会津落城

会津戦争は悲しみの戦争だった
白虎隊二番士隊は、飯盛山から鶴ヶ城が炎上するのを見て自刃
<隊士名>
篠田儀三郎 ・安達藤三郎・間瀬源七郎・簗瀬勝三郎・野村駒四郎
西川勝太郎・石山虎之助・伊藤俊彦・有賀織之助・伊東悌次郎
長瀬雄次・飯沼貞吉・井深茂太郎・津川喜代美・林八十治
石田和助・池上新太郎・鈴木源吉・津田捨像・簗瀬武治
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幼少寄合組中隊頭 井上丘隅家
妻とめ子(52才)長女ちか子(31才)を介錯後自刃
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朱雀隊士中隊 沼沢小八郎家
母道子は姑貞子(86才)が歩けない為城に入れず、
家に火を放ち貞子の喉を突き娘のゆや子、すか子を殺し自刃
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河原善左衛門の妻 あさ子
姑菊子、長女国子(8才)親戚の娘2人をを連れて
薙刀を手に城に向かったが近づけず姑菊子が自刃
長女国子の首を刎ねた後、入城し討ち死
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永井左京家
母つる子(62才)妻すみ子(30才)姉やゑ子(38才)
長女ふぢ子(14才)次男英吉(13才)三男某(8才)を介錯後
家に火を放ち自刃
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軍事奉行添役 柴太一郎家
祖母つね子(81才)母ふじ子(50才)妻とく子(20才)
妹そゑ子(19才)妹さつ子(7才)自刃
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武具役人 野中此右衛門家
妻子6人を介錯後家に火を放ち屠腹
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家老 西郷頼母 妻千恵子
母律子(58才)妹眉寿子(26才)
妹由布子(23才)長女細布子(16才)次女瀑布子(13才) 自刃
3女田鶴子(9才)4女(常盤子(4才)5女季子(2才)
千恵子(34才)幼い子を介錯後、自刃
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中野竹子(薙刀の名手)
銃弾が胸に貫通 首級を敵に与えることを潔しとせず
味方の介しゃくにより果てる

この急劇のさいにおいて父母兄弟相失し一家各地に
離散し死生を知らざるに至る者多かりき。
殊に幼童男女の家族と相失し弾丸雨飛の中を、
彷徨して父を叫ぶあり母を恋うあり幼き同胞の、
相助け相携えて何処ともなく走るありしかして
病者を担ぐあれば盲人を負うあり。
聾者と跛者の狼狽はもとより火炎に包まれて泣く者
憤慨途に屠腹する者その雑踏名状すべからず。
(会津史 池内儀八著より)
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9月22日と記憶す。突然銃砲やむ。新たなる不安今胸中を領して空虚を覚ゆ。
山間の村民おそるおそる隠れ家を忍び出て、城下に近づき様子を探りはじむ。
郭内は隈なく焦土と化して残るものなし。
町屋もほとんど焼失し残存の家には敵軍の標札揚げあり、将卒充満の模様なり。
婦女捕われて下婢となり、狼藉の様子なるもしかとわからず。
(会津人柴五郎の遺書より)
五郎の記述には薩長軍の掠奪暴行の模様がはっきりと記されている。
城下町には戦闘中から市場が立ち、
江戸から商人が入り掠奪品を買いあさっていた。
婦女子が捕らえられ、性の対象として扱われ監禁された。
