リバージュ・ルージュは海水浴場として賑わいを見せる場所だが、ひとたび時期を過ぎればここを訪れるヒトもまばら。
だから敢えて人気のない今を狙い、ミカエル・ザ・ウェジーは自身のお気に入りスポットを独り占めするのである。

勤め先であるバー・キルシェからの帰路に立ち寄る。店の喧騒と慌ただしさから離れられるこの一時が好きなのだ。
時刻は深夜から早朝と呼び名を変える頃。閉店時間は朝方ではあるもののまばらで、今日は比較的早くに終わり「エピローグ会」も程々に店を後にした。
そうしてゆとりを持ちひとり、ここで落ち着いた時間を過ごす。太陽もまだ登らない闇空に、低く満月が水平線へ傾いている。

さざ波以外目立った音のしない、静かな世界。
多忙な日々の中の、たまの休息。潮騒が心の波をなだめてくれる。


暫し月夜を眺め足を止めていると、声が聞こえた。いや、声と一口に言えどもこの種は、歌声。
誰かが歌っている。自分だけがここに居ると思っていたミカは、一人きりの世界を崩された残念な思いと、歌声の主が何者かの興味が同時に湧いた。


ベイサイド・ロータスは綺麗な海を観光資源として利用し発展した港町である。

別段町で見かけない人物が居ようとも、それは観光客として簡単に扱う事が出来る。
しかしただの観光客が、この時間・場所で歌うものか。
「普通ではない」それだけを心に留め、声のする方へ向かった。

やがてその人物を見つけた。
波間に揺れる光と同じぐらい銀色をした髪の、狼。

歌声は非常に伸びがあり、印象は涼やかかつ力強い。女声が持つ魅力は今眺めている景色とマッチし、気付けば聴き入っていた。
歌詞は聞いた事のない言葉だ。きっと彼女の母語なのだろう。だが音色が「観える」今はその音楽の世界へすっかり引き込まれていた。

一人の聴衆として彼女を観ていた。彼女もここに誰も居ないと思い込みながら歌い続けている。
だがふと目が合った。目鼻立ちがはっきりした綺麗な顔。
歌声の主はミカの姿を見るとすぐに歌を止め、踵を返し海岸線の向こう側へ消えていった。

声を掛ける間もなく、称賛すら送れずに彼女は立ち去ってしまった。
あまりヒトに聞かれたくなかったのだろう、少しバツの悪い気持ちを抱いた。
あれだけの歌唱力、もっと自信を持っていいだろうに。
そう思う一方で歌を辞めた自らの事を鑑みた。心境がわからなくもない、だから盗み聞きしたようで悪い気がした。

後日また出会えたら、謝罪をしよう。


翌日もキルシェは常連客で賑わっていた。
客の好みも把握し座席数も30程度とはいえ、ウェイターは自ら一人のみであるため慌ただしく動き回らなくてはならない。

店はマスターのヘレス、バーテンダーのシェリーとの三人で切り盛りしている。
経営自体に余裕のない今はこの忙しさは致し方ない。この状態で何とかやってきているのだ。


ベルが鳴った。出入り口の扉に釣り下げてある来客を知らせるベルだ。
今度は誰が来た、常連の顔を思い浮かべつつ目を向けるも、そこにあったのは初顔。

昨夜の歌い手だ。

扉を閉めると彼女は真っ直ぐカウンターテーブルに付き、マスターの正面に座った。

「いらっしゃい、初めて見る顔だね?」
「ああ。ここのチェリーカクテルが一級品と聞いてな、それを頼めるか」

平常時の声の印象は、芯が感じられる落ちついた声色だ。
早くも再会ができた。ただ、声を掛けたくても注文の品を運ぶので手一杯な今は、ヘレスとの会話に耳を傾けるのみ。

「この町へは観光で来たの?」
「いや、探しものだ」

へぇ、それはどんなもの、この町にあるのかい。屈託のない彼の性格柄、遠慮なく色々と質問を投げかけていた。
横ではシェリーがカクテルをシェイクしている。それに集中している風を装っているが、二人の会話に耳をそばだてているのは明白だった。

「大事な、大きく綺麗な宝石なんだ。マスター、何か知らないか?」

唸るヘレス。そういう物があるなら、小さなこの町では評判や噂があっという間に広まるだろうね。
それを彼が耳にしていないと言う事はつまり、探し物は残念ながら無い。
酒場の店主とは得てして情報が集まるもの。人の出入りが多く客との付き合いがある立場ゆえに。
彼女も知った上で頼ったのだ。

