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Review トマトをたべるのをやめたとき version3
武藤大輔 麻布 die pratze、3/8(土)所見)

芸術も批評も相変わらず「9・11」とか「帝国」とか言っておけば何か深刻な事態に向き合っている気分になれるらしく、平和である。大抵の場合、彼ら彼女らは表現することの過酷さと大文字のスペクタクルを混同し、取り組むべき問題をすり替えてしまっているに過ぎないのだが。
DA・Mは違った。'86年から活動しているグループだそうだが、昨年初めて見て、驚いてしまった。こんな人たちがいたとは。あれから約一年、はたして期待は裏切られなかった。ズラッと並んだ蛍光灯がランダムに明滅する冷たくフラットな空間、下手寄りに大きな白いボードが立てられ、床には白い粉で三つの角が描かれている。竹田賢一のエレクトリック大正琴、黒い服を着た男女四人のパフォーマー。一貫したセリフがない、ストーリーがない、そんなのは大したことではない。凄いのはパフォーマーたちの動きである。集団即興なのである。 背筋を伸ばして大股で歩く。腕を上に伸ばしながら右にクルリと振り返る。手前に出てビタッと止まり、何かするのかと思いきや何もせず立ち去る。ボードを大きくさすりながら舞台を横切る。壁際でじっと佇む。あるいはバンバン叩く。対角線上をしどけなく歩いていたかと思うと突然膝が折れ、その場にガクッと崩れる。うつ伏せに倒れて、両足を宙に投げ出したまま静止する……。個々のフレーズ(?)は、形態としての整合性より専ら「倒れる」「回る」「反復を断ち切る」などの淡い意味性に導かれていて、不自然な可動範囲や動線は用いられないし、複雑なことは何もしていない。ただそうしたストロークを繰り出しては打ち切るタイミングや間合いだけが、苛烈な自己統御によって執拗に問われるのである。身体的なノリや反復、さらには静止状態の耽美などといったものすら徹底的に退けられているため、ダンス的快楽からも程遠い。
自分の運動が滑らかに流れ出すのをことごとく遮り、忙しなくスイッチを切り替え続けるパフォーマーたちの、醒め切ってすわった眼が独特だ。一つ一つのストロークが自他の身体・空間・時間に対してもたらす結果を観測しては次へと移って行く。いわば一挙手一投足が何らかの“実験”の様相を帯びているのである。立ったまま右足を左前にツッと出す。当然のごとくバランスが崩れて体は傾き、全身が捻れる。次の一歩は、重心を右足に移してターンするか、出した足を引っ込めるか、あるいは……それが別にどうだというわけではない。ただ確かめるだけである。ゆっくり後ずさりしたら、たまたま誰かが立っていてその横に並んでしまった。どうなるのか。同調するのか、行ってしまうのか。問題はそれだけ、ただしこの上なく事態は逼迫しており、その意味で最高度に具体的だ。位置、距離、関係、力学、の演劇。観客が見るのは運動というより運動の断面、いいかえれば判断そのものである。知らない間に目が奪われて、異常なほど意識が集中してしまい、しかも絶えず緊張と弛緩の波間にさらわれる。終わると同時にドッと神経の疲労が押し寄せてくる。
前回と比べて不満がなかったわけではない。互いに相手の出方を窺う視線がギラギラ交錯するスリリングな場面が減り、総じて個人プレーの集積という趣きが強かったこと。あるいは過剰な音と光に煽られてほとんどダンス化してしまう中盤。しかしフランスパンが大量に撒き散らされるシーンが、それらを帳消しにした。初めはボン、ボンと投げ出されたパンが、舞台上至る所から新たに現われ、引き裂かれ、叩きつけられ、振り回され、食いちぎられる。舞台奥の階段からも音を立てて大量に転がり出してくる。猛烈な勢いで溢れ返ったパンとその破片と粉塵が一面に広がり、騒ぎが収まってみれば“完璧”な画になっている。即興にもかかわらず、飛散したパンの大小、量、配置が、である。どうして、こんなことがありえるのだろうか?
もちろん意味を求めれば如何様にも“解釈”できる舞台である。何とでも読める。しかし何とでも読めるがゆえにかえって、しかつめらしいお喋りは滑稽である。パフォーマンスの圧倒的な強度が饒舌を虚しくさせ、言葉をゼロに返す。何を言ってみても、それとは違う未知の、はるかに相応しい言語があるのではないかと不安にさせられる。無論ファッショナブルなキーワードが入り込むべき余地などありはしないのである。


(本稿は「CUT IN」(タイニィアリス/die pratze)Vol.14 2003年4月号に掲載された文章に加筆・訂正したものです)