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Interview from Hong Kong  by Phoebe

 
   

 

 
 

1.Why the action ' walking' is important in the performance, and in your other works?

 

 歩くという行為、あるいはそれを繰り返す“反復歩行”は、わたしたち劇団DA・Mが継続してきました身体作業<即興行為の発掘と組織化>の中から生まれてきた一つの即興様式です。

 もし舞台上の“歩く”という行為の重要性はと問われれば、それはまぎれもなく“歩く”という行為が言語や文化の壁を越えていく行為だという点にあるでしょう。つまり、その行為の内に生み出されていく、さまざまな感情や感覚、あるいは意志は国境を越えて人間相互に通じ合える共通感覚なのです。

 

 そして同時に”歩く”という行為のもう一つ重要な点は、誰もが参加できる行為だ、という点にあります。たとえば、はじめての人間同志が、楽器を演奏し合って音楽を楽しむように、”歩き合う”という行為を通して上演を楽しむのです。もちろんこの場合の演劇には、一般的な意味での物語はありませんが、今、ここ、での出来事(ドラマ)を生み出すのです。演劇はこれまで、作者のテキストを役者たちによって沢山の手続きの上で、上演されるものと考えられてきました。しかし、この新しい演劇、つまり即興行為を様式にした演劇は、予め用意した台本がなくても、今、この場で誰もが参加できる行為を通して、すぐに共演できる新たな演劇形式なのです。

 

 

 
 

2.Anything you want to express through 'walking' ?

 

 ”歩行”という行為を通して表現できるものは実に多様です。

 もちろんこれまで演劇が与えてくれていた面白さ、たとえば役者が役を演じることの面白さや物語の展開を追う楽しさはそこにはありませんが、しかし身体表現とともに、それによって生み出される舞台空間の変容の中に、わたしたちは衝動、欲望、怒り、不安、喜び、祈り、哀しみ、孤独といった人間の多様な存在感覚をより直接的に浮き出すことができますし、また、暴力といった社会的な問題なども提出できます。 

 つまり”歩く”という形式は同じでも、その時々で何に重きを置いて構成するのか? 行為するのか? あるいはどんな資料や素材を挿入するのか? その時の自分の考えや迷いを率直に反映していけるのです。

 だから今回の香港公演に関しても、多分公演初日までわれわれはリハーサルを重ねながら、舞台で何を表現しようとするのか? 迷い探し続けることになるでしょう。

 

 
 

3.What should an audience expect when he / she step in the theatre for Aruku?  will you worry that hong kong audience wont able to get the meaning of the show?

 

 誤解を恐れずに言うならば、わたしは観客に予めの期待を持って席に座って欲しくはありません。これから見ることに対して、できる限りまっさらな状態で向き合って欲しいのです。たとえば、岩にあたっては砕ける波しぶきを見るときや、空に移ろいゆく雲の流れを眺めるときのように、観客には、目の前の出来事そのものを楽しんで欲しいと思います。それらの動きやそこに生まれる形は、誰もが予測しない出来事です。そこに予めに想定した意味や感動はありません。いや、むしろもっと正確に言うならばそれらの動きが幾つもの条件が重なって生まれた結果であるように、私たちも自らの行為に対して、考えうる限りの幾つもの意味や思いを用意して臨んでいくようにしています。そうすることで、むしろ決して一つの意味に収束しない行為の形を望んでいるのです。意味は行為とそれを見る者との出会いの中から生まれるのであって、行為の中に予め存在しているわけではない。舞台上の行為のある瞬間に、ある人は関心や感動を抱くかも知れないし、そうでないかも知れない。個々の人生の目的や意味がそれぞれ異なるように、それぞれの受け止め方も異なっていい。できる限りその自由を残しておきたいのです。だからそこに自由な対話も生まれる。だが時に、その自由は人を戸惑わすことになるでしょう。しかし、だからといってその自由を放棄するのは、演じるものにとっても見るものにとっても表現そのものの自殺行為なのです。生あるものにとって自由とは、永遠に求めて止まないかけがいのない価値なのです。だから、わたしはわたしたちの公演が、見るものとともに、その自由に向かって進んでいると感じることができるならば、わたしはその戸惑いをむしろ歓迎すべきものと考えたいと思うのです。

 

 
 

4.Is there anything you want to try out by do this performance?

 

 「試みる」というのではありませんが、わたしはこの舞台を上演するときは、普段の公演とはちょっと違う気持ちになります。というのは、先にも述べました通り、この舞台は誰もが普段行っている日常的な営為である歩行行為がベースになっています。つまりわたしたちは、この舞台によって、その土地の人たちと一緒に歩きたい、将来的には世界中の土地を世界中の人たちと一緒に歩き合いたいという、そんな誘惑にかられますし、それがこの舞台の希望でもあります。

 

 
 

5.In your work, most of the time, performers need to improvise within a specific situation, in this case, there will be kind of uncertainty of the performance, how do you think about this ' uncertainty' ?

