▲Back
公演評
DA・M日韓共同創作公演2015.3-11-15
「ドン・キホーテ」ついての10のことがら

宮田徹也


DA・Mを初めて見たのは恐らく2005年で、その後暫くのブランクを置き、2012、3、4年と連続で公演評を書き、DA・Mのwebに掲載されているのだが、今回、改めて読み直すと、恐ろしく見解が甘く、批評として「失敗」していることに気が付く。しかし私は常にベストを尽くしてその時々に評を書いているのだから、恥ずかしいとは思わない。むしろこれまでの甘さを糧として、DA・Mの批評に立ち向かう決意が芽生える。

舞台左壁面には折り畳み椅子6脚と傘が一本立て掛けられ、後方壁面左側床には高くとも10cm程の土が盛られている。後方壁面右側には背凭れ付椅子が6客並び、右壁面は工事現場のように仕切られて下には霧吹き、セーター、防止、靴、お面、ハンガー、バケツなど日常品が置かれている。

白大鉉、洪承伊、池鮮、田成昊、原田拓巳、小椎尾久美子、中原百合香、中島彰宏ら(順不同)演者が次々と舞台に上がる。韓国人男女各2名、日本人男女各2名と年齢も近いように見え、バランスが保たれている為、個々の微細な動きが強調される。各人とも右手を掲げ、倒れ、立ち上がり隈なく歩み続ける。

各人は台詞を読み、スピーカーからは馬の嘶きが聴こえる。日本語、韓国語、英語で語られる言葉は当日配布されたパンフレットやこのwebにも記されている通り、M・セルバンデスの『ドン・キホーテ』からの引用ではあるのだが、実際には日常の俗語も多く含まれている。

各人は各々の動作へ移行するのだが、それによって「個人」が浮き上がるのではなく却って消滅していく。それでも大橋宏の演出は際立ってこない。大橋という「個人」も滅却していくのだ。では舞台に何が残るのかというと、原初的な身振りと言葉、その漂う存在を何とか捕まえようとする見る者の視線である。

『身振りと言葉』と言えばアンドレ・ロルワ=グーランの書物を思い起こすが、グーランは『世界の根源』の中で「私はつねに死者の背後に生者を探してきました」と述べている。対比すればDA・Mは常に「いま・ここ」という概念、生者の背後に死者を探しているのかも知れない。

演者は日用品を中央に集め、指をさし異なる名称で呼ぶ。日用品を脇へ除け、空になった空間を指さし、正式に呼称する。この振付は重要であり、『聖書』や『古事記』に記される物体に対する名づけを連想させるのだが、それよりもM・フーコーの『言葉と物』を想起させる。秩序立てて発生される日用品は、事物として概念化されるのだ。

演者の錯乱した身振りは狂気すらも感じるが、決して時代をコラージュしたりカットアップしたりするのではなく、確実に「物語」が進行している。唯一、通常の物語と異なるのは、ここでの「物語」が確実に「ずれて」いくことにある。物語が物語から逸脱し、異なる存在に変容していく。この変容こそ、大橋の新機軸が隠されている。

当日配布されたパンフレットによると、大橋は『ドン・キホーテ』の前篇のみを扱ったというが、私はセルバンデスの原書よりも、オルテガ・イ・ガゼットによるドン・キホーテ解釈を思い出した。オルテガといえば『大衆の反逆』内で、大衆は大衆になることにより革命を不可能にしたと指摘したことが私の印象に強く残っている。

80分の公演中、古いジャズ、クラシック、S・ワンダー、ビートルズ、軽快なソウル、キューバ調と様々な音楽が流れていった。音楽も哲学も背負った時代を逃れることは出来ない。しかし背負っているからこそ時代を乗り越えてその威力を発揮し、再度解釈されることを待つことができるのではないだろうか。

私はグーラン、フーコー、オルテガという哲学者の名前を挙げたとしても、DA・Mの公演がそれら概念に当て嵌まるということを言いたい訳ではないので引用しない。優れた現代芸術は教養を必要としない反面、強靭な知識人が自己の思想に組み込もうとすることも厭わない。どのような立場の者に、何を言われようとも寡黙に、慄然と受け止めるのだ。

第一次世界大戦以後の現代芸術の特徴に、分野の超克を挙げることが出来る。素材、様式、常識、道徳を逸脱し、これまでなかった価値観を生み出すことは、権力に圧迫された人間性の回復する使命が託されている。近年のDA・Mは台詞が少なく、身体に言語を語らせていた感があったが、それは私がDA・Mを見切れていないことの証でもある。

分野を乗り越え、常に実験を繰り返すDA・Mが、今回『ドン・キホーテ』を台本とし、より演劇的方法論によって公演を行った。演劇に拘ることで演劇の垣根を越え、演劇でありながらも演劇ではない何かに向かっているのだろう。大橋が演劇自体を追究することは、大橋が人間を探っていることに等しい。

DA・Mの公演の最大の特徴は、4回、5回と繰り返すことによって、全く異なる舞台を形成することにある。私は三日目を所見したが、今回の五回の公演はその都度に大きな変化を遂げるのであろう。実験に成功はない。演者はその度毎の自己に、忠実に向き合えばいいのではないか。そこに立ち会うことにこそ、見る者は感動するのである。(宮田徹也)