女性が呼ぶ。声はない。ただ呼びかけているような口の動きが繰り返される。
綺麗だ。
美しい女性が呼んでいる。
行かなきゃ、逢いに、迎えに。
夢だった。だがとても美しい女性がこちらに微笑みかけ、彼女が居る場所へ行かなくてはならない衝動が胸の中に残った。
ふと目の前が土気色した壁で覆われていたので、一体自分の身に何が起きたのか異常を感じ飛び上った。
いつもの薄い青をした壁や天井の落ち着きのある自室で
はない。また身を包むキルトも、驚くほど荒い手触りだ。
今居る場所に覚えが無かった。まさか何者かに連れ去られこのような場所にいるのでは、一瞬だけそん
な思考がよぎった。
そして、遅れて覚めた脳の前頭葉が海馬から記憶を呼び出し再構成作業を始めた。
時間を掛け、なぜこんな場所にこうして眠っていたのか理
解し始める。
ああ、昨日ようやく辿り着いたのだったな。
思えば昨日は山を一つ越え、湖に辿り着き、村で参加の交渉を始め、
受け入れてもらえすぐに発掘の手伝いに入って、日が暮れるまで肉体労働と激動の一日で
あった
。振り返るほど一日でこなした事とはにわかに信じ難い内容の濃さだ。それだけ懸命に動き続けた。
昨晩泥のように眠り込んだのも無理のないこと。疲労
困憊でクタクタだったのだから。
ただ昨日の内は使命感と人と関わる時の緊張感から動き続けられた、今はもう休息を挟み完全に緩みきっている。
全身が鉛のよ
うに重い。もう一人誰かをおぶっているような感覚がし、手足に枷がはめられている気分だ。
意識も、さっきは見慣れない状況に焦り急速に覚醒したのだが、平常に戻ると何と鈍いのだろう。
瞼にも力がない、今見えているものも虚ろだ。
疲れていると変な夢を見る。さっき見たのもそのせいだろう。思い出すことも既に億劫になりつつあった。
しかしそれを考えると心が疼いた。なぜだかは自分で
もわからない、ただ僅かな変化が胸の中でざわめくのだけは感じられた。
不思議。今はもう考えたくない。
「ようブレイズ起きてるかぁ。」
戸を勢いよく開けて入って来たのはモトリッツィ。発掘チームの中で一番活発でおしゃべりだ。
朝も早いと言うのに声は大きく響く。しかしその元気の良さは今
は辛い。
彼はノックすらせず突然入ってきた。この無礼、本来なら焼き払うところだが如何せん寝起きでは火力が出ない。
「朝飯にすっけどよぅ、その前に紹介するヤツいるからちょっと来い。」
と腕を荒々しく掴まれ半ば強引に連れられる。女性への気遣いはこの地では期待できないということを痛感した。
力は半端なものではなく強靭で、元より抵抗す
るほどの活力がまだ目覚めていなかった。
そうして連れられた先の部屋には、小柄な男性が机上のモニタに向い作業をしているようだった。
「こいつがミグリオな。」
紹介された男性は、彼らが会話の中で幾度か話題にしていた人物であった。
なるほど確かに、メンバーと比べて大層ひ弱な体つき。一番線が細いと思っていたソットよりも更に筋肉は少なく、背丈もない。
彼の右足は包帯でがんじがらめになっていた。
「船でコケやがってこれだよ。」
言いながらモトリッツィはミグリオのギブスを蹴りつけた。それを受け彼は悲鳴を上げ全身に電気を走らす。
「ぃいった、止めろって!」
「ま、こいつがテメェのひ弱さのツケだってことだ。」
もう一つおまけに蹴り上げて、痛みに悶えるミグリオを見てモトリッツィは満足して出て行った。
ミグリオの身の回りにはコンピューター端末とそれに接続された数々の機器類が設置されていた。
それは屋外同然の土の床の存在とは文明の釣り合いが崩れていて、不格好な光景であった。
彼の様子に目を向ければ、足の痛みが引きその苦悶の表情は成りを潜め、代わって朗らかな表情が浮かんだ。
「改めまして、ミグリオです。主に情報処理や発掘品の考察、研究を担当しています。」
丁寧な自己紹介をもらい、こちらも礼儀として紹介を返す。なんだ、礼節をわきまえている者もいるではないか。
馴れたやり取りに安堵する自分がいた。
「や、船に揺さぶられて、それで足首をやってしまったのですよ。」
ここが発掘作業の頭脳、そして彼が司令塔。野暮ったい彼らにはできない芸当を全て担っているようだ。
そして逆も然りか。彼に肉体労働を期待するのは酷な話。
