--Hildegard des Sees--






歌声が響いていた。

今夜も満天の星空は湖に落ち、揺れる水面へ眩いばかりに散りばめられている。
何年と過ごして来た普段と変わらぬ夜と思っていたが、今日は少し違うようだ。
山の深くであるこの場所を訪れる者など久しい。ましてや歌っているなど。

歌声の主は何者だろう。ここに来るのは粗方、旅人か迷い人と相場は決まっている。野山は人里と離れ道らしい道など存在しないから。
そしてふと迷い込んだ者と知り合うのだ。大概は声を掛けただけで、期せずして驚かせてしまうのだが。
ただ話を聞きたいだけなのに。
稀に受け入れてくれる者がいる。孤独に過ごす歳月の中で彼らの存在には感謝するばかりだ。

今日のヒトもそうなってくれたらいい。歌は好きだ。今は自分に聞かせる事しかできないでいるが、嫌いになることなど一切なかった。
このヒトとは歌の話ができそうだ。心に淡い期待を抱えながら、声が聞こえる対岸へ向かう。

静かな星明かりを受け、彼女がそこにいた。銀の長髪をなびかせながら歌う彼女も、白い狼だった。
白狼の姿を見たのはいつ振りだろうか。自身も白狼ではあるが彼女はきっと、違う。
もっと旧い血族ではないか、彼女が使う言葉の歌は生れた村にはなかった。

目を瞑り空に歌う姿は、祈りを捧げていると感じられた。高音から舞い降りて来る歌唱は地のように確かな声質をしている。
しばらく隣で聞いていた。歌を止めるのはもったいなくて、声は掛けずに彼女が歌い続ける限り聞いていたくなった。

歌は、湖に映し出される星模様が次の盤面へ移るのに十分なくらい続いた。
長編の物語を歌っているのだろう。内容は一つとして理解できないが、個人の情緒を歌うには長すぎるから。
ほどなく、彼女は歌い終えた。すっかり聞き入っていた。ビブラートと一緒に心震えていた。細く終焉する声に切なさを覚えた。
声を掛けるなら今。良き歌を披露してくれたからには――本人はそんなつもりなどなかっただろうが――なにか称賛を贈りたくなった。

「ねぇ、アナタ」

閃光が喉元に煌めいた。同時に彼女が遠退いた。彼女は声を聞いた瞬間に後ろへステップした、その右手にあるナイフの存在が星明かりに眩しい。
鞘は彼女の左腰に、つまり反応が追いつかないほど素早くナイフを抜いたと言う事。そして今見た閃光だ。

「ちょっと、危ないじゃない!私じゃなかったら死んでいたぞ!」

瞬時に喉元を切り、距離を取った。電光石火とはこのことを言うのだろう、早いなんて物ではない。
遅れてようやく理解ができた。一方で彼女の方が状況を飲み込めない様子だ。警戒心を露に目は鋭く、体は低く構えている。
当然かな、早いところ説明して危害など加えないと理解してもらわないと。毎度の事であるがいつも大変なのだ。

「急にごめんなさいね。でもアナタの歌がとても素敵だったから、どうしてもお話したくて」

平然と喋る姿に腑に落ちないと言った表情だ。それもそのはず。
この湖にいるおばけである、と彼女へ説明した。依然ナイフを固く握りしめている。彼女の目付きは驚くほど冷たい。
すぐには信じられない出来事を受けて混乱しているのかもしれない。でもありのまま受け入れてもらう他、術がない。
喉元をかっ切られて平然としている生き物など存在しない、そう、生きていないんだ。これは理屈じゃない。だけど。

「怖がらないで、私は魔じゃない。なにもしない」

魔じゃないんだ。生来から、未だに繰り返している言葉だった。口にして、また辛い思い出が脳裏に蘇り、場面ごとに煌めいた。
そうだ。私は魔じゃない。私は。

「私は、ヒルデガルト」


金属面が擦れる音が聞こえ、それで彼女がナイフを仕舞ったことがわかった。
警戒を解いた。一歩歩み寄ってみても離れたりしなかった。目付きも凍てつくような冷たさは消えていた。

「……いつから聞いていた?」

歌声と比べとても落ち着いた声色。聞こえ始めたのが歌い始めだったなら、もう大部分を聞いていたと思う。
言葉がわからなかったけどそれはスキャットのつもりで聞き、とても素晴らしいものだった。

