キリマンジャロ登頂始末記

【キリマンジャロ登頂始末記】

                                2012年2月 5期 櫻 洋一郎


 アフリカ大陸の最高峰、キリマンジャロ山(標高5,896m)。 最近テレビなどで盛んに登山映像が放映されるようになった。 特別の技術も装備がなくても登れるのが魅力。
 折りしもケニアの首都ナイロビには、JHOB一期下のN君がJICAシニアボランティアとして平成22年8月から滞在中。 このチャンスを逃す手はないと、行動開始。 HHC(ハイウエー・ハイキング・クラブ)のメンバー五人、71歳から63歳、平均年齢67歳の“年寄りグループ”が出来上がった。

 N君とのメールのやり取りで、格安航空券のこと、現地の旅行社とのコンタクトが可能なことが判り、日本旅行社のツアー計画を参考にしながら、手作りツアー計画を練る事にした。 まずは往復の飛行機。 インターネットを開くと、成田ーナイロビ間の航空券リストがいっぱい。 ピンは百万円台からキリは7,8万円まで。 かつてはヨーロッパ経由の長旅だったが、今はインド、中近東経由が主流。 ドバイ経由のエミレーツ航空18万円の往復航空券(復路フリー)をHISから入手。

 キリマ登山は地元タンザニアの旅行社(日本人が経営)と直接メールでやり取り。 登頂ルートはマラング・ルート、日本の夏、乾季に当たる一、二月の六日間が適当ということになった。 もう一つの楽しみ、サファリはケニアの西部、マサイマラで三日間。N君に依頼。 こうして、往復の期間も入れて平成24年2月20日から15日間の日程が決まった。 さあ、次はケニア、タンザニア両国のビザを各人で入手。 何故か両国の大使館は目黒区やら世田谷区の辺鄙な場所にあり、手続きに時間がかかること・・・。 旅行社ツアーであれば彼らが全てやってくれるのだろうが、そこは手作りツアー。 黄熱病の予防接種も含めて全ての手続きを終えたのは出発2週間前。

 エミレーツ航空はアラブ首長国連邦のナショナルフラッグ。 中継地ドバイは砂漠の中に忽然と現れた近代都市。 空港ビルからは世界一高いブルジュハリハービルを遠望。 ここを基点として、全世界にネットワークが張り巡らされたハブ空港。 航空機を降りてからターミナルビルまで、バスで1時間近く走ったのにはその広さに驚いた。 シートも食事もキャビン・アテンダントの可愛さもまずまず。 成田〜ドバイ12時間、5時間のトランジット後、ドバイ〜ナイロビ5時間計22時間の旅。

 ナイロビは標高1700m、赤道直下にありながら緑が濃い、爽やかな気候の街。 目下、空港を中国の経済援助のもと建設中。 N君の出迎えで添乗員の役目が少し軽減されホッとする。 走っている車はほぼ全て日本製中古車。 大半がトヨタ車。 ケニアもタンザニアもイギリス植民地の年代から右ハンドルの世界。 全く手を加えずに持ち込めるメリットがあるのだろう。 おまけに車体に日本語(○○旅館、××商事など)が書かれた車ほど高いと言うのだから面白い。 中には現地で書かれた間違った漢字の車体まで。 これはタンザニアでも同じこと。 街中は賑わっているが、治安状況はあまり良くなく、外国人の一人歩きは止めた方が良いとのこと。 ナイロビ滞在中に泊めてもらった郊外のアパートメントホテル(N君も長期滞在している)も、高い塀をめぐらしガードマンによってしっかり警備されている。 折角の新しい町を自由に散歩できないのも残念。 朝飯はN君の部屋で奥様手作りの日本食。味噌汁、ケニア製の納豆も美味。

