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2001.4.23 日本人の友への手紙  岸本一郎                    
何故日本人は広島長崎に涙しないのか          

三月三十一日、一緒に十六年暮らした猫のバンビが死んだ。「殺された」と言った方が正確かもしれない。正月に三週間ほど日本に行くため、猫の世話を条件に日本人の若い女に安く部屋を貸したところ、猫を虐待され、僕が帰った時には怯えきって一キロ以上も痩せていて、2ヶ月ほどで、まだ若い顔のまま逝ってしまった。
悲しみはやがて怒りに変わり、何故あんな女に貸したのだろうかという後悔とどうしようもない気持ちで、ここ数週間何も手につかない状態が続いた。
しかし、このまま怒りを増幅し続ける事は不可能であるし、そんな方向に向かったら、パレスチナ人を虫けらのように殺して平気でいるイスラエルのような精神障害状態にも陥りかねない。
Grief が Rage に変わり、そしてそれが Healing に向かうプロセスを模索していたとき役に立ったのは熱力学の初歩にある遠い記憶であった。工学系の勉強をした人には、等温変化、等圧変化で元に戻ってくる菱形をひしゃげたようなグラフと言えば解ってもらえると思うが、その他の人には説明が必要なようだ。悲しみがその同じ温度を保って圧力を増して行くと、それが怒りに変わり、今度は怒りの圧力を維持したまま温度をあげる。臨界点に達すると、圧力が放出され、更に温度が下がって元の位置に戻ってくる。こんな説明で解ってもらえるかどうかちょっと不安だが。とにかく怒りのエネルギーを何とかポジティブな方向に振り替えようと必死になったわけだ。

少しして気づいてみると、去年から考え続けていた日本人の外に対するCompassion, Respect の欠落の問題、広島、長崎(もちろん原爆)に関する問題に全てが重なってきていた。「何故日本人は広島長崎に涙しないのか」これは正月明けに長崎、広島と廻っていたとき(まだバンビの悲劇を知らない時)に頭に浮かんだフレーズだ。今でも原爆に拘って精力的に世界へ向けて訴えかけている人たちが居る一方、多くの日本人はそのことをすっかり忘れ、考えようともしていない。原爆の日ですら思い出す人が少なくなってきているのが現状であると思われる。内に対しては暖かく、強いCompassion が持てるのに、外のものは「物」でしかない。こういった感情は日本人に特別なものではない。しかし、親戚や親友が死んだのでなければ同じ日本の中でつい最近起こった悲劇に何の感情も持てないというのはやはり想像性の欠如でしかない。
かく言う僕自身えらそうなことを言える立場ではないことを承知の上でこんな事を書いている。
僕は97年にサラエボに、スレブレニッツァに涙して、初めて広島、長崎を忘れている自分を思い起こさせられた。そして、Grief が Rage に変わりHealingに向かうプロセスを経ずに、ただ漠然とアメリカに対する怒りを感じていただけであったことも悟らせられた。
Grief, Rage が Healing のプロセスを経て元の位置に戻ってくるのが熱力学的自然法則であるならば、Healing の過程には自己検証が伴われなければならない。なぜなら、それは内へ向かうエネルギーの放出であるはずだから。
原爆へのGrief, Rageに続くものは、日本を国家的立場でみた場合、当然南京虐殺であり731部隊であってしかるべきものである。そのHealingプロセスを経て、はじめて真のCompassion, Respect, といったものが生まれてくるはずである。国家的規模で南京虐殺、731部隊に関する事実を隠蔽しようとしている環境で、真のGrief, Rage は成立しない。そして、この自然法則を後の世代に伝えることも不可能になる。だから、僕の猫を殺したCompassion の欠片もないような女が今の日本に育ってしまうのだ。何もこれで今の日本はどうしようもないと短絡的に結びつけようとしているわけではない。真珠湾に対するGrief, Rage, のみに注目し、(愛媛丸事件は、殺すつもりはなかったかもしれないにしろ、未必の故意が成立するケースであると僕は見ている)原爆に関するHealingのプロセスを詭弁で回避しているここアメリカも同様で、オクラホマ爆弾事件のようなものが起こるのも、言ってみれば単なる自然法則に過ぎないのだから。

では、どうすればティモシー・マクベイや猫殺し女が出現しない社会が創れるのだろうか。
新聞やテレビのニュースをちょっと見ればGrief, Rage の材料などゴロゴロころがっている。しかし、それはあまりにも遠く、自分が感情的に参加できるものではなく見えてしまう。更にはそういった悲劇が多過ぎて、一つ一つ感じている時間も容量もないと思ってしまう。でも、本当にそれが理由で感じられないのだろうか。

