帰りのことを考えてplatformを撮影。
4の後ろに終点の駅名が見えています。
[右] 駅前の広場から見た教会の塔。父親がorganを弾いていた場所はここらしいと直感しました。Pauも聖歌隊に入っていたはずです。たまには、父親の代演もやっていました。 |
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右上の矢印が、Pau Casalsの生家を指しています。この標識を見た後、しばし道に迷いました。 |
C. 迷いつつ生家(Casa Nadiua de Pau Casals)へ
駅から5分ほどのところのPlaca Novaに彼の像が建っていて、その脇に生家があるという情報は事前に手に入れていました。ただ、駅から徒歩5分の半径でも、どの方角かがわかりませんでした。生家はSanta
Anna 4番地という情報があったので、ともかくその通りに出てみれば何とかなるだろうと判断。TomTom (GPS navigator)をonにして歩き始めます。
突風と言いたいくらいの風が吹きまくり、紙の地図など持っていたら飛ばされてしまう勢いでした。結局、かなり北に行きすぎて戻ったところで彼の像を発見。生家とおぼしき建物も、すぐ脇の4番地に見つかりました。さて、ドアに何か貼り紙がしてあり(読めません)、もしや休館中かと不安が募ります。試しにドアノブを触ってみたら施錠されていて人の気配もなし。予感的中かと思ったところへ、出勤してきたばかりとおぼしき女性が鍵を開けてくれました。今にして思えば、開館時刻の10時直後だったのでSpain流を乱した可能性も。ここは10-14/17-19しか開いていないので、開館直後を狙ったわけです。 |
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Santa Anna通はこれと、証拠写真を撮影。この時点で相当行きすぎてしまっています。 |
方向転換してPlaca Novaに到達。彼の像があります。 |
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開館時刻を過ぎているのに人気のない建物。でも番地は間違いなく4。 ここだ! |
このドアは当時のままと聞き、記念に撮影。一階は靴屋さんだったそうです。 |
"入ってもいいですか?"と英語で質問すると、何語かわからない返事があって、ともかく中に入れてもらえることが判明。近くの博物館で入場券を買うという事前情報とは違い、その場で入場券を売ってくれました。さんざん道に迷いつつも来た甲斐があったというものです。
先人も書いておられたとおり、丁寧に説明してくれる言葉の中にところどころ混じる英語と、これまでCasalsに親しんできて習得した知識を総合することで、どうにか説明の内容が頭にしみこむ感じでした。Pauを慕って訪ねてきた異邦人に、少しでも何か伝えてやろうとする熱意が上回ったと言えるかも知れません。館内を一緒に歩きながら解説してくれて、ときには彼の天才ぶりにもしっかりした賞賛がありました。
Pauは11人兄弟だったが育ったのはわずか3人とか、さらに、1973年は大変重要な年で、3人の偉大なPau(Pablo)が亡くなったとの説明。CasalsとPicassoは知っていたのですが、もう一人に思い当たらず、Nobel賞受賞者のPablo Nerudaだと教えてもらいました。
館内は撮影禁止ですが、木製の乳児用bed(足で揺らして見せてくれた)など、しっかり記憶に刻んできました。ここで見た単弦の楽器carbasseta
(瓜のような実をくりぬいて弦を張ったもの。父親が知り合いの床屋に頼んで作ってもらった)は複製で、本物はSant SalvadorのMuseuにあるとの説明。”これからそこに回るつもりです”と言ったら、大変喜ばれました。彼の父親がオルガンを弾いていた教会にも寄りたいと思い道順を訊いたところ、関連する場所を網羅した地図があると願ってもない返事。これが日本にいるうちに手に入っていたら、どんなに旅の設計が簡単だったろうと思いましたが、ここでもらえたおかげで後半がずっと楽になりました。 |
壁の表示板。
[右] Pauの背中をかすめて教会に向かっているところ。黄色いのは郵便ポストです。試しに絵はがきを投函してみましたが、届くかどうかは運次第(と考えよと旅の本に書いてありました)。
10日ほど掛かったものの、無事に日本に届いたことがあとからわかりました。 |
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説明のなかに出てきた人の塔(これは二次元)。
どうやらこの土地の風習らしい。 |
ほら、やっぱりさっきの塔が問題の教会だった。 |
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教会の中へ。 |
教会前の庭には、塔を指さす親子の像。 |
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看板を撮影したもの。英語としては少しおかしいけれど、言いたいことは伝わります。 |
墓地を目指して東に向かいます。人の立っている辺りから線路の下をくぐる地下道が始まります。 |
川を渡ります。地図によれば、Torrent del Lluc。もうすぐだ。
[右] Cementiriに到着。でも門は施錠されています。
掲示を眺めて推理。火曜日は午前中は開いてなくて、1500-1730だけと言っているらしい。月曜日は終日入れないから、それよりはマシか?