言うと彼女は複雑な表情を浮かべ、視線を落とした。憂える顔が綺麗だった、と申し訳なくも思ってしまった。
聞かれたくなかったのか、しかし責めることも問い詰めることもなく彼女はそのまま名乗った。
このせいで謝罪するタイミングを失ってしまった。彼女がそうさせなかったのかもしれない。

「私はヴィクトリアだ。歌の事、褒めてくれてありがとう」

真っ直ぐ向き直った時にはもう表情は晴れていた。流石にこちらと同様に呪詛となることはないだろう、しかしこの歌の秘密は気に掛る。


「あなたも旅人でしょう、道に迷ってここへ来たのかしら」

旅人は皆向かうところがある。羨ましいことだ、行くところもその為の足もあるのだ。
だからか決まってそのヒトの目的を聞く。それを皮切りに見聞きしたことを順々に話してもらえるようになるのだ。
外の話は面白い。ここではない、遠くに想いを馳せながら聞くのが楽しい。
湖を眺めながら、倒れ木に並び腰掛ける。

彼女には探している物がある。それは外の世界ではよく知られているようだが初めて聞いた。
なんでも、集めれば願いが叶えられる代物だとか。ヴィクトリアは何を願うのかしら。
聞いてみたけど、そういうつもりではない、詳しい事は秘密にしたい様子だった。

自由に動き回れるようになりたい、日頃の願いもそれなら叶えられるのかな。
呟いた途端に彼女は、自分もさほど自由な身分ではないと言い出した。
この湖に繋がれているのと比べればはるかに自由じゃないか、すると。

「物事に縛られている内は自由でいられない。私も、全てを終えない限り」

そういうものなのかしら。物理的にしがらみがなくても精神的に開放されないでいるというのは、あまり考えた事はなかった。
ならば。探し物の件が終わったらそれを頂けないかしら。
そうすればヴィクトリアは用件から解放され、願い事は私が使えば良いのだ、一石二鳥。
このアイディアに彼女は少しだけ、笑った。

「良いかもな、確かに私は願い事をするつもりはないから」

頬が緩んだ顔は同じヒトが浮かべる表情かと思えるほど、威嚇された時との差に驚いた。
こんな穏やかな顔もするんだ、思う一方で先程の声を掛けた時の反応を鑑みて、柔な暮らしをしてきたわけではなさそう。

何がしたい?考え事をしていたから上擦った声で返事してしまった。願いが叶ったならどうする、彼女から質問だ。
最初は里帰りをしたいかも。もちろん今まで聞き及んでいた場所へも行ってみたいが、真先に思い浮かんだのは故郷だった。
生まれ育った村の話を始めてからは、言葉少なと思っていた彼女が、もっと聞きたいとばかりに次々尋ねて来た。
険しい渓谷にあること、双子の妹がいること、生来から足が悪かったこと、それが理由で魔として扱われ続けた事、ここに至ること。

話し終えた時には東の空は明るくなり始めていた。簡略に済ませたつもりだけど、そういえば彼女の歌を全部聞いていたから時間はかなり経過していた。
つまらない身の上話だと切り上げようと思っていたのに、彼女があまりに真剣な目付きだったので結局最後まで話していた。
歌い手の家系だった事を話した時なんか、歌って欲しいとまで言われ戸惑った。
今はもう聞かせられない、説明しても納得してくれなかった。さっき勝手に聞いてた事を根に持ってるのかも。
流石に呪詛となるならば聞かせる相手は選びます。

空が藍色のグラデーションをしているのを見て、そろそろお暇しよう、彼女は言う。
ちゃんと見送りするにも丁度頃合い、まさか丸一晩語り明かそうとは思わなかった。
そのせいで一睡もできなかったなと話すと、退屈せずに済んだと逆に感謝された。
何、退屈になると歌うというのか。しゃんと歩き出す彼女からは眠気というものを感じられない。
旅人というのは総じてタフなのかもしれないな。


湖を背に、比較的藪が開けた場所を案内する。ここから数十メートル程度ならばよくよく見知ったものだ。
同時に限度も熟知している。この辺りならば境界はあの、周囲の物よりも蔦が多く絡みついた木。
足を止めると――正確には鎖により引き止められて――彼女が横に並ぶ。

