題は温泉。 これまでの行程、電気も電話も新聞も無く、娯楽は勿論何も無い毎日。 話題は2日後に入れるチヌーダンダの温泉、日本シリーズの阪神、ワールドシリーズのヤンキースの松井くらいきり思いつかない。 その中で長老の馬鹿馬鹿しい夢の披露。 彼は次の日に前の晩に見た夢の続きを見るという。 翌日皆でその夢の続きを催促。 娯楽と言えばそれだけ。 長老以外なぜか高所では眠りが浅いせいか夢を余り見ない。 これは皆の一致した体験。

10月17日
 いよいよ温泉のあるジヌーダンダへ。 昼頃に到着。 サーダーが「問題あります」と報告して来た。 またポーターの離脱かと思ったがそうではなく、先に帰したポーターに予約させてあったテントサイトを他のパーティが占領しており、テント移設の交渉をしているという。 一度はロッジ泊まりを経験したかったので、ちょうど良い機会。 空き部屋を聞いたらツインが3部屋あるという。 食事もロッジのレストランを試すことにして、サーダーに「テント、食事用意する必要なし」と伝えたら大喜び。 勿論コック達も仕事が無くなって大喜び。 さっそくテントにこもってカード博打を始めている。 ロッジは素泊まり一人180ルピー(約300円。3000円では無い)、毛布1枚60ルピー。 我々はシュラーフがあるのでこれは不要。

 部屋の確保を済ませいざ温泉へ。 日本と違い水着着用との事。 この事情は出発前から知っており、海水パンツ持参。 温泉はモディ渓谷まで降りなければならず、往復に30分たっぷりかかった。 コンクリートの湯船が二つ。 少し離れた所に露天風呂が一つ。 露天風呂は以前は二つあったが、一つは洪水で流されたらしい。 湯船の湯温は37℃でちょっとぬるい。 露天風呂の方は102度、こちらが快適。 正真正銘のかけ流し湯であるが、洗い場というものが無い。 仕方なくかけ流しの湯の落ち口で頭を洗う、何日も風呂に入っていない連中ばかり浸かっている湯で頭を洗う訳だから、日本だったら汚いと思うが、ここではそんな事気にしていられない。

 湯船には先客が3組入っていた。 2つの湯船にはランドルンから1時間かけて入りに来たという二人のネパール人。  ランドルンのロッジのオーナーか又は村々を回る行商人か。 もう一組は5歳くらいの女の子と7歳くらいの兄と父親。 この男の子が湯船で私に話し掛けてきた。 「…湯?フロ?」最初ネパール語と日本語のチャンポンかと思い「風呂?、グッド!グッド!」と答えていたら怪訝な顔をしてまた同じことを話し掛けてくる。 よく聞いたら「フェアー・アー・ユー・フロム?」と言っているではないか。 こんな小さい子が英語を話す。 それにたいして「フロム・ジャパン」と答えたら、驚いたことに「ジャパニーズ?」と返って来て感心してしまった。 こちらの「フェアー・アー・ユー・フロム?」には、「アイム・ネパリー」と答える。 多分村のエリート家族か、カトマンドウかポカラから来た旅行好きのエリート家族だろう。 それにしてもネパール人の登山者っているかしら。

 もう一組は露天風呂に入っていた北欧系のアベック。 残念ながら女性は湯池から出て水着の上にシャツを着ていた。 我々5人が入っていったら、程なく手を振り「バーイ」と退散。 我々だけで占領し記念撮影。
 サーダー、シェルパ、コック、キッチンボーイらも皆温泉を楽しんでいた。 しかしポーターは一人も来ない。 厳然たる階級の差か、はたまた温泉に入る習慣が無いだけなのか。 サーダーに聞こうと思っていたが聞きそびれた。

 ビールは3日後の最終キャンプで飲むと誓い合っていたが、長老が一人で飲み始める。 禁を破った者が全員のビールを奢る事になっていたが、たった90ルピーで末代まで「意志の弱い奴等に奢ってやった」と言われるのは癪なので、仕方なく付き合ってやり、費用はもちろん割り勘にした。 ビール込みの夕食代は5人分で1600ルピー、一人当たり500円。シュラーフ持参であればロッジ泊まり1泊2食で1200円程度であがる勘定になる。 しかし通信手段が無いので予約が出来ないのが難点である。 どうすればいいかサーダーに聞いたら、荷物を持たないポーターを一人雇い、先回りして予約させると言う。 この余分の費用は予約代と思えば良いのだが、全てロッジ泊まりなら、トレッキングの間中予約係を雇っていなければならない。

