2010冬新作公演 夜がやってきてブリキの切り屑に映るお前の影をうばうだろう February, 6-8 Proto-Theater |
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◎武藤大祐 d m _ o n _ w e 3月22日より
今年2月のDA・Mの公演は凄かった。4人がバラバラのルーティンワークを即興でひたすら持続するストイックな構成で、1時間が異様なテンションのまま過ぎた。ここまで身体を使い切った舞台はダンスでもここ最近見かけることができない。
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◎沈黙する神に向かって語りかける−待つこと
竹重伸一 (wonderland 小劇場演劇、ダンス、パフォーマンスのレビューマガジン 2010.6.03 掲載) この舞台は観客と共に、決して応答することのない沈黙する神に向かっても語りかけているように思えた。その意味ではDA・Mの仕事はS・ベケットの『ゴドーを待ちながら』に連なるものかもしれない。二年前の前作『Random Glimpses/でたらめなわけ』では映像や大量の椅子を使ったりしてまだスペクタクルな要素を多分に残していたが、今作はパフォーマーの肉体と空間との関係にフォーカスを絞ってよりシンプルでフラットな作品になった。そしてパフォーマーの動きも、特に前作では過剰な情念を感じさせた中島彰宏のパフォーマンスの変化がよく示しているように、よりニュートラルでイリュージョンや意味性を排除したものになっている。 その点でセリフのないこの演劇はポスト・モダンダンスに限りなく近付いているようにも思える。ポスト・モダンダンスが発見したものは訓練された特権的な肉体ではなく日常の肉体であった(実は舞踏が発見したものも同じなのだが、ここでは舞踏の話には敢えて踏み込まないでおこう)。そして舞台空間というものを日常と地続きの空間として捉え直すことで真の<今・ここ>を見い出そうとしたと言えよう。更に動きの意図的な限定と反復によるミニマリズム。この辺りの特徴は今作にも全く当て嵌まるものである。しかし私見では現在のポスト・モダンダンスは当初孕んでいたダンスの革命的価値転換を探求せず、結局その後ダンスという制度の中に取り込まれて社会との結び付きを失い、「ファインアート」になってしまったように思われる。現在の日本のダンス界においても黒沢美香を筆頭にポスト・モダンダンスの影響を受けたダンサー・振付家は一つのメインストリームを形成しているわけだが、残念ながら全く同じことが言えると思う。 男女二人ずつのパフォーマーはそれぞれ五つほどに限定された行為を無限に反復し続ける。上演時間は1時間余りだったが、それは単にパフォーマーと観客の肉体的限界が来たということを意味したに過ぎない。例えば今井あゆみなら、床の雑巾がけ、舞台中央の鉄柱に執拗に絡む、小さなテーブルをあちこち移動させながらその上で身体全体をバタバタさせる、イスラム女性のように白いスカーフで顔を覆う、上手側奥の壁に垂れ下がった布に触れる、煉瓦ブロックと戯れるという六つの行為からその場その場で一つの行為をランダムに選択しながら反復していく。四人の中ではやはり、劇団メンバーではない舞踏家の原田拓巳がやや浮いてしまっている。彼の肉体は存在するだけでどうしてもエロスや重さを醸し出してしまいニュートラルにはなれないからであるが、彼の異質感も演出家大橋宏の計算の裡ではあるだろう。そしていつものように四人はそれぞれ他者の行為には全く無関心で、ひたすら自分の行為に集中しているだけである。ただ今作では前半に二度、突発的に四人が同じ行為を始める瞬間がある。最初は床の雑巾がけで二度目は蝶々のように皆で嬉々として舞うのである。この二つのシーン、特に後者はこの意図的な無愛想さを貫いた作品の中で突発的な啓示のように訪れた美しいシーンであった。だが注意しなければならないのはそのユニゾンの美しさは本当に気付くか気付かないかの小さな漣に過ぎなくて、カタルシスとはほど遠いということである。 【写真は「夜がやってきてブリキの切り屑に映るお前の影をうばうだろう」から。撮影=中村和夫 提供=DA・M 禁無断転載】
八重樫聖 ■監修・演出 大橋宏
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