まだ1120、ここで待つには長すぎる...。
少し迷った末、先にSant SalvadorのMuseuを訪ねて、ここに戻ってこようと決心しました。さっき乗ってきたR4の終点の駅まで移動する必要があります。 |
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D. 安直にMuseu Pau Casalsへ
下調べしていたR4の時刻表を見ると、次の電車は1127発。駅に急ぎましたが、こんなときだけ(?)時刻表通りの運行で、わずかなところで間に合いませんでした。ここで次の電車まで一時間待つ気はないので、駅前のtaxi乗り場へ。
すんなり行き先を理解してくれて、妙に機嫌よくなった運転手が20分ほどでMuseuの前まで連れて行ってくれました。1127発の電車で移動し、Sant Vicenc de Calders駅から歩くよりも速かったでしょう。料金は12EUほどでした。
こちらの開館時間は10-14/16-19なので、12時に入れれば十分余裕です。事前検討では、El Vendrellで手間取ってしまったら16時以降の枠を狙うしかないと覚悟していました。幸いにも、ここの受付は十分に英語が通じました。見学に関する注意事項の説明の後、”ここは彼の別荘を改造したもので、生家は別の場所にある"との説明。”私は今朝そこに行って来ました”と話したら、”神だ”と讃えられてしまいました。
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運転手が、"ほら間違いなくCasalsだろ"と、これを指さしていました(発言内容は推測)。 |
Museuとは道路の向かい側にあるAuditori。 |
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念の入ったことに、隣にある野外演奏もできる広場の名前は、Placa J. S. Bach。
舞台の奥に像が立っていました。確かに台座にはBACHと刻んであります。
学生の団体が先行していますが、他に見学している人は少なく、じっくり写真や楽譜の展示を見たり映像に親しんだりできました。館内は撮影禁止ですが、なぜか愛用の楽器の画像がcameraに残っていました。
圧巻だったのは、”なぜ私はイギリスに行かないか”という彼が英語で投稿した新聞記事などの展示。フランコ政権への強烈な批判が伝わってきます。また、プラド音楽祭で音楽家たちが彼に贈ったBachの楽譜にはたくさんの演奏家の署名がありました。判読できたのがBruno Walterだけとは、ちょっと寂しかったですが。
出口の手前にノートが置いてあったので記帳してから建物の外へ。
展示と中庭、そこから出られる海岸を一巡するのに約1時間を費やしました。黒いこうもり傘を手にしたPauが歩いていそうな砂浜でした。Caféがあるとわかったので、ここで給油して次の行動に移りたいと思ったのですが、まだ開店前で料理は出せないと言います。待ち時間をここで過ごすのなら、飲み物なら何とかしてあげるとたぶん言われて(ここではあまり英語が通じませんでした)、”ではsolo(espressoのこと)を”と注文。
喉を潤して一息つき、支払いをしようとしたのですが、金額が提示されません。どうやら営業時間前に売り上げがたつのは問題があるようでした。”いくらでもいいよ”と言っている気がしたので試しに1EU出してみたら、”OK,
OK”となって退散。 |
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なぜかcameraに残っていた愛器 |
伊勢さんの著書と記念撮影 |
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中庭から眺める地中海。ここをこうもり傘を持って散歩するPauの写真は有名です。 |
きれいに手入れされた中庭。Museuは右側、cafeは左側。 |
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左奥がcafeで、入り口は、ちょうど手前の糸杉の影になっているdoor。 |
浜辺側の道路に出たところ。 |
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ここからR4の駅まで約30分歩きます。道順はそう複雑ではないし、生家でもらった地図の裏面がこの地域の地図だったので心強いことこの上なしです。天気がよく、日差しが強いのですが、風が相変わらず強くて帽子をかぶっていられません。どこか食事ができる店があれば寄り道しようと思いながら、駅を目指します。