僕の構成演出作品である「ツァイツガイスト'99」の始めに「マタニティー オブ ザ ワールド」という役のダンサーが出てきて、時を流れ始めさせる。暫しの悦楽の後、人類の歴史の中での悲しみ苦しみの記憶がすべて押し寄せてきて耐えられなくなり、逃げ去って、時の流れをただ淡々と司る存在になってしまう。
すべてを受け止めてしまったら、やはり逃げ出すしかないかもしれない。しかし、だからといって、感情を全く閉ざしてしまうのではあまりにもデジタル過ぎる。0は何倍しても0である。この際、Computer の容量を増やすことは忘れて少しはCompassion の容量を増やすことを考えたらどうだろうか。そして、そのCompassion を真のものとする過程にもう少し着目したらどうだろうか。Grief, Rage, Healing のサイクルを完結させるために、日本人は、侵略の被害者であるアジア諸国の危惧をよそに軍国主義的歴史観をのさばらせるような事は絶対に許してはならない。ドレスデン報復虐殺爆撃、東西分断のGrief, Rage を乗り超え、ベルリンにホロコーストミュージアムを作ることで真のHealing のプロセスを勝ち取ろうと努力しているドイツですら、ネオナチムーブメントに脅かされているのが現状である。80年代以降、アメリカ型拝金主義を至上のものとして思想性を使い捨て懐炉のごとく捨て続けている日本などなお更である。こんな事を続けていたら、前途には高校での無差別殺人や意味のない爆弾殺人事件しかないだろう。そして、猫どころか自分の子供を殺され、夜中に目を覚ましてやり場のない怒りに打ち震える親たちを大量生産するしかなくなるだろう。
答えはある。確かにある筈である。しかも、意外と身近なところにある。

2−3年の余生を奪われたバンビはもう戻ってこない。でも、僕が友と呼べる人たちが少しでもこの答え探しに力を貸してくれるのなら、バンビの死は、猫死に・・じゃなかった・・犬死ににはならなかったと感じることが出来る。

A.A.B.57年 4月23日

岸本一郎

 

2001 9月11日 NY在住の岸本一朗氏からの無事報告


12時半、ワールドファイナンシャルセンターから歩いて帰って来ました。
8時から9時までの野村證券の日本語クラスに行っていたのですが、アタックがもう15分遅かったら巻き込まれていたところです。 1機目のアタックの後、クラスを早めに終えて外へ出たときに2機目のアタックがあり、走って逃げましたが、とりあえず無事です。

明日からここのリアリティーは全く違ったものになるでしょう。
まずは、報告まで。

一郎


9月13日

ニューヨークは昨日も今日も秋晴れの良い天気です。 でも、とても外へ出る気にはなりません。町全体がある種の躁鬱状態。 1日中テレビのニュースを見て新聞を読んで、イーメイルと電話。歯根炎で39度の熱があっても、頭を7針縫った後でも食欲だけはなくならなかった僕が何も食べる気がしない程。ここ2日は何を食べても味が感じられません。ドイツから、フランスから、イタリアから、そしてもちろん日本から、電話やイーメイルで連絡を頂き、皆様のご心配に感謝しています。今のところ知人(日本人)のご主人(アメリカ人)が爆風で車の下敷きになり、骨を何箇所か折って入院しているというニュースが一つ入っていますが、その他近いところでの被害は伝わってきていません。去年の9月、イスラエルのアリエル・シャロンがテンプル・オブ・マウントを訪ね、騒動を誘発させ、秋だけで300人以上のパレスチナ人を殺して以来(因みに昨秋日本が殺した鯨は84頭)、アメリカ製ヘリコプターが売買契約違反で攻撃用として使われていても文句を言おうともしないアメリカに何らかの報復テロがあってもおかしくはないと感じていたものの、このような規模でしかも身近に攻撃があろうとは夢にも思いませんでした。 ペンタゴンですら、攻撃の2日前に日本と韓国の米軍施設に攻撃の警告を出すという、頓珍漢な対応しかできていなかったようです。 今のところオサマ・ビン・ラデンを中心にモスレムテロリストに非難の目が向かっていますが、日本赤軍のメンバーが攻撃立案に絡んでいたりしたら、日本人として居心地が悪くなることでしょう。 
今は、ブロードウェーも野球も中止。 テレビではずっとニュースだけ。 家はケーブルテレビではないので、CBS以外は映らなくなっています。 飛行機は今日から少しずつ飛び始めるようですが、暫くはちょっと乗るのが気持ち悪い感じです。
一−2ヶ月すれば、町の機能はなんとか回復するのでしょうが、この重苦しい鬱状態がいつまで続くのかは誰にも解りません。ベルリン移住計画をもっと早めに推し進めておけば良かったと、行動速度の遅延を今更ながら嘆いています。
まずは、現時点での心境など、報告まで。