そして彼の表情からはケガをしていながらその実どこか安堵しているだろうことが窺えた。
ようやく本業に精を出せる、といったところか。彼の様子からはそんな気概を感じる。
「発掘で持ち帰ったものはとりあえず僕に見せて。あとこれからどこを探るかも指示を出すから、行く前にも必ず顔出してよ。」
そこで、腹の虫が疼き出した。騒ぎ立てるそれをあわてて抑え込むが鳴ったものはどうしようもなかった。
そういえば、昨夜は何も口にせず眠ったのだ。
朝食はソットが用意してくれてるよ、ミグリオが教えてくれた。
なのにだ、そもそもここへ連れて来たモトリッツィは気が済むとさっさと出てってしまった。全
くアイツは何なのだ。
そんなこんな、立つ腹にうめく虫を抱えながら朝食にありつけるという場所に来た。
ソットだけがそこに居るものだと思っていたが、違っていた。
大きめの長方形のテーブルが用意されたその部屋には、意外な事に昨日の発掘メンバーが勢ぞろいしていた。
「おせぇぞブレイズ!」ミュースコーロ
「やっと起きたのか。」プロフォンドー
「ぃんや、ミグリオのところに連れてった。」モトリッツィ
「話し込んでたか!?さっそく仲いいな!」リサタ
「朝飯のこと言い忘れたんだろ、テメェ。」フォルツァ
野次とも罵声ともつかない言葉を一斉に浴びる。何事かと逡巡している間にソットが歩み寄ってきた。
「朝は一緒に食べるのが習慣になってるんだ。」
「ソットは料理がうまいからな!」
モトリッツィが誇ったように声を張る。言われた方は恥ずかしそうに苦笑を浮かべる。
そうして着席を促した。背中を押され、未だ覚醒を待つ頭と体は無抵抗に木製の乾いた椅子へ腰をおろした。
そしてすぐさま料理が運ばれる。ククルー湖で獲れる魚料理だ。
飢えの激しい身体は食事を盛んに欲した。厳しく躾けられてきたマナーなどは今は見る影もない。貪るように食した。
いくらか腹が満ちたころ、思考も穏やかに正常に戻ってきた。その頃になって、何と礼節を欠いた食べ方をしたのだろうと振り返った。
しかし全員同じく、掻き込むようにひたすら食べていた。
これがここでのマナーなのだろうか、そうであれば自分は違反などしていなかったのかも知れない。
「おー、よー。ミグリオと話しをしてきたって?」
「あ、ああ。」
隣から急に話しかけられて反射的に返事をしてしまった。かなりの速度での即答。
この影響で早く会話が進むと思ったのだが、続きをもらうまで幾許(いくばく)か時間が空いた。
こちらからなにか言うべきか、迷っている間に二言目がようやく出てきた。こちらの様子を気にも留めずに。
「ここの村人は色々な形で関わっているといっただろう?
ミグリオの場合、ああしてデータを整理し文明を解析したり、
必要な情報を得る為に今日のダイブポイントを決めたりするんだ。」
オットゥシータのゆったりしたリズムで話が進む。
おおらかといえば聞こえは良いが、彼は何事においても行動が遅く、また遅刻の常習犯だった。
それは後によくわかることとなるのだが、思い返せば初めて出会ったあの時も集合に遅れていたのだ。
相槌を返して反応もおぼろなまま、また別の連中が声をかけてくる。
「よぅ、よく眠れたかぁ?」
「疲れてようが何だろうが働いてもらうけどな。」
ミュースコーロ。チーム内で一番筋力があるが間の抜けた性格。
フォルツァ。ミュースコーロと唯一張り合える力持ちだがこちらはしっかり者だ。
昨日発掘品を持ち運んだのがこの二人だ。ミュースコーロはよく物を壊す。
バルブを締め過ぎてねじ曲げたり、脆い発掘品を握りつぶしたり。子どもが力を持て
余してるみたいなヤツで、力仕事以外正直頼めない。
そして有り余る力を暴走させたとき抑えつけられるのがただ一人、フォルツァだ。
それはほぼミュースコー
ロの尻拭いみたいな役回りで、気の毒な立場だと見てて思う。
それでも彼は嫌がる表情を見せたりはしない。きっと責任ある仕事と捉え自覚しているのだろう。
「ミグリオとまたベッドで休むか?!」
「というか、自ら言い出したのだから仕事はこなせ。」
リサタ。ジョーク好きなチームのムードメーカーだ。
プロフォンドー。落ち着いた雰囲気で場を引き締める役を担っている。
ミグリオの出来事がハマっているのだろう、もっぱら冗談のネタによく使ってくる。コイツは特に元気よく声を張り上げる。
発掘の潜水を繰り返し疲労が襲って
