▲ブラウザの<戻る>を使って戻って下さい

 

即興へのこだわり
 
  ●昨年のドイツ公演(ラオコン・サマーフェスティバルティバル)はいかがでしたか?

――ハンブルグっていう都市は、豊で街がゆったりしていて、山の手的な高級住宅街っていう感じ。ちょっと驚いた。以前訪れたベルリンのような、雑然とした、肌で感じる抑圧感みたいなものがなく、開放的で落ち着いている。ここで即興行為が入り込む隙間があるのか? 着いた直後そんな不安があったけど、公演後のお客さんの反応はとてもよく、老若男女さまざまな人から、積極的な意見や感想、質問が出て新鮮な驚きや興味を持ってくれた。この場所の文化的奥行きみたいなものを感じる。でもマスコミ的には日本でもそうだけど、即興という行為自体が一般的でなく、低く見られるようだ。一人の記者からはさんざんなおしかり(酷評)を受けたけど、論理堅牢な西洋文化の牙城の中で、否定的反応自体が、即興行為の持つ批評性を表しているようにも思う

●即興的な舞台って観るほうからいうと、戸惑うことありますよね。
――確かに、物語みたいな筋はないし、一つ一つの行為の意味や繋がりを考えてしまうと、つまらないのじゃないかな。“即興の舞台”を、戯曲上演のような “再現の舞台”の見方で見て批判しても、それはお門違いだろう。方法が変われば、自ずと現れるものが違う。駅までの道順を変えれば景色も変わる。その見慣れぬ風景を述べるのに、どのような言葉を新たに探すのか、それが問われてくると思う。即興行為はいわば、意味論的には何も発しない、零度の喫水線を保とうとしているわけだから。山に行ったら山の楽しみ方がある。自然に目を凝らさなくては、何も見えてこない。テレビつければ情報が提供されるってわけじゃかないからね。

●何故即興を選んでいるのですか? 即興でやることにどんな意味があるのですか?
――うーん。即興の理由や意味については沢山言葉が用意されるけど、僕が即興にこだわるのは、いろんな意味で「リアル」っていうことかな。グローバリゼーションとかサイバースペースって言われる今日的環境の中で生きる人間の存在感覚のようなものを捉えようとする時、日常意味世界に依拠する従来的な行為論の枠組みは、理解はしやすいのだが、<今、ここ>の場で成立させていく行為のエネルギーや、方向、距離、強度、時間、広がりといった一見抽象的な事柄の方が生そのもの強く覚醒できるように思う。抽象的って感じられるのは日常世界から見るからで、むしろ即興行為はまぎれもない眼前の事実。そこにどんなリアリティを見つめるのか、観る方だけじゃなく、やる方にとっても問われる。その意味で即興はほとんど100%精神的行為でもあるように思う。

●最後に今回の公演タイトルは不思議な感じですけど、どんな思い入れがあるのですか?

――このタイトルは、ヴィトキェヴィッチの「幻覚剤ペイヨーテの効果に関する報告」というテキストからの引用で、公演内容との直接的な関係があるわけじゃないのだけど、僕らにとってタイトルは、公演を約束していく「合言葉」のようなもので、この作品の場合、初演時の2日後に起きた「9.11」とそれに続く世界変化に対する“わだかまり”のようなものがこの合言葉にインプットされることになったように思う。これまではあえて現実的な要素を排除してきたけど、この作品ではその姿勢を崩して、今、ここ、という境界を越えてみようと思う。<今、ここ>が<ここ、どこ>になって日常の死角に潜む闇の怪物のような存在が少しでも見えて暴れてくれれば、と願っているのですけど。

麻布die pratze通信より