「では、私はここまでだ」

ピンと張った鎖を見せる。額に魔の焼印を押されてからは湖に縛られ、一定距離までしか離れる事はできない。
もっとも脚が不自由だった生前と比べれば行動範囲は拡大したと言える。皮肉な話だが、死んでから色々と動けるようになったのだ。

何も言わないヴィクトリア。じっとこちらを、正確には額を見ていた。睨むように。
しばらくそうしていると彼女はそっと、焼印に触れた。哀れんでくれているのだろうか、視界には丁度左手首から覗いている紋様がよく見えた。
幾つもあるしなやかな短い線は太さを強弱させ、複数の円に絡み合いながら複雑な形を描いていた。ただ特定の絵柄を表すにしては途切れ途切れ。
それが、目の前で光り始めた。深い黒が次第に浮き立つようになり、間接照明のような白く柔らかな光を放ち始めた。

鎖が緩んだ。顔は動かせないがさっきまで張っていた鎖は、一歩も動いていないのにも関わらず感触が消えた。
これなら。恐る恐る踏み出してみる。一歩。そして体重を前の脚へかける。行った。行けた。蔦の木より先へ、二歩、三歩、前に。
何が起こっているのかわからない、こんなことは初めてだ。しかし彼女が何かしらの術を行使しているのはわかる。
このまま望むところへ、遠くまで行けるようになるのかもしれない、だが――


勢いよく首根っこを引っ張られ転げ回った挙句、藪に突っ込んだ。予想はしていたけど、彼女の手を頭から離した途端にグッと引き戻された。
やっぱり、術の影響下でしか境界は越えられない。それは彼女に負担を強ることになるだろうな。それに。
彼女は後方へ弾け飛んだこちらを見ると、呆気に取られた様子だった。
小さい悲鳴を残し草むらへ飛び込む、それは確かに今起きた事。事態を把握した彼女はゆっくり歩み寄って来る。その間に抜け出し立ち上がった。


「その力は、今生きている者に使って」


死人には贅沢過ぎるから。傍へ来た彼女に告げた。とてつもない力と優しさに包まれた感覚があった。
折角人を救える能力を持っているのだから何も、おばけまで救う事もないだろう。
そう感じて彼女の力を断る。それにちょっとだけ怖かった。
唐突に訪れた「自由」というのは、箱庭世界に暮らしている身には未知数過ぎた。

「……そうか」

それ以上は何も言わない。変わらず落ち着いた口調で言い放つ彼女は、無表情のまま目を細くした。
そしてまた憂える顔を見せたが、その時落としている視線の先に自身の左手があるのが見えた。
初めに見た時もきっとそうだったのだ。これが彼女を縛るものと直感した。

段々、彼女が霞んでいく。いや、本当に消えかかっているのは自分の方なのだが。
朝が近くなり存在が薄れて来た。おばけというのはこういった部分が不便でならない。

「私、日中には消えてしまうの。でもまた夜になれば姿を表すから」

良ければまた来てほしい。こんな寂れた山奥への来訪を願うなど不躾だが、伝えずにはいられなかった。
終わらない時を延々と過ごすのは退屈で、寂しい。慰みを求めるようで悪いがでも、動けない身としては外の世界の話がとても興味深いから。
近くまで来たら必ず寄る、彼女は迷いなく答えてくれた。それが嬉しい。

「道中、あなたを縛るものの解き方も探してみよう。それと……」

歌を聞かせたくなる相手も。本当に表情の変化が小さい彼女だが、その皮肉を聞きこちらがついニヤけてしまった。
この顔は果たして見えただろうか。消え入りそうな体と共に意識も薄れていく。

足元にパサ、と何かが落ちた。そういえば木の実で編んだネックレスを持っていた事を思い出した。
実体が保てず持っていられなくなったのだ。先に渡してしまえば良かったな、などと思い返す。

消えゆく意識の最期に、彼女がネックレスを拾う姿を見た。
































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南都 絹子(みなみと まさね)様宅のヒルデガルトさんを気に入って。
ツイッターでオリキャラ紹介を受け一目惚れ、お話を書かせて頂きました。
またウチの連中を訪問させてみたいです。

みなまささん、ありがとうございました!