くる帰り際も変わらずジョークを放ち、心底疲れた日では黙っていて欲しいと感じるほどだ。
彼が気落ちしているところは全く想像できない。
対照的に、プロフォンドーが騒ぎ立てている様を拝むことも難しい。
冷静さを絵に描いたような人物で、かえって笑顔を見たいと思ってしまう。
結局、朝から騒がしい食事になった。
あれこれ尋ねられては連中で勝手に話し出し言い合いになるので、自分が発した言葉は本当は数える程度だった。
それはそれで都合がいいのかもしれない。こちらの身分を明かすつもりはない。
正体がばれるか警戒するほどの相手ではなかったのは幸いだ。
これで、一個人としてエメラルドの秘密を追う事が出来る。いまはこの大らかでいい加減な連中に感謝しよう。
食事を終え先のミグリオの元へ。そこで今日の予定を立てたらまた湖に向い、今日も船に乗り遺跡の調査に明け暮れるのだった。
ククルー湖の形成に関して来る前に色々と調べて来た。遺跡と関わる重要項目だから、しかし数多く文献にあたったものの全くの謎なのだ。
湖の形成はまず水源があること。しかし雨の乏しいこの地で川らしい川など一切ない。
湖へ注ぐ水も、また流れ出る筋ですら、その痕跡を示す証拠をつかむこと
は無かった。
だがここも仮にも山間の土地、山肌に受けた雨をこの窪地に蓄えたという考え方ができる。
実際にそんな形で出来あがった湖がある、そういうものは土にあるミ
ネラルなどをともに山肌から受取り、塩分を多く含むことがある。
ククルー湖も塩分を含んでいる、条件に当てはまる。
そこで引っかかるのは、底に遺跡がある、つまり何らかの民族が、湖が形成されるより以前に住み着いていたということだ。
それらが生きていた頃に徐々に出来
たのか、または放棄された後に湖になったのか、
その答えは民家と思しき遺跡から白骨が見つかったことから答えは出ている。湖は急激に出来た。
そして逃げ遅
れた人々がそのまま大量の水に飲まれた。
わかっていることはここまで、その肝心の水がどうして押し寄せたのかが最大の謎である。
先の雨も歴史的な気候の変
動を調べても、これほど巨大な湖を満たす雨は降らなかったと結論付けられている。
山肌の雨をいくら集めても、先の民族が農業を続けるのが精いっぱいの微小
な雨量だった。
その秘密の片鱗に有り付けないか、密かに期待を寄せていたが、作業をこなしても船上には石がごろごろするばかりだった。
本日も日没が迫るころ作業を終え
た。
夕食。朝と同じく大体はともに食べるのだそうだ。そして座席もそれぞれ決まっている。
最初に座らされた場所に毎度落ち着く、そこにはテーブルの傷がちょう
ど、半音上を示す音楽記号の形をして刻まれていた。
木目が若干五線譜に似ていた。
各人家庭はあるが、それぞれにやることをこなしているらしく、ともすれば顔を合わせることも少ないのだそうだ。
そして夜の席にはミグリオの姿もあった。力仕事担当の二人が重い発掘品を下ろす。そしてミグリオに見せる。
さながら骨董品の鑑定、厳しい視線を向ける彼の
姿を前に緊張が伝わる。
「ミグリオ!?」
ミグリオはなにやらブツブツと独り言をつぶやき始めた。
「ああ、いっつもこうなんだ。放っておけ。」
「いつも?」
モトリッツィがこちらの動揺に気づき答えてくれる。
「あいつは俺達と違って頭いいからなぁ、インテリのやることはさっぱりだぜ。」
彼らはこのことに関してすでに興味を無くしている。
ただ彼の様子は考え込んでいるという度を超え、むしろ見えない何かとコンタクトを取ってように映った。
得体の知れない不気味な囁きが一層尋常でないと感じさせる。だから思わず狼狽しまった。
彼が今口にしているのは、自分たちが知る言葉ではない。
単に、小難しい専門用語がわからないことへの比喩ではなく、注意して聞くほどにアクセント、発音の
違いが明確に感じられる。
ウルケ、エファルルスアー、アウレヒルン、呪文のような言葉が響く中での夕食となった。
連中の様子は普段道理、勝手に騒いでたらふく食べる。ただ一人で呪文の影響で食欲を欠いたような気でいた。
結局彼はそのまま、皆がいる頃は食事にほとんど手を付けず石を見ていた。
居心地の悪さから早々に切り上げ、またあの肌触りの悪い寝床で眠ることにした。
メンバー紹介。食事はほんの中休みだ。