掠奪や婦女子への暴行、拉致監禁は各藩が競って行い
抵抗した婦女子を全裸にして殺し樹木に吊り下げた例もあった。
薩長軍を「下郎武士」と書いた五郎の心中察して尚余りある。
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落城した会津藩士が見た城外の光景は惨澹たるものだった。
川には死骸が流れ首が落ちていた
水ぶくれとなった死体があちらに3人、こちらに5人と浮いていた
城外には安否を求める家族が殺到していた。
城から運び出された病人は濠の辺りにおかれた台の上に何百と並べられ
家族や親戚、知人で混雑していた。
死んだと聞いて泣き崩れる者、生きていて抱き合う者
悲喜こもごもの光景が見られた。
後に戦死者の名簿作成を始め、3000人ほどの氏名を確認したが
それ以上はわからず、不明者数千人とのみ記載された。
戊辰戦争の中でも会津は傑出して死者の数が多く
凄まじい戦争だったと言える。
◆
会津藩は降伏後日本列島の最端、旧南部藩の領地斗南へ流される。
そこでの苦難生活は言語に絶したと伝えられている。

<もうひとつの会津戦争>
降伏後も各地での戦闘は続いている
奥会津の戦いである
薩長軍は田島(現南会津町)の人々を人夫とし会津若松へ武器弾薬を運ばせていたが
男達の留守中に薩長軍はあらん限りの掠奪を働き、田島の土蔵は片っ端から開けられすべて盗まれた。
田島の名主達はこの略奪行為に怒り、農兵隊を結成し薩長軍に反抗する。
中でも栗生沢農兵隊の働きが凄まじかったとの記述が残っている。
農兵は篝火を焚き、昼夜ともに厳重な警戒態勢をとった。
峠に薩長軍が兵が紛れ込むと酒を振舞って酔わせ
峠の奥に誘い込み殺戮した。
集団で進入した兵には鬨の声をあげて威嚇し
鉄砲を撃って追い散らした。
戦いは9月25日頃まで続いている。
(慶応太平記 田島町史より)
◆
只見に入った薩長軍は叶津に本営を置き各隊が三方面から会津若松を目指した。
高遠藩、飯山藩、越前藩、富山藩の諸隊は伊南川の西岸大橋村に陣地を築く
会津藩主松平の藩祖保科正之は高遠藩からきて親戚の間柄である
その高遠藩が敵軍となって攻めてきていることに郷兵は激怒したという。
河原田治部率いる会津藩兵と郷兵隊は谷あいで待ち伏せ空砲で脅し散々に破った。
郷兵は叶津本陣まで攻め込み武器、弾薬、食料等を奪い取る。
戦いはこちらも9月25日頃まで続いている。
(戊辰戦争 只見町史より)
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< 風 葬 >
薩長軍は、戦後会津藩兵の遺体の埋葬を禁じた。
この為あちこちに放置された遺体は狐や狸、野犬に食いちぎられ、
鳶や烏につつかれ、腐敗が進み一部は白骨化した。
城下とその周辺は死臭ただよう地獄と化し、人々は鼻をふさいで歩いたという。
飯盛山で自刃した白虎隊士の遺体も同じであった。
滝沢村の肝煎り吉田伊惣次の妻が放置された遺体を哀れみ
ひそかに埋葬したが、密告する者がいて伊惣次が捕らえられ
遺体は掘り起されて再び放置された。
◆
これに対して薩長軍は
会津城下の融通寺に薩長軍墓地を設け
9月に薩長軍戦死者の為の大法要を営なんでいる。
会津藩でこの問題の処理に当たったのが
元家老原田対馬、元小出島奉行町野主水、元藩士高津仲三郎である。
会津占領軍参謀近江膳所藩士三宮耕庵に対し繰り返し、繰り返し辛抱強く交渉し、
最後は相手と刺し違える覚悟で短剣を懐に談判し、ついに戦死者全員の埋葬を認めさせた。
明治2年2月のことである。
だが戦死者は罪人という理由で、埋葬地は罪人塚のある城西の薬師堂河原と小田山山麓のみに限定された。
会津藩のために命を落とした仲間が罪人の墓地に葬られることに原田対馬達は納得せず、
さらに交渉を続け最終的には城下の阿弥陀寺と長命寺への埋葬を認めさせた。