 

 人類の歴史、文明の発達を見れば、人間は、みずからの社会からいかにして“不確実性”を排除し、いかにして社会を計測可能なものにするかを課題にして進歩してきたといえます。言い換えれば、社会から自然性を排除し人工的なものを優先させていくことが支配の論理ともいえるでしょう。そしてその支配の力や戦力は、今日ではすでにわたしたちの身体の内奥にまで及んできているのです。さまざまなメディアから日々流される夥しい情報やイメージは知らずうちに身体の内部深くにまで忍び込み、そこで仮構世界を築き上げてしまっている。われわれは現実世界との接触を喪失させてしまい、そうして身体がもつ自然性を奪い取られているのです。それは演劇も同様で、(ここで言う演劇とは西洋近代劇のことだが)俳優がテキストを手に何回も繰り返し練習をするのは、自らの身体の中により強固なフィクションを作るためなのです。そして観客もそのフィクションを楽しみに劇場に来る。つまりあらゆる出来事が予定調和の中にある。だけど人々はその安心感を求める一方で、その舞台がもはや今日の現実世界になんの応答も出来なくなっていることをうすうす感づいてもいるのです。世界はすでにかつての共同体が崩壊し、人間はバラバラな状態となって支配に曝されているのです。つまり、わたしが自らの舞台にこの”不確実性”を持ち込むようになったのは、すでにそれが現実(リアル)だからなのです。舞台に“不確実性”を持ち込むことで、われわれは現実的な支配に対する現実的な”抵抗”を試みようとしているのです。即興の舞台においては、パフォーマーは瞬間瞬間において、今、ここ、で何をすべきか、あるいはするべきではないのか、その生きた判断と実行が問われることになるのです。それはまさに、現実の火急の場において一人ひとりが問われ生きようとすることと同じことなのです。その絶え間ない生の生成過程を持続させていくことこそ、生を支配しようとする力への“抵抗”になるのだ、とわたしは言いたいのです。不確実性の中にある生と向き合おうとするときにこそ、舞台は本当の強さとしなやかさを赤裸々に曝してくれるのです。

 

 
 

6.In your experience, what is the most important factor in actor training?

 

 まず、舞台上の出来事を“受け止める”能力を高めること。それを簡単に言えば共演者の行為や自分自身の行為をより深く早く感じることです。つまり、演じる者と見る者とが向き合っている、今、ここ、という現実の場で生起する出来事を自らの内にインプットする。そのインプットがあるからこそ、そのアウトプット、つまり行為が、共演者相互においても、見る者との関係においても、現実的ものになるのです。その場での現実的なインプットがなく行為をするならば、その行為は演じるものの虚構にもとづいた、たんなる自己模倣に過ぎなくなってしまうでしょう。そのインプットがあって、今、ここで、どのようなアウトプットをするべきなのか? たとえば、今回のアルクに即して言うならば、歩行を静止すべきなのか、続行すべきなのか、その続行にあたっては、スピードを変えるべきなのか、どうか? あるいは声を出すべきなのか? つまりリハーサルをすることの意味は、インプットとアウプットの可能性をより広く開いていくよう身につけていくことであり、そのために私たちは行為の意味や選択肢をまざまに考えていかなくてはなりませんし、そうして共演者相互の、あるいは見る者との“応答”がより豊かなものになってくるのです。

 

 あと、フィジカルな面では、バランス感覚と身体エネルーの集中・解放を身につけていくことが大切です。どんな動きに際しても重心と体幹を崩さないようにして、体の中心(腰)にエネルギーの出し入れが出来ること。このバランス感覚と力の感覚なないと、動きはコントロール出来ずに、他者の目に曝すべき表現からかけ離れたただの自己表出になってしまいますし、そして舞台は次第に緊張感を失い、観客席から遠いものになっていってしまうでしょう。

 

 

 
 

7.What is the space of theater means to you?  And how do you think about 'text' or 'script' in your theatre work?

 

 とりわけわたしが東京で運営している小さな劇場空間は、わたしにとっては都会の只中の“空き地”といえるでしょう。さらに言えば“遊び場”です。そこに人が集い、何をするか、自由に遊ぶ場です。その遊びの中で、見知らぬ他者を知り、己を知り、新たな行為や関係が生まれる。それが遊びだからこそ、現実の利害にとらわれることのない自由な発想と対話を生みだし、逆に現実の世界を批評的に見ることも可能にするのです。演劇はどの時代でも多分に啓蒙的なところがあります。だが、それは一体だれのための啓蒙なのか? 正義なのか? それが世界で問われはじめている今、わたしたちは劇場空間を空っぽにしなくてはいけない。既存の価値観や基準で埋めてしまってはいけない。そこに少しでも余白を残し、社会の余分なり周辺を許容できる可能性を残しておく必要があるのだと思っています。

 

 わたしが自分の劇場、つまり“空き地”で望むことは、そこで何をやるか? ということが予め決めていたくはない、ということです。人が集まってきて、そしてお互いに「何をする?」という最初の問いを発し合う。それが大切だと考えています。もしそこに予め遊びのマニュアル、つまりテキストが用意されているとしたら、われわれはそのテキストが要請する内容や技術を身につけなくてはならないし、時にそれは一部のものしか参加の出来ない高いレベルかも知れません。むろんその空き地で自らの行為を見つけ出そうとするチャンスは奪われてしまっている。そうではなくて、“空き地”では、誰でもが等しく参加できるよう、そこにいる者相互が共通に出来ることを見つけ合うことが大切なのです。そしてその些細な行為がどうやったら更に面白くなるのか? そうした過程の中で、演劇は新たな方法と内容を獲得していく可能性を開いていくのです。もちろん、その過程の中で、テキストを用意することはあるにせよ、始まりはいつも、今、ここ、にあるお互いの身体なのです。そこから出発する演劇の在り方を探していきたいと思っているのです。つまり演劇はテキストから生まれるのではなく、その場にいる人間から生まれるのですから。