10月18日
 朝は今まで通り、モーニング・テーから始まる自炊コースに戻った。 ランドルンまで1日の行程には短すぎるので、その先のトルカまで足を伸ばした。 小さな村でテント設営。 トレッカーは通過してしまうのか、ロッジも数軒あるが閑散としてさびれた村。

10月19日
 いよいよ最後のキャンプ地、オーストリアン・キャンプへ。 トルカから600mの登り。 尾根に出るとそこからは日本の神社やお寺の境内に見られるきれいな石畳の参道。 昼前にキャンプ地に到着。 展望台からポカラの町も見える開けた高台のキャンプ地。 マナスル、ダウラギリも見える。 途中の予備停滞日を使用しなかったので、ここで2泊。

10月19日
 今日は停滞日。 展望を求めてシェルパ2人とジャングル探検へ。 サーダーとティロッグの二人は麓のカーレの町に食料を仕入れに行く。 昼過ぎ生きた鶏を1羽づつ小脇にかかえ戻ってきた。 往復3時間位かかった模様。 この鶏はスープと唐揚げになり夕食を飾った。 日本のブロイラーとは異なり、固くて噛み切るのに苦労したが味は悪くなかった。

 農学博士のザ・ヤンゲストの指導のもと“蘭ハント”に出かける。 10種類の咲いている蘭を発見。 日本では見たことの無い花に驚く。 博士によれば、蘭は芥子粒より細かい種が風にのり、遠くに運ばれ、枯れかかった樹木に着生する。 養分は空中より採り、バルブという球根状、又は筒状をした部分溜め込んで成長する。 いまだ進化の最中の植物という。 ザ・ヤンゲスト農学博士のウンチクに耳をかたむけながら午前中を過ごす。 ジャングルで蘭ハンターに夢中になっていると、いつの間にか吸血ヒルが指に吸い付いている。 気づいて取り去ったが、血が止まらなくなる。

 ディナーの最後にコック手作りの“お別れ・無事帰還祝い”のケーキが出た。 食事の後、ポーターも参加してビールやロキシーを飲みながらキャンプファイアー。 普段は無口な村長のような風貌のポーターも、陽気になり盛んに話し掛けてくる。 しかし「ナマステ」の言葉以外何を話しているか不明。 帽子を脱ぎ、髪の薄くなった頭をなでながら私に話し掛けて来る。 「髪の毛から判断すると、私はおまえと同じ位の年齢だよ」と言っている様に聞こえる。 彼の歳は60歳。 サーダーのヒマールに私の方が2歳年上だと通訳してもらったが、通じた様子はなかった。 キャンプファイアーの周りでシェルパやポーター達が踊りだす。 それに参加し、見よう見まねで手足を動かし踊っていたら、ロキシーの酔いのためか目眩いがして来た。 シェルパ達の歌が続いた後、「ジャパニーズ・ソング・プリーズ」の声に、及川君の出番。 彼の18番「田舎なれども、」で始まる南部牛追い歌がテノールでオーストリアン・キャンプに流れる。 彼の南部牛追い歌も久しぶりに聞いた。

 及川君は日本のチベット岩手県遠野市で育ったためか寒さに滅法強く、高地でも我々より薄着で平然としている。 「鄙にはまれな美人」という言葉があるが、「鄙にはまれな眉目秀麗」である。
 話は少しそれるが、彼の高校時代は男女別、大学は経済学部で女っ気なし、ワンダーフォーゲル部で山ばかり。 女性との接点の無い学生生活を送った。 彼と同じく男子校から経済学部に進み、卒業後勤めた都市銀行の地方支店に配属され、今までの反動からかその支店の女性を総なめにして銀行をやめた我らが英雄の友人がいる。 名前は大川君。 偽名である。 なぜこの偽名を使うのかというと、偽名で泊まったラブホテルでオーカワさんと呼ばれたときに、うっかり気づかずに済むからだとオーカワ君は言う。 実に男の鏡だ。 本名を出しても知っている人は、長老と自分だけなので安心である。
 男子校、経済学部、ワンダーフォーゲル部と、大川君と同じ道を辿った及川君にはついぞ浮ついた噂が無いようで、昨今の日本男子にとって遺跡のような存在である。 “遺跡”は最近の女子大生の差別用語である。

