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無常を受け入れよ―
『夜がやってきてブリキの切り屑に映るお前の影をうばうだろう
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 宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

 DAMの今年の公演は、まとまりと充実が出てきた。去年に比べて個人が更に消滅している。その他の動作も行ってはいるのだが、主にゴム紐を爪先で引く原田拓巳、乳幼児の服をあやすHONG Seung-yi、杖で歩く中島彰宏、机を引き摺る小椎尾久美子と、総てが日常でも非=日常でも行われない「営為」である。そこには無意味であることの意味すら剥奪されている。

 それはつまり、表情を浮かべることにより表情を無化し、動作や身振りを一切排除することにも繋がる。ここにあるものは身体表現でも、言葉が内在化されている舞踏や狂人の行いとも振り分けられる。総ては人間の営みである「営為」である。四人は軽快なリズムの曲が流れても、その「営為」に変化が訪れることはない。四人は、無意味な言葉すら綴るようになる。

 思えば、第一次世界大戦の大量殺戮を眼にしたシュールレアリスト達は無意識から【自己】を引き出し、現実という【現=在】に闘いを挑んだ。第二次世界大戦後のポップ・アーティストは商業主義の中心地に居ながらも資本主義を嘲笑う。この動向は80年代のパフォーマンスに引き継がれ、そのカウンター・カルチャーとして「芸術のための芸術」を標榜するインスタレーションが蔓延したが、インスタレーションは資本がなければ成立しない。

 このような小文字の歴史の変遷を辿ると、【現=在】、我々は、虫けらのように殺されて然るべき状況に立たされていることを忘れてはならない。我々は何故3.11以後、シュールレリストのように【現=在】と向き合い、反省し、闘わないのか。批評と詩の危機は既に1930年代から起こっている。演劇、ダンスも同様に文化が存在する意義が失われているのだ。

 四人は反復する。「反復の力」とは1960年代末期にC・カスタネダが「我々の生活の塵を攪拌し、それらを表面へ浮かび上がらせるところにある」ことを指摘し、この思想をヒッピーが受け継ぎ、音楽の分野ではミニマル・ミュージシャンが80年代の資本主義中心文化に挑戦状を叩き付けた。この動向にはロックやロックを取り入れたジャズの動向も含まれる。「反復」に意味を見出してしまうと、主従が反転し、本来の意義から外れてしまう。

 四人は収斂し、同じように手を回して飛び回る。後方壁面に設置された蛍光灯が点ると、舞台には登場しなかったが、見えない存在として参加した大澤竜太と野井杷絵が前に出て70分の公演が終了する。19世紀末に欧米で開発された蛍光灯は、日本において敗戦後に実用化される。これは原子力と同様の歴史を孕んでいる。

「営為」の先に空虚がなければならないのだが、四人は到達していない。【現=在】、我々は自己をオブジェ=客体化し、主体を完全に抹殺せねばならない境遇に追い込まれている。この地点に到達することによって、我々は初めて始まりを迎えることができるのだ。我々の生きる先には虚無しか遺されていない。それが現実であるのならば、それでいいではないか。それを受け止め、それを受け入れ、それを全うするのが、我々の営為であろう。