 ナイロビからタンザニアのキリマ登山の玄関口、アルーシャまでは274km。 トヨタ製大型ランドクルーザー(車体は改造されたもの?7,8人乗車可能))で五時間。 途中国境のナマンガでケニアからの出国手続きを済ませ、未舗装、50mの国境地帯を歩き、タンザニアへの入国手続きを行う。 別のランドクルーザーに乗り換え。 ナイロビ〜アルーシャ間A102号線は黒舗装から湯気が立つくらい、出来立てホヤホヤ。 まだレーンマークも引かれていない。 これまた中国の援助で建設されているとのこと。 何処に行っても中国の陰が色濃いのは少々気になるところ。すぐ脇に砂利道の旧道が見え隠れする。


 ケニア側は乾燥した草原が一面に広がり、沿道ではマサイ族の若者が長い杖を片手に牛、ヤギをのんびりと追っている。 彼らは背が高く、彫りの深い顔つきでなかなかのイケメン。 誇り高き狩猟民族。 国境などものともせず自由に両国を行き来しているとか。(写真ー1) そこに自転車に乗ったマサイの青年登場。 何とも奇妙な取り合わせだが、恐らく自宅にはテレビも冷蔵庫もあるはず。 近代化の波とどのように折り合っているのだろうか?  興味深い景色であった。 一方タンザニア側はトウモロコシを植えた緑の丘陵が広がり、豊かな農業国を思わせる。 同じ黒人でも顔つきがまるで違う。

 アルーシャはタンザニア第二の高原都市。 標高1400mにあり、タンザニアの軽井沢とか。 鹿児島出身者が経営する日本料理店“サザン”には近隣の日本人が集まるらしく、我々も賑やかな歓迎を受けた。 その中の、自ら山師と名乗る一人から、今はNEXCO中日本在籍のKさん(当時タンザニアに派遣)の名前が出たのには驚いた。 海外に住む邦人は職種に関係なく集まって情報交換をするのだろう。

 皆さんもコーヒーの代名詞のようになっているキリマンジャロはご存知のはず。 我々も土産に買うべく、探したが何処にもそんな名前のコーヒーは売っていない。 後で聞けば、キリマンジャロの命名は日本商社。 正確にはタンザニア、ケニア国境のキリマンジャロ山麓で採れるコーヒー豆のこと、となる。 家の近くのコーヒー店主に言わせれば、豆の一番いいのは日本に持ってくるので、現地にあるのは三級品で飲めたものではないとか。 それでも我々は帰国してからも購入したコーヒー豆で美味しいコーヒーを楽しめた。 楽しい旅の想い出はコーヒーまで美味しくしてくれるものなのか。 あるいは本当に美味しいのか。 はたまた当方が味オンチなのか。

さて本題のキリマンジャロ登山。(地図)

一日目:
 アルーシャを出た我々は引き続き車で100kmはなれたモシ、そしてその先の公園管理事務所のあるマラングゲートへ(標高1800m)2時間半で到着。 ここで入山手続き。 そして我々をサポートしてくれるチーフガイド、サブガイド2名、日本語を話せるガイド、コック、ポーターら15名と顔合わせ。 ポーター達は夫々15kgの荷物を配分されて思い思いに登山道を先行。 15kgとは随分軽いと思うが、雇用の機会増のためと聞き納得。 ネパールのポーターは我々の荷物を含めて100kg近い荷を背負って歩いていたが。 ここからキリマ頂上までは片道46km、往復100km弱、標高差4100m。 途中高度順応のための停滞日を入れて行きは四日間、帰りは二日間、計六日間の行程。

 11:10サブザックに雨具、非常食などを入れ、ガイドたちと今日の宿泊地、マンダラ・ハット(2727m)へ向けて歩き出す。 熱帯雨林の森の中を歩く。 サルオガセに似た寄生植物が木の枝からぶら下がり、日本に良く似た景色。 黒いサルの群れが近くで鳴き叫ぶ。 近所の子供が体長5cmぐらいの緑色のカメレオンを見せてくれた。 昼食は途中のベンチでプラスチックの箱に入ったパン、鳥の唐揚、ジュース、果物を食べる。 以後毎日同じメニュー。
 歩行距離12km、約四時間の行動でマンダラ・ハット着。 宿泊は緑の三角屋根の比較的新しい2段ベットの小屋、五人が一緒に宿泊。別棟に水洗便所。(写真―2)
 着いて暫くするとコック見習いが現れ、“ダンナ、お茶の用意が出来ました!” 共有スペースでコーヒー、紅茶、ココアなどの飲み物、そしてビスケット、ポップコーン、等のおやつを戴く。 夕食はビーフ・シチュー、ジャガイモと思いきやバナナを輪切りにしたもの。 生のバナナはジャガイモの味、食感にそっくり。牛肉の固いのには閉口。 久しぶりにシェラフに入って就寝。