一郎

追伸:現在こちらから外国への電話は非常に困難な状況です。 電話でお返事できないことお許しください。

9月18日

2回目の無事通信で、Dipress した状態を正直にさらけ出してしまい、更にご心配をお掛けしたのではないかと危惧しています。 でも、13日の僕はあのような精神状態であったことも確かです。

97年夏、サラエボ、ザグレブ、ベオグラード、ベルファストと街頭公演をしたときのチラシにこんな文章を書いていました。

When people experience drasic incidents which are beyond their emotional
comprehension they lose their word.
When people physically disappear the words which has lost the chance to
transmit meaning to others get lost in the air.
But, where do these words go?

台詞に「失われた言葉たちが飛んでいる。」というのがあるので、そこから立ち上がってきた文です。

12日はまだ言葉を失った状態でした。

今でも目をつむると、9時半頃 Canal Street と Broadway の角で、もう安心な距離だと思い、一休みしたときの記憶が蘇ってきます。 「津軽海峡冬景色」ではないけれど、「北へ逃げる人の群れは誰も無口で、、、」何人かは肩を抱かれるようにして涙交じりで歩いている人も居ました。

 殆どの人が表情を失った顔の群集。 こんな風景を見たのは初めてです。 少しして南へ(WTC 方向)うれしそうな顔をして歩いてくる2人連れの若い日本人の女を見た時はさすがに嫌悪の情が浮上してきましたが、それさえも顔に出せるほどのエモーションのエネルギーがなかったように感じました。僕の頭の中には、翌日からの自分の日常性が全く違ったものになるであろうこと、数千人の命が失われたであろうこと、親や友人に自分の無事を伝えなければならないこと、この3つが渦巻いているだけで何も考えられませんでした。NYUの外国語科のオフィスに着いたのが10時ごろ。 その時、2WTCが落ちたことを知りました。僕は時折意識的に顔を上向けなければと思いながらも、気づくと道を見ながら放心状態でひたすら北へ向けて歩いていて、振り返ろうともしていなかったのです。(芝居の楽日明けは、いつもある種の放心状態になります。 それまで構築してきたものがすべて無に帰し、日常性の連続が断たれるからです。 でもそれは、常にすがすがしさを伴ったものでした。 今回の事件に関しては、前方に暗い雲しか見当たりません。)すぐに橋を渡ってBrooklyn に帰ろうとして、橋が襲われても怖いので、少しNYU で休み、一番襲われそうもないWilliamsberg Bridge を渡って帰りました。 それでも、橋の上では時々上を見上げて飛行機がこちらへ飛んで来ないか確認していました。

あれから一週間が経ちました。
昨日今日とマンハッタンへも行きましたが、まだWTC 方向を見る気にはなれません。町には星条旗があふれ、事件発生当初から「戦争」という言葉を乱発していたBush は相変わらずその馬鹿さ加減を発言のあちこちにさらけ出していますが、批判の言葉はあまりあがっていません。でも、土曜日の朝ABC の番組(別のチャンネルを借りて放映中)で11−12歳ぐらい中心の子供を集めて意見を聞く番組の中に多少の救はありました。 「どうしてアメリカが襲われなければならないの?」と訊いた女の子の質問を、司会のピーター
・ジェニングスが受け、それに対する答えを何人もの子供に訊いた時です。 アメリカに嫉妬しているからだとか、もっとひどい意見を述べた子供も居ましたが、ある女の子が、アメリカは中東でやるべきことをやらなかったり、やらなくてもいいことをやったりして、悲惨な状態を作ってしまったから、彼らは自分たちがどんな思いをしているか我々に知らせるためにやったのではないか、とはっきり言ったのです。 もちろん親の影響その他の要素があるとは思われるけど、他にも同様の意見を借りた言葉ではなく、しかも論理的に発言できる子供が何人かいたことです。 
全体から見ればごく小数かもしれないけど、このような子供が大きくなって国を変えてくれればと祈るような気持ちで居ます。

