DA・M 「すべては突然やってくる」 2016.3 BankART 3BGallery  
  2016年3月25日所見 宮田徹也(日本近代美術思想史)  
   

私にとって3月とはDA・Mの季節だ。大橋宏は評を求めている。それに応えるために、できるだけ初日に見て公演期間中に書いて送るのが常となっている。評などいらないというアーティストが大半を占める中、大橋の要望は私にとって有難い。見て直ぐに、絵具が乾き切っていない絵を描き、舞台に組み込まれていく心境である。

大橋は私だけではなく、演劇/ダンス/舞踏といった舞台批評、文学/音楽/美術といった様々な分野の批評者に批評を依頼していることであろう。批評は格付けではない。様々な見解があって、百人百様の批評があるべきだ。一人が一つの公演に対して複数の評を書くべきでもある。当然、玄人素人など関係ない。現代芸術は批評があって初めて成立する。

私はこれまでDA・Mの公演を、美術、ダンス、舞踏、映像を含む、現代美術の一環として考察してきた。しかし今回は特に「演劇」であることを意識して論じてみようと思う。私の心境に変化が訪れたり、この一年で演劇を多く見たりしたためではない。言葉と芸術を考えると、二者は対立するものではなくむしろ同根であると考えているからだ。

不遜に感じるかも知れないが、私は目の前にある芸術を感じている時に、常に他の芸術や状況について考えている。美術の際には文化人類学、ダンスの時には音楽、映像の場合は経済といった具合に。優れた芸術作品は、分野を超えて共通する主張が込められている。分野の超克を果たすためには、分野の追求も不可欠となる。

私にとって演劇の本質とは、人間が言葉は通じなくとも互いに目を合わせ会話し、意図が通じ合う、理解しあう瞬間を示す点にあると思う。人間だから互いの意図に対して共感するだけではなく反発したり、合意しなかったり、理解していてもわざと分からない振りをしたり、時には嫉み、僻みから攻撃する場合さえある。

しかし、意図が通じ合う瞬間とは美しいはずだ。我々は日常その瞬間を目の当たりにしているはずなのに、実際にはできていないことが多々ある。だから人はWEBを筆頭に通信機能が発達しても、実際に会いに行くし公演や展覧会を求める。意図を通じ合わせるためには、流暢な言葉など必要ない。異なる民族、国、時間すらも芸術は乗り越える。

DA・Mの場合は、特にこの演劇の本質を前提にし、限りなく台詞のない作品を創り続けてきたように私には思える。すると立ち会う者達は何を見て感じればいいのかと戸惑い、体の動きからのサインに拠り所を求めてしまうことに終始してしまうのではないだろうか。私もそうだ。しかしDA・Mの作品に、肉体からの言葉はないのである。

すると何が残るのか。優れた現代芸術作品は、言葉に還元できない世界観を構築している。それは文学、詩、哲学、批評といった言葉を使用する領域であっても同様である。言葉にできない内容を仮に言葉を使用して伝えているに過ぎない。デカルトの『方法序説』は発表当時、言葉足らずと非難されたが文体と行間の閃光が読む者に届くのだ。

理論的な哲学書であるはずの『方法序説』の字面の内容ではなく、言葉にできない思想を何とか伝えようとするところに感動があるとは、何という逆説であろう。哲学を研究する者に邪道な見解であるとお叱りを受けるのかも知れない。しかし、現代芸術が多種多様に展開していることと同様、哲学も自らの殻を自ら破っていかなければならない。

舞台は奥行きを広く形成されている。左奥には簡易ベッド、右手前には長いソファ、手前の床には白いテープで矩形に囲われ、矩形内には白い足跡が無数、残されている。白い粉が撒かれ、演者の動作の跡が残されているのではあるが、「痕跡」としては曖昧なほどに個々の形を認識することはできない。

当日配布されたパンフレットには小椎尾久美子、中島彰宏、原田拓巳、Baek, Dae Hyun、Choi, Se Hee、Kwak, Minaが【前景】で、サキ、渡部美保、Hong, Seung Yiが【後景】、Yu Lingnaが【『私』の時間】と記されている。実際は【前景】が手前、【後景】がベッドやソファなど主に奥で交互に行われ、【「私」の時間】はその狭間に存在するように、絶えず横切る展開であった。

前景の6人は、矩形の中で両手を掲げながら歩き回る。何者すらも表現はしていない。唯日常的な光景でないことしか定かにならない。そのあり方は「いま/ここ」を拒絶し、「かつて/これから」を示しているように私には思えてならない。時には道具を使用しても、6人の本質に変化は見られない。6人は出会わないからこそ、出会うのだ。

後景の各人のソロは圧巻であった。台詞を吐いたとしても、身体を揺るがしたり台車に乗って移動したりしたとしても、そこにあるのは言葉を否定する姿のみに他ならない。そして人間存在の脆弱さ=脆さ、弱さ、儚さが浮彫となっていくのだ。平島聡はカフォン、生ギターの演奏で、砂塵に消え去りそうな人間存在を留める。

蛍光灯とライトが忙しなく点滅するのは、見る者の視覚を麻痺させて動きとパフォーマンスの差異を図るものなのではなく、むしろ見え難くする事によって人間が生きているだけの姿を浮かび上がらせているのである。我々の日常の行為こそ既に「演劇的」である。生きることとはもっと無意味で、価値など一切ないのだ。

80分ほどの公演は、瞬く間に終了した。見終わった後に感動が残るのは、剥き出しの人間を突き付けられた訳ではないということが理解されるからだ。ちっぽけな人間の存在は、それだけでは何にもならない。突然やってくる生きることとは、生かされることではなく自らが選択することにあることを、この公演は教えてくれる。