カクテルが完成しグラスへ注がれた。
それを口元へ運ぶ。一口含み、味わう時間を経てから飲み下す。
表情そのものは変化しなかった。だが落ちついた雰囲気から「悪くない」評価を貰えたと感じられた。
シェリーは人知れず安堵していた。自作カクテルがどう評価されるかは、彼女にとっては自身を評価されるに等しいからだ。

注文を運ぶ際にカウンターテーブルの近くへ来れた。これを機会に彼女へ声を掛ける。

「昨日はその、悪かったよ。あまりヒトに歌を聞かれたくないクチだろ?」

何も気にしていない風にまたチェリーカクテルを口に運ぶ。
その間言葉は出て来ない。少しだけ口を空にするのを待ったが、

「なぁウェイター、あなたは歌わないのか?」
「え、俺?俺はもう……」

返答は来ずに質問が出てきた。
ステージシンガーを兼任してこのバーに勤めているが、元々月に数える程度しか歌わず、今に至ってはもはや歌う気すら失っている。
そうか、意外と綺麗な声をしているのにな。確信を持って語りかけてくる彼女の言葉が、段々怖くなってきた。

「では、あなたの好みの銘柄は?」
「ロシュケンコルヴァだけど、あれはちょっと度数が……」
「それでいい、持って来い」

甘いチェリーカクテルと打って変わって度数のきつい酒を注文とは。
どういうつもりか、掴めないままもオーダーはオーダーだ。言われた通りに持ってくる。

「ウェイター、私は『あの歌』を聞かれるのが我慢ならないだけだ」

『あの歌』とは昨晩歌っていた、特殊な歌詞の歌の事だろう。
その曲に彼女は特別な感情を抱いている。
鋭い目つきを更に鋭利にし、共に言葉を向けてくる。その態度から並々ならぬ強い想いを感じ、尻込みする。

「歌を聞かれる事自体は気にならない、あなたと違って。そうだな……」

持ってきたロシュケンコルヴァを平然と飲み干した。
それ以上に不穏な空気を感じたのは「あなたと違って」という言葉。
自分の経歴は一切喋っていない、名前すら知らないのに。


「皆聞け、今宵のキルシェ・ステージシンガーは私が務める。一夜限りのイベント、友人知人へ知らせこぞって集まれ」


大音声が店内に響き渡る。時間は月が頂点に達する頃。顔なじみ達は新顔の企画に期待を寄せ、歓喜した。
一方で勝手なことをされたマスターが止めに入ろうとする。

「お客さん、何を言って……」
「いや、ヘレス!」

半ば暴走を始めた彼女を諌めるのは店を預かる身として当然。だがそれをほぼ反射的に制してしまった。
今自分が抱いている想いを、言葉にしようと必死に思考を巡らせる。仮にも雇い主であるヘレスを納得させるだけの理由を。


「彼女の歌声は本物だ。このままやらせれば、もしかすると……」

マスターに目配せだけをして、事の成り行きを見守るように促した。
いつもと違う、一大イベント。それが刺激になり店が繁盛するかもしれない。
その意図を汲み取って、彼はカウンターから出かかった身を店主としてふさわしい位置へ戻した。

本当は自身が一人の聴衆として楽しみなのかもしれない。
昨日とはまた違う曲で歌を聴けるのだ。それも中断の恐れもなく堂々と。

月が一番高くに登る頃、彼女は予告通りにステージに上った。
後ろには楽団を引き連れて、それは常連客の中から有志を募り集めたメンバーだった。

舞台あいさつもなしに歌い始める。マイクに乗る呼吸の吸、その音だけで周囲を静めた。

「My Favorite Things」「Night and Day」「All of Me」「Garota de Ipanema」
スタンダードで、バーに似合う選曲。
落ちついた伸びのある歌声は、酒を楽しむ雰囲気に一層華を添えた。
揺れるようなジャズスウィングに酔い、スムージーなボサノヴァになだめられ、いつの間にか店内は音楽に聞き入っていた。

つい手を止め魅入ってしまっていた。ヘレスもシェリーも、今夜だけのショーを楽しんでいた。
歌声からは深みを感じる、一方高音部ほど艶やか。高揚と落着を同時に感じさせる。
それは安物では決して味わえない一級品の味、酒のそれとよく似ていた。

