+そして海へ+




オレは海へ来ていた。


寄する波。帰る波。

そんな海の営みを、小高い崖にのぼり
飽きもせず、一日中眺めていた。



魔界の双頭・魔界の女帝・三竦み・・・
かつてそんな名で呼ばれた時代もあった。
だが記憶に留めている者は、もうほとんど生きてはいないはずだ。

あんなにオレを苦しめていた過去の忌まわしい記憶さえ、
ほとんど思い出すこともなくなった。
すべては泡と消えつつあった。
どれだけの永き時間がたったのだろう。もうオレにはよくわからない。



月が静かに昇る。
海、地平線、空。
すべてがひとつの色に染まる。
月が静かに昇る。


そっと頬に触れる手があった。
飛影。
永き時で、唯一不変だったもの。
オレの愛しい宝物。
「もう少し、こうしててもいいか?」
そう聞いたら、俺の頬をなでてわずかに微笑んだ。


別れが近づいている。


躯軍のシンボルだった、移動要塞百足。
オレの妖気を媒体に、生ける砦だった要塞。
しばらく前に、とうとうその身を静かに横たえた。
オレ達は住処を失った。

急速に失われていった膨大な力。
もともとアンバランスだった肉体は、
力を失ったことで維持することが次第に困難になり、
次第に身体は衰えていった。


寄する波。帰る波。
海の胎動。大地の脈動。

とっさに、自分の右手首を押さえる。
ひんやりとした金属の感触が伝わる。
この肉体は、とっくに鼓動を止めてしまっているのに。



俺達は百足を失ってからというもの、こうして放浪を続けている。
今日も躯の気紛れで、こうして人間界に来ている。
そして、一日中こうして海に向かっている。

躯にかつての力はなくなり、
最近は動くのもままならないようになってきている。
アイツは、それを見せないように振舞っているが・・・。
誇り高き女。俺の愛した女。
例え力を失おうとも、その崇高さはなにも変わっちゃいない。

だが・・・。


別れが近づいている。


「人間界の自然は、総てを受け入れるんだな。空も、風も、雲も、海も・・・
すべてに優しい。魔界の自然とは正反対だ。
魔界は総てを拒む。そして強者が生き残り、弱者は息絶える。
過酷な世界だ。そしてオレ達はずっとそれに打ち勝ってきた。」

躯は、飛影に静かに語り始めた。

「人間たちは、この海を『母』と呼ぶこともあるそうだ。
総ての生命は、海から生まれたとか・・・。
最初聞いたときは、人間臭いロマンチシズムだと笑い出してしまったが
こうして見ていると、わかる気がするな。」

「なかなか面白いことを言うんだな。貴様がそんなことを考えるとは。」

「飛影・・・。」

「なんだ?」

躯は、穏やかな顔をしていた。
瞳はまるで目前に広がる海のような深さを湛えていた。
溺れてしまいそうな、その瞳。

「わかるだろ?もうオレは永くない・・・。
この母は、オレにも優しいと思うか?」

「何を言っているのか分からないな。」

俺の身体に戦慄が走った。躯は何を言おうとしている?
躯は、俺にゆっくりと身体を預けた。

「お前に逢えなくなることが・・・こんなに・・・こんなにつらいなんて・・・」

「さっきから何を言っているんだ?・・・泣いているのか?」

「飛影・・・。」

熱い抱擁。
数え切れないほど交わしてきた口づけ。
溢れる気持ちを込めて、深く深く・・・。


ドンッ!!!突如衝撃が走る。

「ムクローーーーーー!!!」


咄嗟のことで、訳が分からなかった。
躯は俺を突き飛ばし、崖からその身を躍らせたのだ。




ぐんぐんとその身を堕としていく。
オレは完全に海に包まれていた。
大地の鼓動が聞こえる。
太古の昔から刻まれていたであろう、時の刻印。

受け容れてくれ。総てを。
過去も未来も現在も。
総ての罪を洗い流して。

お前が生命の母を名乗るなら、この哀れな女も受け止めてくれ。

だが、何かが足りない。
オレにはもう自分自身で鼓動を刻めないからか?
手首を押さえる。忌々しい金属の感触。


『躯・・・何処へいく?』

懐かしい声が聞こえる。ここで聞けるはずがないのに・・・。

『飛影、お前も来てしまったんだな。道連れにする気はなかったのに』

『貴様の気紛れには付き合いきれん。これで終わりだからな』

オレ達はしっかりと抱き合い、手を結び合わせた。
二つの鼓動が重なり、波動となって海を震わせる。
細かな泡が周りを包み込み、交じり合いやがて・・・。


ひとつに溶け合った。


海はそんな二人を、優しく愛でた。
いつまでもいつまでも。
海の営みは、今日も休みなく続く。

柔らかな母の腕に抱かれ、
オレ達は永遠の眠りについた。

いつの日か、共に天へと昇るために。


−END−