半年間放置されていた遺体の埋葬がようやくかなったのである。
後年、町野主水は自分の死にさいし
「遺体を粗莚で包み、荒縄で引っ張って菩提寺に運べ」と
息子の武馬に遺言した。
埋葬に対する怒りの告発だったと言われている。
武馬はこれを実行し人々を驚かせた。
◆
会津藩士の埋葬は明治2年5月24日から開始され
その費用、1千両は城下の商人星定右衛門が拠出した。
◆
いかにして四方遠方から死体を集めるか、
戦後散乱のなかなのでこれを運搬する器具もなく、
あるいは弧もに包んで担ぎ、あるいはかますに詰め込んで
古長持ちの破れたのに入れ、もしくは捨ててある板戸を拾ってこれを用い、
甚だしきに至っては、水風呂桶さえ用いた。
これら雑多な器具のまま埋めては広漠な土地が必要になる。
到底阿弥陀寺の境内には納まらない。
そこでやむを得ず八間四方の地を深さ数間の椀形に掘り、
その中に弧を敷き運搬していた器から遺体を取り出し、
北枕に臥しその上に弧で覆い、さらにその上に遺体を臥して堆積した。
何千という遺体の為その高さは数尺になり土砂を運搬してこれを覆い
「殉難之霊」と書いた墓標を立てさらに拝殿も立てた。
残った遺体は長命寺境内に埋葬された。
(明治戊辰殉難者之霊奉祀ノ由来より)
◆
その後薩長軍から即座に墓標、拝殿撤去の命令が下る。
「天下の罪人に殉難はない。拝殿などもってのほか」と言うものであった。
占領軍監察方兼断獄の筆頭頭取
越前藩士 久保村文四郎の言によるものである
後に久保村文四郎は、会津藩士によって暗殺されている。
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<その後の事>
−藩主 松平容保−
日光東照宮の宮司として東照宮の永久保持に努めた。
「往時のことは茫々として何も覚えてはおらぬ」が口癖だった。
明治26年59才で没
−筆頭家老 西郷頼母−
各地の神社で宮司を務め、晩年は会津へ戻り粗末な長屋に住む
明治36年74才で没
−政務担当家老 梶原平馬−
斗南へ移った後北海道へ行き根室の教育にあたる。
−軍事総督 山川大蔵−
西南戦争に参加して功績をあげ、晩年は貴族院議員となる。
−秋月悌次郎−
熊本の第5高等学校の教授として若者の教育にあたる。
−佐川官兵衛−
会津抜刀隊を率いて西南戦争に参加し戦死
−遠藤平太−
本郷村の村長となり観音山の頂上に戊辰戦争の記念碑を建てる。
「会津は天下屈指の雄藩である。もし上下心を一つにし |
| 藩国に尽くせばわずか5千未満のわが官兵、容易に |
| 会津を降伏させることは出来なかったであろう。 |
| 庶民は難を避け、逃散し累世の君恩に報いる気概はなく、 |
| その滅亡を目の前にして風馬牛の感をなすゆえんは何で |
| あったか。 |
| 一般人民に愛国心がなかったのは、上下隔離して氏族が |
|
すべてを独占していた結果に他ならない。と断じている。 |
| (板垣退助の記述) |
◆
これはすべての藩が持つ共通のことではあるが例外もある
田島(現南会津町)や只見の戦闘では農兵や郷兵が大活躍し薩長軍を大いに悩ませた。
これらの地区は幕府の天領であり自分たちの土地や財産を守る意味で戦ったと思慮する。
会津武士は意地を見せんと死を決して最後まで戦い
籠城した婦女子の活躍も賞賛すべき見事なものだった。
食料の備蓄も少ない中1ヶ月もの間耐え抜いた。
◆
戊辰130年がたち、会津と長州の和解がテーマとなり
平成10年に若松市長と萩市長の会談の場が
設けられたが双方の歩みよりはなかった。
< 祝 >
秩父宮勢津子妃殿下(松平容保の孫)の御誕生
(さまざまな人々の善意と努力を思い感謝)
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