「海水浴場前、海水浴場まえー」
 間延びした車内放送を背中に聞きながら、名取千早はバスの急なタラップを降りた。 村道のアスファルトが、夏の陽光を受けてきらきらと白く輝いている。
 今まで車内の暗さに慣れていたので思わず目をぱちぱちさせ、走り始めた路線バスを見送っていると、一緒に下りた小さな子供たちがはしゃぎながら横を走り抜けて行った。そして、手にビーチマットやらクーラーボックスやら色々の荷物を抱えた親たちが、これまたにこにこしながら子供たちの後を追う。その後ろ姿も、しばらくすると路面から立ち上る陽炎でゆらゆらし始めた。
 「停留所から少し歩ぐけどな」船着き場で道を尋ねた、港湾事務所のおじさんは言っていた。「浜への道を通り越して、ずっと行けばいい。あとは一本道だがら迷うことはねえ」
  五十鈴の小母さんの民宿は、海水浴場の西の、入り江の向かい側にあるらしかった。ようやく明るさに目の慣れてきた千早は、さっきの家族連れからはだいぶ遅れて、村道から分かれる浜辺への砂利道を歩き始めた。
 島のこちら側は山が深く、山襞が海に迫っていて、浜に向かって下りているはずなのに時々林道に迷い込んだような気分になる。ただ、鼻腔につく潮の甘い香りと、靴を隔てても伝わってくる道の砂の熱さが、海が近いことを感じさせた。

千早が港のおじさんに教えてもらった道を歩き、松林を抜けて民宿「五十鈴」に着いたのは2時を少し過ぎた頃だった。小母さんはしばらく前から玄関先で待っていたらしく、千早が気付いて遠くからあわててお辞儀をすると、「遅かったじゃない」と笑いながら声をかけてきた。
 「心配してたのよ。道が分からないんじゃないかって。東京からじゃ大変だったでしょ」
 そう言いながら、小母さんは千早の手荷物を受け取ると、千早が断る暇もないままにてきぱきと母屋に運び入れた。
 ついてらっしゃい、と言われて後ろから階段を上っていった千早は、2階にいくつか並んだ客間のうちの一室に通された。
 「ここが、千早ちゃんの部屋ね」
 案内された千早は、部屋の中を見回した。古びているが、きちんと掃除が行き届いていて、清潔な感じだ。南向きに開いた窓からは、浜辺に生えた松越しに海が良く見えた。入り江をはさんだ向こうの砂浜にちらほらと見える赤いものは、あの海水浴場のビーチパラソルだろうか。
 「若い人は、お座敷の部屋ってちょっと苦手かもしれないけど」
 「いいえ、そんなことないです」千早は否定した。
 「お客さま用の部屋を使わせてもらうのに、そんなこと…」
 「遠慮しないでよ」と小母さん。
   「千早ちゃんは、これまで大変だったんだから」
 そう口にした小母さんは、一瞬しまったという顔をした。千早の顔をちらちら見ながら、次に何を言うべきか考えている。
 「いいえ」しばらく気まずい沈黙が続いた後、千早は微笑し、一語一語を確認するように言った。
 「私は、全然、大丈夫、ですから」

 千早の両親は、今協議離婚の手続きをしているところだった。
 父と母がどういう理由で離婚することにしたのか、理由ははっきりと分からない。ただ、夏休みの近いある朝、千早がパジャマ姿で起き出してくると、食卓に目を赤く泣き腫らした母と、憮然とした表情の父が座っていて―母さんが、父さんと母さんは、離婚することになったの、と言った。
 これは父さんと母さんの問題で、お前は悪くない、と父が続ける。これからどうするか、母さんといろいろ話合わなくちゃならないが、それにお前を巻き込みたくない。だから、高校が夏休みになる間、すまないけど母さんの親戚の家に行っていてくれないか―。

 五十鈴の小母さんは母さんのいとこにあたる人で、小さい頃からとても仲が良かったらしい。だが、母さんが島の高校を卒業するとすぐ上京したのに対し、小母さんは島に残って家業の民宿を継ぎ、漁師をやっていた今の小父さんと結婚した。小父さんは今の時期は漁に出ていて殆んど家にいないとのことで、民宿は実質、小母さんが独りで切り盛りしているらしい。

 「綾も今夏休みだから、ちょうどいいんだけどね」1階の茶の間で千早にお茶を勧めながら小母さんが言った。「暇さえあれば海に入りに行っちゃうんで、今いないんだよ。あの子も今年で中学生になったっていうのに、本当男の子みたいで」
  綾というのは小母さんの一人娘で、千早も1回だけ会ったことがある。何年か前、小母さんがめずらしく東京に遊びに来た時のことで、まだ小学校高学年だっただろうか。きれいな子だった。でも島の子らしく、初夏だというのに黒く日焼けしていた。髪も灼けて少し茶色がかっていて、よそ行きのブラウスと紺のスカートが全然似合っていなかったことを、千早は思い出した。ただ、その時はほとんど話をしていないし、あれからの数年間でもうずっと大きくなっているだろう。
 どんな子だろうか。仲良く出来ればいいけど―
  お茶の間を辞して部屋に戻った千早は、座って窓の外の海を眺めながら、これからの島での生活のことをぼんやりと考えていた。

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