二日目:
 早朝、“ダンナ、熱いお湯をどうぞ”の声。 ねむけ眼はこのお湯でシャッキリ。 午後のお茶といい、往時のイギリス探検隊の雰囲気に皆すっかり満足。  快晴、7:50歩き出すとすぐに森林限界を越え、草原地帯に入る。 所々横切る谷にはきれいな水も流れている。 やがて忽然と見晴らしが広がり、目的のキリマ峰、そして対を成すマウイエンツイ峰(5,149m)が姿を見せる。(写真―3)

 ジャイアントセネシオ、マツムシソウなどの高山植物が豊富。 歩行距離15km、約六時間でホロンボ・ハット(3720m)に着く。 気がつかないうちに富士山に近い高度まで稼いでしまった。 今のところ五人とも高山病の兆候は無し。 相変わらずの晴天、夜は星空がきれい。南十字星を漸く南の空低くに見つける。

三日目:
 今日は高度順応のための停滞日。ゼブラ・ロックといわれる高み(4100m)まで足を伸ばし明日のハードスケジュールに備える。 前方にはキリマ主峰が氷河を乗せて青空に聳える。 明日はあの高みに、と思うと武者震いがする。(写真―4) 高山病予防のダイアモックス1錠を呑み始める。

四日目:
 8:15、ここからはほとんど草木のない砂漠のような平原を歩く。 ゆるい勾配で、4輪駆動車なら走れそうな平坦な道。 今日仮眠をするキボ・ハット(4703m)が見えてくる。 このあたりから各人の健康状態に差が出始める。 三人が高山病の症状。 頭が痛い。 無理もない。 私を除いて四人は生まれて初めての高度を歩いているのだから。 私はといえば、かつてネパールヒマラヤトレッキング、チベットカイラストレッキングで5700Mを経験しているせいか何の症状も無し。 歩行距離15km、約五時間でキボ・ハット着。 ここで仮眠を取る。 高山病の症状の人は、熟睡すれば息が浅くなって症状が悪化。 寝なければ体調回復にならずに苦しみ、どうにもならない状況。 お察し申し上げるが何とも手助けできず。

五日目:
 頂上アタック、そしてホロンボ・ハットまでの長い一日。 夜半11:30懐中電灯をつけてキボ・ハット発。 ここからは今までの緩やかな道と異なり、富士山を登るような、ザレ場の急登が続く。 星が瞬き、気温も高めで状況はいいのだが、頂上付近の寒さに備えて厚着した衣類の暑さに閉口する。 何人かは衣服の調節を始め、時間のロスが起こる。 しかし5200mごろから天候が急変、雨がやがて雪に変わる。 高山病にやられ、思考能力も落ち気温も低下。 衣服調節をしたメンバーは着直すこともなく、体力を消耗して行ったようだ。 温度低下の中で、雪はしだいに積もり始める。 只でさえ見えにくい足場は雪に隠され、薄い空気と共に歩行を難しくする。 5,400m付近でとうとう三人は登頂を断念。 日本語ガイドと共に下っていった。 日本語ガイドを失ったHさん、櫻は、その後臍をかむ事になるのだが。

 その頃から小生のヘッドランプの調子がおかしくなる。 歩いているうちに消えてしまったため、電池を入れ替えたが同じ状況。 止む得ず、Hさんの灯を頼りに歩かざるを得なくなってしまった。 安いヘッドランプを購入したため、防水機能が低く、ショートしたのが原因と後で判名。 その時気がついたのだが、我々についた二人のガイドはいずれもヘッドランプ無し。 暗闇の中をスタスタ。 いかに彼らの眼がいいか思い知った次第。