今回の事件は、今後の市民生活のトーンをある意味決定付けたと思われます。
今は、テレビでも街中でも盛んに議論が交わされています。 多分これはニューヨークだけでなく、程度の差こそあれ世界中同様のことでしょう。 その議論が実り多いものであることを願っています。
世界は今、21世紀のパラダイムに向けて苦悩の思考の波を増幅させているところに見えます。僕にはその思考の波の音が聞こえてくるようです。 そして、その美しくもあり恐ろしくもある波音に人々の感性は揺り動かされているのでしょう。

一郎

 

 

2002.9.22 「千田悦子さんからの手記」9月22日

日本の友人経由で以下の手紙が回ってきました。世界中の良識が反対する中、ごり押しで戦争政策を推し進めているブッシュ政権、それにまともに反対も出来ない小泉政権。(中国は強行に反対をしている)アメリカによる国家テロは、手紙にもある98年のミサイルアタック以外にも86年にカダフィを殺そうとして罪もない36人を殺したケース、85年にフィラデルフィア警察がMOVE というカルトグループを爆撃して11人の女子供を殺したケースなどずーと前からあります。この国にはまともな論理は通用しません。 99年5月にはベオグラードの中国大使館を爆撃し、2人殺しておきながら、「古い地図を使ったから間違った。」などと、スパイ衛星の存在を知っていれば10歳の子供ですら判る嘘をついてもマスコミも何も言わないのですから。世界中の怒りの力が何とか「力を持った後進国」アメリカに世界を壊させないよう歯止めを掛けることを祈っています。

以下、転送です。


一郎

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>送られてきたアフガニスタンからの手紙を転送します。一人でも多くの方に読んでいただきたいとのことですので、紹介します。
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>国連難民高等弁務官カンダハール事務所で働いていらした方>-千田悦子(ちだ・えつこ)さんという方の手記を紹介させてください。
>
> 千田さんは、国連難民高等弁務官カンダハール事務所で仕事をしていましたが、オサマ・ビン・ラディン氏をかくまっているとされるタリバンの本拠地へのアメリカの軍事行動などの危険性が出てくる中、一時的に勤務先をパキスタンに移転するという措置で、「避難」をしていますが、その緊急避難の最中にしたためた手記です。
>
> 以下、千田さんの手記です。

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報道機関の煽る危機感 千田悦子

9月12日(水)の夜11時、カンダハールの国連のゲストハウスでアフガニスタンの人々と同じく眠れない夜を過ごしている。私のこの拙文を読んで、一人でも多くの人が アフガニスタンの人々が、(ごく普通の一人一人のアフガン人達が)、どんなに不安な気持ちで9月11日(昨日)に起きたアメリカの4件同時の飛行機ハイジャック襲撃事件を受け止めているか 少しでも考えていただきたいと思う。テレビのBBCニュースを見ていて心底感じるのは 今回の事件の報道の仕方自体が 政治的駆け引きであるということである。特にBBCやCNNの報道の仕方自体が根拠のない不安を世界中にあおっている。

事件の発生直後(世界貿易センターに飛行機が2機突っ込んだ時点で)BBCは早くも、未確認の情報源よりパレスチナのテログループが犯行声明を行ったと、テレビで発表した。それ以後 事件の全貌が明らかになるにつれて オサマ.ビン.ラデンのグループの犯行を示唆する報道が急増する。その時点でカンダハールにいる我々はアメリカがいつ根拠のない報復襲撃を また始めるかと不安におびえ、明らかに不必要に捏造された治安の危機にさらされる。何の捜査もしないうちから、一体何を根拠にこんなにも簡単に パレスチナやオサマ・ビン・ラビンの名前を大々的に報道できるのだろうか。そしてこの軽率な報道がアフガンの国内に生活をを営む大多数のアフガンの普通市民、人道援助に来ているNGO(非政治組織)NPOや国連職員の生命を脅かしていることを全く考慮していない。

1998年8月にケニヤとタンザニアの米国大使館爆破事件があ>った時、私は奇しくも ケニヤのダダブの難民キャンプで同じくフィールドオフィサーとして働いており、ブッシュネル米国在ケニヤ大使が爆破事件の2日前ダダブのキャンプを訪問していたという奇遇であった。その時も物的確証も無いまま オサマ・ビン・ラデンの事件関与の疑いが濃厚という理由だけでアメリカ(クリントン政権)はスーダンとアフガニスタンにミサイルを発射した。スーダンの場合は、製薬会社、アフガンの場合は遊牧通りがかりの人々など 大部分のミサイルがもともとのターゲットと離れた場所に落ち、罪の無い人々が生命を落としたのは周知の事実である。まして 標的であった軍部訓練所付近に落ちたミサイルも肝心のオサマ・ビン・ラデンに関与するグループの被害はほぼ皆無だった。タリバンやこうした組織的グループのメンバーは発達した情報網を携えているので、いち早く脱出しているからだ。前回のミサイル報復でも 結局 犠牲者の多くは 子供や女性だったと言う。

