今、演劇は自由だ。
映画やテレビ、文学や報道やショーで
出来ることは
それらにまかせておけばよい。それはつまり、演劇が、
演劇以外の欲望・目的・責任から解放された、
ということである。
演劇は素裸である。
そこから出発しようだはないか。
表すべき内容や手段をわざわざ外から探してこなくても、
演劇は演劇があるべき、
今、ここ、という場の中から
自らの楽しみ/ドラマを創り出していけるのだから。
劇団という枠も越えて、
今、ここ、に立つ人間を共通の出発点とし、
体やモノや言葉との始源的な関係を模索するこの
共同作業の場が、
やる者、見る者、それぞれの生活の場へと
開かれていくことを願います。

('92-'95<実験演劇シリーズNo.1-22>チラシより)
 
     
     
     
     
     
  の面白さは、その内容にあるというよりも、
どうしてそんな出来事が生まれるのか、
その理由が分からないという点にある。
物語ならば、どんな言葉や行動も全体の中で理解することができよう。
だが、夢の言葉や行動はその全体が見えてこない。
個人史や人類史の中に、
あるいは宇宙の何処かに、全体は隠されているのか? 
(そんな問いは学者に任せて)むしろ私は、夢の“わからなさ”を
そのまま受け止めようと思うのである。
不可解ゆえに夢はまぎれもない驚きの体験だ。
その驚きこそ、もう一度演劇の真芯で受け止めてみる。
物語や行為の理由がなくても、“わからなさ”は自らの行為の立派な動機になる
今そのことに自らを熱してみたい。
それは、不可解さへの挑戦などというカッコいいものではない。
むしろ現代は“不可解な存在”を切り捨てていく不安がある。
そして、壊れた茶碗のカケラがその全体を想像させるように、
不可解な断片を断片として生き直すことにより私たちの生の全体が見えてくるのを願うのである。
夢は、不意に脳裏に現れるゲリラのようなものだ。
彼ら相手の戦いは、たったの2年間
(実験演劇シリーズvol.11〜16/当連作『夢』第1〜3番)
で決着がつくようなものではないことが分かってきた、どうやら長期戦だ。
ひとまず休戦、休戦だ!
(が、彼らは今夜も私を狙ってくるだろう。畜生!)
それでは皆様また<夢>で会いましょう。

('94-'95連作「夢」チラシより
 
     
     
  ・・・・意味のなさを楽しむ、無意味な世界を遊ぶっていうような舞台が多くなっていて、そこで何か欠落してしまっているのじゃないか、例えば社会性のようなものが、という指摘なんだけど、以前から戯曲や物語の再現を放棄してきた僕らにとってそれは、身体が意味世界から解放されることで歓迎すべきなんだけど、だけど同時に危機感もつのる。

つまり、ベケットが半世紀前に描いた「意味のない世界」みたいなものの衝撃力が、もはやというより、もうとっくになくなってしまった、っていうことなんだろうけど、これが一体何を意味するのか? 本来、意味をなさない、持たない行為っていうのは、既存の意味世界や秩序をどこかで拒絶、否定しようとする反社会的な行為だと思うんだけど、それが体制的に流通するようになった。「無意味な世界を遊ぶ」っていう行為が記号として、いかにも囚われのない自由な都市的な遊びっていう感じで、消費されるようになった。毒抜きされているわけだけど、だとしたら、管理がさらに巧妙に身体を包み込んできたような気がする。お客さんに「自由に感じて下さい」「動きそのものがが思想なんだ」って言うだけじゃすまされない。どんどん舞台が現実から離れ、衰弱していってしまう。つまり舞台が何と向き合っているのか、その対峙感覚のようなものが失われてきているように思う。だから、舞台から固定した意味なりメッセージを排除しようして、身体からさまざまなものを削ぎ落としていく。でもそこで、実は身体自身も貧しくなってしまっているんじゃないかな。身体にまとわりついたさまざまな意味や意匠を一枚一枚脱ぎ捨てていくことで、身体本来の生の息吹があるなんてことはないのであって、むしろ身体は背負わされたさまざまな意味によって生かされている。その意味を無様でもかっこ悪くてもいいから全身で掘り起こし担い、対峙していく。その上で相対化していける自由さが欲しい。

もともと無意味な世界に身を投じる、それに向き合うっていうことは、本当はとても怖いことだと思うんだけど、手がかりがなく保障がない、暗闇に一人残されるような、崖っぷちにしがみついているような。それが「無意味な世界」っていう予定調和の"作り物"になっちゃうと、お化け屋敷、みたいなもので、本当に襲い掛かってくるわけではないし、ちゃんと出口もあって、そこでの怖さは日常のつかの間の刺激のようなもので、僕らの生に響いてくるわけではない。同じ怖さでも、冒険家が大自然の中で一人孤独と向き合う怖さとまったく意味が違う。もし今、この舞台は意味はありません。ご自由にご覧下さい、って言うならば、僕は踊りでも演劇でも、舞台をなんの保障のないところまで進めて、そこからはじめるしか面白くないんじゃないかと思う。つまり予定調和から離れたところで、その怖さに震え向き合いながら(っていってもそれを見せるわけじゃないけど)、舞台を成立させていく、偶然性の中から必然性を見つけていく、その緊張感の中から生まれてくるものしか、その出会いに意味を超えた驚きのようなものは生まれないん
じゃないかな      

 2002.3 『Yes,』によせて