 最後に今まで話題にでなかった松木君について。 かれは3馬鹿プラス・ツーの中で唯一の現役である。 役員は退いたが、毎日出社している。 しかし5時から飲もうと誘っても、ウイークディにゴルフに誘っても直ちに快諾する。 そう多忙でもなさそうである。 奥さんの影響でお茶の師匠でもある。 我々と違って、年休を使い真っ黒に日焼けをしては仕事にさしつかえる。 その上お茶の弟子達に示しがつかないと、日焼け止めを塗りまくり、ただ一人真っ白な顔をしている。 トレッキングをやめてタイ美人と1週間過していたと言っても周りが信用するほど白い。

 月夜の中、キャンプファイアーは続く。 シェルパ、キッチンボーイ達の歌が延々と続く。 内容は理解出来ないが、同じ節を続けて、仲間を指差しては笑いながら歌う。 私と長老はあれは多分猥歌だろうと推察したが、後でサーダーに聞いたら、「絹のようにふわりふわりと飛んで行く…」と歌い、その飛んでいく先を誰かを指差して言わせるのだそうだ。 たとえば「恋人の所に飛んで行く…」、「ポカラに飛んで行く…」などと、それぞれ思いのある場所を織り込むのだという。 実にロマンティックな歌で、猥歌など邪推したのが恥ずかしい。 超高年の考えることは常に卑猥だ。

 歌っている間、サーダーとチップの相談。 今夜渡したほうが良いのか明日が良いのか。 今渡しても荷物をおいて逃げられるおそれは無いが、やはり朝出発前に渡す事がベターだと言う。 その助言に従う事にしてキャンプファイアーはお開きになった。

 夜中に今まで何の不調も訴えなかった胃腸の調子が悪くなりだした。 生焼けの辛いニンニクとロキシーの取り合わせ悪かったのか。 ロキシーはキャンプ場のロッジの女主人の密造酒。 夜中から朝にかけて何度もトイレに通う。 しかしほかの連中は同じものを食べてもなんともないので、ニンニク、ロキシーのせいではなさそう。 山で腹をこわしたのは始めてである。 良く腹をこわす長老の苦労が始めて分かる。 腹の弱い彼は色々な胃腸薬を常備しており、そのおかげで助かった。 ザ・ヤンゲストの言によれば、「チップの配分などで神経を使ったので、胃腸に疲れがたまったのが原因である」との診断。

10月21日
 1時間の下りで、ポカラ・ハイウエィのカーレという町にたどり着く。 ここで迎えに来たバスに乗り込み、ポカラへ。 これが最後の行程となる。 ポカラのシャングリラホテルで2週間ぶりのシャワーを浴びた後、ビール、ワインで乾杯。 皆うまそうに飲んでいるのが羨ましい。

10月22日
 ポカラから再びブッダ・エアの双発機にのり、カトマンドウへ戻る。 山中でカトマンズの日本レストラン「菊」のトンカツを夢見ていたが、腹の調子が悪く食欲が失せ、半分残してしまった。 未だ回復していない。 やっと翌日の夕食の中華料理で食欲が回復。 ビールもうまく感じ出した。

10月23日
 カトマンズの市内観光とお土産買い。 先ずホテルから歩ける所にあるアンナプルナ寺院にお参りして、無事帰還を報告。 この日はネパールのダサインと呼ばれる最大のお祭り。 ダサインはネパール語で10という意味だそうだ。 その名の通り10日間のお祭りである。 祭りのためインドラチョーク地区は大混雑であった。 ダルバード広場見学の後、タメル地区お土産屋に立ち寄る。 ネパール特産のパシュミナを求めて店をひやかしながら歩く。 ヒマラヤの高地に生息するカシミヤ山羊の顎鬚だけで織られるパシュミナは、カシミヤより軽く暖い。 日本で購入したら1万円を超えるとの評判。 私につられて全員が購入。 この店は我々だけで今日1日の売上を達成しただろう。

10月24日
 カトマンドウよりタイへ。 バンコク・ドン・ムアン国際空港で5時間のトランジット。 ここでザ・ヤンゲストの腹痛発生。 今まで一番の快食ぶりが、機内食も手につかぬ状態に。 私の胃腸のトラブルは気疲れと診断した彼だが、彼も気疲れが最後に腸に来たのだろう。 ワンゲル1年先輩1人、2年先輩3人を相手にして、表面上は何事も無い様に振る舞っていたが、内心は相当に気を使ったのだろうか。 いつも泰然自若としている彼も普通の人間のである事が判明してほっとした。 自身の診断はカトマンドウのホテルでの冷房の効き過ぎによる寝冷え。

 このトレッキングの最終打ち上げは、東京でうまい河豚料理をつつきながらやろうと言い合っている。

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