だんだんわかってきたのですが、路線の終点というわりには人も少ないし、目立った店もなく、別荘やhotelしか目に入りません。朝降りたEl Vendrell駅周辺の方が遙かに賑やかでした。
結局、そのまま駅[左]に到着。時刻表によると40分以上待たないといけません。Museuの中を歩き回り、そこから30分歩いてきたので、時間つぶしの散歩をする気にはなれず、ベンチに座って待つことにします。
ここでも紙幣を受け付けない券売機に遭遇したものの、今度は隣の駅までなのでcoinが足りました。
この駅にはR2とR4が入っているので、乗り違えないように注意が必要です。慎重に掲示を確認して乗り込みました。
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駅での待ち時間。周囲を観察していると、駅の一角に閉鎖された空間を発見。いかにも構内のcoffee shopがつぶれた感じだなあと思いました(開いていたら入れたのに)。案の定、ガラスにdoughnutsのシールを発見。よけいひもじくなりました。
[右] 始発駅なので、この電車がどこ行きかの掲示が出るのを待って、早々と電車に乗り込みます。 |
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E. Cementiriへ
一駅しか乗らないので、5分で到着。改めてCementiriに向かうのですが、先に昼食をすませようと考えました。駅の周辺で午前中開いていた店もなぜか軒並み閉まっていて戸惑います。かろうじて肉屋さんが兼業しているようなLa
Milaという店を見つけ、全く言葉の通じない状態でしたが、現物を指さすことで注文を終えて食事にありつきました。
正確を期するために帰国後追加の調査。まずは、店の場所を地図に追記。次に何の店か特定を目指します。carnisseria-xarcuteria-degustacioと書いてあるのですが、最初の単語は辞書によれば"大虐殺。"そんなわけない、きっとbutcherで肉屋だろうと推理して、別のスペイン語辞書を当たったら、spellの似た"肉屋(carnicería)"が見つかりました。やはり、本業は肉屋さんです。次の単語は、delicatessenで業態とよく合っています。最後は、"味わい?" その場で食べさせてくれるからでしょうか? ここで根気が尽きました。 |
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元気を取り戻して再びCarrer d’Apelles Fenosaを東へ。
確かに門は開いていて、あとはPau一家がどこに眠っているか探すだけ。幸い、生家でもらった解説書に墓石の写真が載っていたので、あまり迷うことなく見つかりました。
降り注ぐ日差し以外、周囲は静まりかえっていて、ここを終点にした今日の行程は正しかったと確信しながらしばらく立ち尽くしていました。 |
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この日はよく歩いて、2万歩を優に超えましたが、これまで頼りにしていたTomTom(PND)があまり役に立ちませんでした。
現在地はちゃんと表示されるのに、行きたいところへの経路表示がうまくありません。突然反対向きに歩いていると指摘されたり、駅が見つけられなかったりするのです。地図dataは出発前にupdateしてきたので、情報が古いはずはありません。何より歩いているところは十分な田舎で、何年も前から地形も道路も変わっていないような土地です。さらにmemory効果のせいか電池の消耗が早くて、一日使い続けられない状態に。
結局のところ、BackupのつもりだったWiFi router(レンタルして携行)とiPad2を組合せ、地図のapplicationを動かす方が遙かに有効でした。画面も大きいし、経路検索もできるし、どうやらGPS専用機の時代は終わってしまったようです。
[お断り] 空の色がさえないとの指摘をいただきそうです。実は、EFS 18-55mm STMに適合する口径のPLフィルタを旅支度に含めていませんでした。 |
あとは帰るだけです。程なくR4の市内向けの電車が来る時間でした。Sant Vicenc de Caldersから乗ってきた電車の一時間後の便ということで、すっかり時刻表に慣れました。
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旅の最終日。帰国便に乗り継ぐために空港を歩いていたらPauに再会。 |