雰囲気を表現する歌唱技術はやはり本物だ。あの時も歌うステージを理解しマッチした声色であった。
ただ違うのは物悲しさがない。『あの歌』にだけ漂う憂いは今日の歌にはなかった。

ほどなくしてショーが終わる。喝采を浴び拍手で迎え入れられつつステージを降りる彼女。
元居たカウンター席に着く。その一瞬前に目が合い「これでも歌わないのか」語りかけられた気がした。
目をそらしてしまったのが答え。彼女はまたロシュケンコルヴァを煽り始める。

そうやって彼女は閉店まで居座った。
その後はイベントを聞きつけてやってきた客もあり、通常では考えられない忙しさ、そして客の賑わう様。
歌に酔った者ほど酒が進む。そうしてノンストップで注文が殺到し、昨日家に帰りつけた時間になってようやく客がはけた。


「うわぁ……一日じゃ到底考えられない売上になってる……!」

店を閉め売上計算を始めたヘレスの口からぼそっと漏れてきた言葉。
それだけの影響力。それだけの魅力。彼女の歌は本当に凄い。
変わらず居座るその歌い手を見ると、なにやら頭を抱えていた。

「く、頭痛が……私は酒に、呑まれていたのか、何ということだ……」
「は?アンタ、あれで酔っていたのか!?」

顔色一つ変えなかった彼女に思わぬ事態。ロシュケンコルヴァを飲みまくっていて、自分に匹敵するほどの酒豪だと理解していたのだが。
酔っていた。いつからか、そういえば最初のカクテルを飲み終えた辺りから、嫌に自分への絡みが多かった。

「じゃあ今日のステージの事も憶えていないか?」
「ステージ?私はヒト前で歌を披露していたのか、まさか『あの歌』まで!?」
「や、それだけはなかったよ」

歌は全て定番の物。それを聞いて彼女は、最悪の事態は避けられた、とため息交じりに小さく漏らした。
『あの歌』に拘りを見せる様が気になるが、問いかける前にヘレスがこちらへやってきた。

「いいね!君、ウチの新しいステージシンガーとして働いてみない?」
「いや、ちょっとヘレス!」

彼女の存在が店の売上に強い影響を及ぼすのはわかったが、だからと言って誘いを掛けるのは短絡的すぎないか。
そうヘレスに申し立てをする。先に「歌声を買った」のは自分のほうだ、突っ込まれたが致し方ない。

「もう一人相方がいるなら、考えなくもない」

この振りだ。出会いのタイミングが悪かったが為に邪見にされてしまっている。
酔っている最中の事は全て自分への対抗意識の末だ。自分の事を困らせるために的確に仕掛けてきている。
ヘレスもシェリーも「相方」と聞きこちらへ視線を投げかけている。歌の事なんて知った上で、酷い話だ。

「冗談だ。私はもうこの町を後にする」
「あぁそっか、探し物を続けるんだね」

ヘレスの残念な顔は本物だが、こちらとしては内心安堵していた。
シェリーは話したそうにしているのが窺えるが、またヘレスの後ろに隠れている。
相変わらずの引っ込み思案には一夜という時間では話をするには短すぎたか。

「またこの町へ来る事があれば立ち寄るよ。私はヴィクトリア。世話になったな、マスターのヘレス、それに……」

「こっちのバーテンダーはシェリー。そして俺はミカ。その時にはまた歌声を披露してくれるかい?」

考えておこう。簡単な返答だけをし店を後にする彼女。扉を開けその去り際

「ロシュケンコルヴァを勧めてくれてありがとう。全く趣味の良い酒だよ」

ベルの音を残し消えた。最後の最後までやりにくい相手だった。


帰路に就く。足は自然とリバージュ・ルージュへ向かっていた。お気に入りの場所を独り占めにし、暫し立ち止まる。
そうして心を落ち着けているうちに、気付けば歌を口ずさんでいた。
歌を辞めた今でも、歌そのものは好きなままだ。そう気付けて、とても気分が良い。
月は水平線の向こうへ沈み、代わりに背後から空が朝日で輝き始めていた。

















































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JOURS D'AZUR」の柚巴さんのオリキャラ・世界観をお借りし、寄贈。日ごろお相手頂けている感謝を込めつつ。
向こう方のオリキャラと絡ませてみたいと、ウチのヤツが酒を飲んだらどうなるだろう、と作り始め……
結果「絡み酒」になってしまいました(ヲイ)

楽しく描けました!柚巴さんへもう一度、ありがとうございます。