 次第に積雪が深くなる中、灯を持った足の長いHさんの後をついていくことの難しさ。 “ポレポレ(ゆっくり)と歩こう”なんて合言葉も吹き飛んで必死の山歩き。 空に赤みが増した頃、積雪は4,50cm。 急に風が強くなったと思ったら稜線に近づいた様子。 1時間以上の遅れを取り戻して、6:15ギルマンズ・ポイント(5682m)に到着。(写真―5) ここは富士山で言えば浅間神社に当たるところ。 これから我々は外輪山を歩きながら、氷河の脇を通って、剣が峰に相当する最高峰、ウフル・ピーク(5895m)に向う。

 その頃は暴風雪で気温はマイナス20℃。 立っているのも難しいほどの風。 積雪で足場の確認も難しい。 しかし防寒着をしっかり着ているせいか寒さは苦にならない。 風をさえぎる場所もなく、我々はのろのろと歩き出す。 歩きだして30分。 暴風雪は納まらず、眼をあけるのも苦痛。 足がだるい。 本来ならここで岩陰にでも入って状況判断、(この暴風雪が何時まで続くのか)となるのだが、相手は英語しか通じないガイド。 こちらの英語が通じない。 相手の英語が判らない。 日本語ガイドが居てくれたらと思っても後の祭り。 次のステラ・ポイント(5756m)に近づいた地点で、二人とも身の危険を感じてギブアップ。

 その時点では最高地点へ行けなかった口惜しさより、早くこの状況を脱出したいという衝動のほうが強く、後は一気に山を下る。 これこそ高山病の最たるものか。 下山し始めて30分ぐらいか、風は和らぎ、青空も見え始める。 あの暴風雪はなんだったのか。もう少し岩陰で待機すれば進めたのか。 これまた後の祭り。
 ギボ・ハットで先に下りた三人と合流。 休憩の後、一気にホロンボ・ハットまで下る。 到着13:15歩行距離 27km、歩行時間14時間弱。天気は快晴、背後のキリマは深雪に覆われて輝いている。(写真―6)一番肝心な時間だけの天候悪化、何とも残念な半日。


六日目:
 最後の日。 ホロンボ・ハットを6:30に発って、マンダラ・ハットを通過、マラング・ゲートまで一気に下る。 荒涼とした砂漠地帯から、乾燥した草原地帯、そしてじっとりと湿気を含んだ熱帯雨林への1日の山歩きも悪くないもの。 13:15マラング・ゲートの公園管理事務所でガイドのサインの上、登頂証明書をくれる。 我々はステラ・ポイントまで行った事にしてくれた。 歩行距離27km、歩行時間七時間弱。 ガイドたちとの別れの時が来た。 彼ら全員でキリマンジャロの歌を合唱してくれた。 なかなかいいもの。 今もそのメロディーが頭の中に残っている。(写真―7)

 この頃になると何故もう少し頑張れなかったのか。 何故ガイドにしつっこく天気の状況を尋ねなかったのかと後悔しきり。 再び車中の人となり、アリューシャのホテルに戻る。 夜は日本料理店で残念会。 全員無事帰還を祝って祝杯を挙げる。 明日は来た道をナイロビまで戻る。

 次はサファリ見物の話を・・・、となるのだが小生は参加できず。 実は白寿を迎えた父親の具合が芳しくなく、一時はツアー参加を諦めかけたほどであったが、治療で急激に回復、医師のお墨付きも出たので、出発となったものの主目的を達した今、帰国を急ぐほうがベターと、一人帰国となった次第。 サファリの楽しい話題は残りの四人に聞いてもらうとして、筆をおきたい。 蛇足ながら、我が父は今も元気で百寿に向けて毎日を過ごしている。 全て手作りのツアー。 残念な部分もあったが、古希の歳のいい記念となった。
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