我々国連職員の大部分は 今日緊急避難される筈だったが天候上の理由として国連機がカンダハールに来なかった。ところがテレビの報道では「国連職員はアフガニスタンから避難した。」と既に報道している。報道のたびに「アメリカはミサイルを既に発射したのではないか。という不安が募る。アフガニスタンに住む全市民は 毎夜この爆撃の不安の中で日々を過ごしていかなくてはいけないのだ。更に、現ブッシュ大統領の父、前ブッシュ大統領は1993年の6月に 同年4月にイラクが同大統領の暗殺計画を企てた、というだけで 同国へのミサイル空爆を行っている。世界史上初めて、「計画」(実際には何の行動も伴わなかった?)に対して実際に武力行使の報復を行った大統領である。現ブッシュ大統領も今年(2001年)1月に就任後 ほぼ最初に行ったのが イラクへのミサイル攻撃だった。これが単なる偶然でないことは 明確だ。

更にCNNやBBCは はじめからオサマ・ビン・ラデンの名を引き合いに出しているが米国内でこれだけ高度に飛行システムを操りテロリスト事件を起こせるというのは大変な技術である。なぜ アメリカ国内の勢力や、日本やヨーロッパのテロリストのグループ名は一切あがらないのだろうか。他の団体の策略政策だという可能性は無いのか? 国防長官は早々と 戦争宣言をした。アメリカが短絡な行動に走らないことをただ祈るのみである。>

それでも 逃げる場所があり 明日避難の見通しの立っている我々外国人は良い。今回の移動は 正式には 避難(Evacuation)と呼ばずに 暫定的勤務地変更(Temporary Relocation)と呼ばれてい>る。ところがアフガンの人々は一体どこに逃げられるというのだろうか? アメリカは隣国のパキスタンも名指しの上、イランにも矛先を向けるかもしれない。前回のミサイル攻撃の時は オサマ・ビン・ラ>デンが明確なターゲットであったが 今回の報道はオサマ・ビン・ラデンを擁護しているタリバンそのものも槍玉にあげている。タリバンの本拠地カンダハールはもちろん、アフガニスタン全体が標的になることはありえないのか? アフガニスタンの人々も タリバンに多少不満があっても20年来の戦争に比べれば平和だと思って積極的にタリバンを支持できないが 特に反対もしないという中間派が多いのだ。

世界が喪に服している今、思いだしてほしい。世界貿易センターやハイジャック機、ペンタゴンの中で亡くなった人々の家族が心から死を悼み 無念の想いをやり場の無い怒りと共に抱いているように、アフガニスタンにも たくさんの一般市民が今回の事件に心を砕きながら住んでいる。アフガンの人々にも嘆き悲しむ家族の人々がいる。世界中で ただテロの"疑惑"があるという理由だけで、嫌疑があるというだけで、ミサイル攻撃を行っているのは アメリカだけだ。世界はなぜ こんな横暴を黙認し続けるのか。このままではテロリスト撲滅と言う正当化のもとに アメリカが全世界の"テロリスト"地域と称する国に攻撃を開始することも可能ではないか。

この無差別攻撃や ミサイル攻撃後に 一体何が残るというのか。又 新たな報復、そして 第2,第3のオサマ・ビン・ラデンが続出するだけで何の解決にもならないのではないか。オサマ・ビン・ラデンがテロリストだからと言って、無垢な市民まで巻き込む無差別なミサイル攻撃を 国際社会は何故 過去に黙認しつづけていたのか。これ以上 世界が 危険な方向に暴走しないように、我々も もう少し 声を大にしたほうが良いのではないか。 アフガンから脱出できる我々国連職員はラッキーだ。不運続きのアフガンの人々のことを考えると 心が本当に痛む。どうかこれ以上災難が続かないように 今はただ祈っている。そしてこ>うして募る不満をただ紙にぶつけている。

千田悦子   2001年9月13日

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「手記」はできるだけ広範囲の方々に読んでもらいたい、
ということですので、他の方に紹介してくださってけっこうです。