日本の社交ダンス
日本の社交ダンスは大正時代から一般化した
日本に初めてダンスが渡って来たのは、明治初期の、あの伊藤博文が当時の外交政策上の必要から.いわゆる「鹿鳴館」という舞踏会場を創設したのが始まりです。映画などで時折り、当時の舞踏風景が見られますね、あれです。
しかしこの伊藤博文の英断も一般大衆に浸透するまでには至らず、約三十年の空白時代を経て大正期(1918年)に入り横浜鶴見の花月園に一般のダンスホールもできました。
しかし、大正12年の関東大震災のため、ダンスの中心は一時神戸や大阪に移りました。
東京都内にダンスホールが復活したのは昭和初期、いわゆるモボ(モダンボーイ)、モガ(モダンガール)全盛時代からです。
銀座や東京駅前など数ケ所にもダンスホールが開設されて盛況を極め.第二次大戦直前(昭和15年)まで続きました。
戦争のため中断を余儀なくされていましたが、第二次大戦の終了後、つまり昭和20年代には続々とダンスホールが生まれ、ダンサーと呼ばれるホステスや教師の人たちも、職業として確立するところまできました。
ダンス協会の復会や普及などに伴う普及も活発になって、技術的にもかなり高度な水準に発展し、文字通り大衆のための社交ダンスとして活況を呈してきました。