▲戻る

 
DA・M '08新作公演
Random Glimpses /でたらめなわけ


Review (竹重伸一『トーキングヘッズ叢書』No.35)

プロトシアター、0八年三月二十一〜二十四日★劇団DA・Mの公演を観るのは二回目(※前回:新人公演)だが実に六年半振りである。場所も同じ、彼らの本拠プロトシアター。出演者はその時の四人から都丸永子が抜け、外部から協力出演という形で大澤竜太と坂本夏海という二人の男女の学生が参加している。
 ブロトシアターはおよそ劇場の審美的な雰囲気とは程遠い、剥き出しの白い床のコンクリートと下手側で観客の視線を遮る黒い鉄骨の支柱が目立つ無機的な素っ気ない空間である。しかしこの空間自体が現在の演劇シーンに対するDA・Mの鋭い批評意識を表しているとも言えるだろう。居心地の良い空間で<今・ここ>の呪縛から解き放たれて思うがままに自己の想像力を解放し、戯曲が展開する時空に遊ぶということが演劇体験だと信じて疑わない観客にはおよそ耐え難い空間である。代わりにこの劇場で観客に要求されるのは、眼前の舞台で起こっていることを注視し、耳を澄ますことである。実際個人的にはここ数年そのあまりの舞台の空間性に対する鈍感さへの苛立ちのために、いわゆる演劇と称しているものから足が遠のきがちになっていたのである。DA・Mが戯曲やテキストを放棄した<即興演劇>というスタイルに拘り続けているのはそうした問題意識からであるに違いない。
 ところが難しいのは舞台から戯曲やテキストを排除すれば、空間性を獲得できる代わりに時間性を失ってしまうことだ。普通の演劇では言葉が舞台の時間性を担っている訳でそれがなくなってしまえば、唯一俳優に残された身体でそれを表現していかなければならない。しかしこれはダンサーに取ってさえ簡単に実現できることではないのである。
 私が最初に観た時にはこの点で大いに不満を感じた記憶があった。戯曲の牢獄からは脱け出したものの<今・ここ>という身体と空間の新たな牢獄に囚われてしまったように見えたのである。
 だが今回の作品では明らかに舞台が揺れ動く時間性を孕むことに成功していたと思う。これは一つには三人の中心となる俳優遠の成長によるものが大きいのだが、演出の大橋宏の身体を見詰める視線の成熟も感じた。
 冒頭は下手側に今井あゆみ、上手側に中島彰宏が日常的な衣装でいる。照明も客入れ時の蛍光灯がそのまま点いているだけである。今井は顔にたくさんの白いテープを貼り付けて絶えず不機嫌そうな表情で腕組みを繰り返し、時に下手側手前の壁にある縦長の鍍の前で自分の顔の表情を確かめる。ただ下半身が安定し過
ぎているためまだ苛々とした気分を「演じる」所に止まっているのが残念だ。一方中島の方は人を威嚇するかのように右肘を上げ気味にして終始揺れ動き、膝も曲げてガタガタしながらようやくの事で立っている。他者に対する攻撃性と怯えを抱えながら崩壊していく自我の恐いまでの見事な表現になっていて、先日の秋葉原事件の加藤智大容疑者の精神状態をスケッチしたかのような強烈なリアリティーがある。この二人に更に客席側から白の上下に身を包んだ八重樫聖が加わり、舞台をあちこちと速足で歩き回り続ける。
 三人は他者には全く無関心のままそれぞれの行為に没頭しているだけなのだが、時間が経つにつれて三人の動きがシンクロし出し、ある共通のギクシャクしたリズムと熱を帯びてくる。その熱は非常に不穏なものを孕んでいてカタストロフィーヘの期待をこちらに呼び起こすのだが、そうした安易なカタルシス的な解決に決して向かわないのがDA・Mの舞台である。
 この作品でもその後、三人の密度の濃いパフォーマンスを相対化するかのように若い二人が舞台に加わる。大澤は主に椅子に座って奥の壁を見詰め続け、坂本はやはり椅子に座って長い絵巻物のようなペーパーを広けていきながら、右手でひたすらドローイングを描き続ける。もう一つ二人の重要な役割が十六脚ある椅子の操作である。この椅子は前半三十分の三人の同時ソロの部分が終わると舞台一杯に並べられて、前後にずらされたり、倒されたり起こされたり、また脇にかたされたりする。
 作品の前半が三人の身体性を前面に打ち出していたのに比して、後半はその椅子が主役でありに椅子の動きが視覚的にも聴覚的にも舞台にリズムを割り出して映像も加わるなどめまぐるしくシーンが変化し、前半の動きのエッセンスを反復する三人の身体も急速に移り変わる風景の一部と化していく。ラスト、手前で若い二人が紙でできた人形とそれぞれペアのダンスを踊る中、上手側奥の壁の前に佇んだ三人は少しずつ後退りしながら単音を発して舞台は終わる。
 DA・Mの舞台はいわゆるフィジカルシアターというジャンルに属すると思うのだが、例えば解体社やOM−2と比べると身体に対する視線はかなり冷めている。身体を表現の軸に据えた時に普通クローズアップ
される情念やエロティシズムというものからは距離をおいていて、そういう意味では「薄い」身体だとも言えるのだが、この身体、記憶だけはたっぷり溜め込んでいるようなのである。つまりそれぞれの俳優のア
クションの背後に彼らの今まで生きてきた時間を感じさせるようになったということで、この点がこの劇団の成熟の大きな原因のように思われる。
 更に基本的には動きを各自のアイデアに任せバラバラに展開させながらも、俳優間に適切な距離を与える事に演出の大橋が成功している点も見逃せない。それは単に空間の中での物理的な配置の問題ではなく、心理的なレベルの問題でもある。一つの風景としてまとめる映画のようなフレームを発見したといってもいいだろうか。そう、この作品を観た後の印象は映画を観た後のそれに近いものがある。時間も空間も自由自在に伸び縮みするのだ。<今・ここ>という時空に絶望的に拘束されている舞台芸術において、これは驚くべきことである。
 こういう舞台を観てしまうと、普通のセリフ演劇というものが実は人間の身体というものをほとんど傲慢不遜なまでに不変・堅固なものとして考えているということに気付かされる。舞台の最初から最後まで、いつも俳優の身体は耐え難くも岩のようにどっかりと存在し続けている。しかし、本当に人間の身体というものをそんなにア・プリオリに信じていいのだろうか? 現代社会において人間の身体はもっと可塑的で脆いものではないだろうか? そうした疑問が浮かんでくるのである。
(竹重伸一『トーキングヘッズ叢書』No.35)