●宮田徹也   ●石田道彦


 

ここにいていい、いきていていい、証―
DA・M《アルク/Walking 2014》

宮田徹也(日本近代美術思想史研究)


今年もDA・Mの季節がやってきた。舞台には後方壁面下3-5cmに土が盛り上げられている以外、何もない。19時10分を経過した時点で私は目撃を開始した。その時、舞台には独り、小椎尾久美子が「歩いて」いた。

中島彰宏、原田拓巳、宮地成子、Hong Seung-Yi、Leung Tin Chakが舞台に入り、「歩き」続けていく。歩き方が各々であっても、走るまでに至らないので速度は約束されているのであろう。そして、「歩き」ながら互いに触れることはない。

触れ得ないことは重要である。個を尊重し、他者の領域に侵犯しないのだ。入り口はまだ閉じられていない。明かりも普段のままで、出演者の衣装も皆、普段着である。ここは会場として成立していない、成立する必要...が未だ生じていない。

HongとLeung以外が退場すると、入り口が閉められ、蛍光灯が点滅を始める。スピーカーからホワイトノイズが微かに聞こえ、Hongが《over the rainbow》を歌う。6人は舞台に入れ替わり立ち代わり登場しては退場を繰り返す。

すると個々の残像が生じ、いないことで舞台が成立していることを認識することが出来る。6人は雑踏の中を目的のために規則に準じて「歩く」のではない。「歩く」という意思だけが此処に存在する。

しかし、幼児の歩行には達していない。それが出来ればまた異なる視線が注ぎ込まれるのであろう。無言の歩行に変化が訪れ始める。原田は笑い、中島は床でのたうち、Hongは床に竦み、小椎尾は靴底を引き摺って鳴らしながら歩む。

「良くも悪くもありません」。宮地が朗読を始める。中島が手持ちのレコーダのスイッチを入れると、外国語のアナウンスが流れる。原田が宮地を抱え、境界線を突き破る。「助けて」、原田が小声で叫ぶ。点滅していた蛍光灯が落ち着きを見せる。

原田がHongを踏みつける。転がりながら笑うHongが立ち上がると、何事もなかったように6人は再び「歩き」続ける。中島が意味のない言葉を綴る。ホワイトノイズの音量が操作され、蛍光灯の点滅は影を導き出す。

音と光が潰えると、6人は立ったまま沈黙する。6人が舞台を降りると、空間だけが生き残る。6人は「再び」舞台を歩み始める。入れ替わりと立ち代りが続く。各々が異なる一輪の花を持ち、後方壁面に立ててその前に自らも立ち、並ぶ。

独りずつ、英語、フランス語、日本語、韓国語、中国語など、異なる言語を用いて自己紹介を行い、繰り返す。その仕草は両手を掲げて振り、笑みを零して前に歩むといった大げさなものになっていく。

6人は両手を挙げて見上げた姿勢で前に並び、そのまま後退して闇の後方壁面へ吸い込まれる。生のハーモニカが奏でる《happy birthday》が客席後方から聴こえる。スピーカーからホワイトノイズが微かに聴こえる。

右奥の天井ライトが光る。6人は左から右へ連なり、遠くを見ている。そして、歩むのではなく進もうとしている。スピーカーからマンボ調の曲が流れる。6人は進みながらも、独りずつ離れて子供のように駄々を捏ねては列に戻る。

6人は、何時しか客席右前にある転がしの照明に「歩く」ことなく到達した。中島が溢したラーメンを原田が啜り、宮地は中華鍋で靴を焙るマイムを始め、Leungはオレンジの皮を毟り、実を口に頬張る。小椎尾は袋に入れた小麦粉を膨らませ破裂させる。

いずれも「口」に関連する無償の行為である。アジア的楽曲は、スピーカーから消えては再び流れ始める。6人は「再び」歩き始める。Hongが「再び」《over the rainbow》を歌うとスピーカーからも《over the rainbow》が流れ、音量が極端に強調される。

曲が止まり、照明が止まり、6人も止まると公演が終了する。時計の針は20時18分を差していた。演劇は言葉に基づいている。無言もまた、言葉であろう。大橋宏はフライヤに「Arukuは、今、ここ、を、揺さぶり、かき乱す、束の間の肉体と精神の興奮・覚醒である」と書く。

公演中、6人は歩み、止まり、無償の行為を行い、再び歩き、進み、再び歩く。再び、が度重なるのは、いま、ここの状態を、常に更新しているからである。現状を革新するためには常に固定された自己を捨て去り、新たな局面に到達する必要があるのだ。

大橋はフライヤに続けて書く。「停止と再開を繰り返すドラマのないドラマ――フィクションに逃げ込むな、自己に安逸するな、思想に委ねるな――行ったり来たりの〈反復歩行〉が隠ぺいされた生を証していく」。

移り行く事象に対して自らを投じ、自らを変容させることによって思惟ではなく根源的な思考に到達し、それによって眼前にありながらも認識できない「事実」を掘り起こし、剥き出しの人間として対峙する。

人間が人間の尊厳を疎かにし自己の利益の為だけに大量に殺戮する悲惨な時代に対して、人間の自由を尊重し人間が人間であることを立証する武器として存在を始めた現代芸術の姿勢は、DA・Mの一連の公演に隠されていたのだ。

今回の《Aruku》が再演であったとしても、DA・Mの公演は、常に更新を続ける。足を一歩だすことよりも、足を一歩だそうと決意すること。この姿勢が、私達に勇気を与え、私達が「ここにいていい、いきていていい」証であることを忘れてはならない。
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石田道彦


意味の寸前で必死の踏みとどまりをしていた。その踏みとどまりに泣けてしまう。踏ん張るとはこんなことなのかと身体の望郷のような志向を感じた。途中、自己紹介が見事だった。聖もいた。大昔はやった意味の解体なんかとはちがう。意味の寸止めがセクシーだ。もしかして、芝居を見ようと思ってきても、大丈夫、芝居は自分のうちに醸造するものだから。このスピリッツを噛んで飲めばよい。