千早が港のおじさんに教えてもらった道を歩き、松林を抜けて民宿「五十鈴」に着いたのは2時を少し過ぎた頃だった。小母さんはしばらく前から玄関先で待っていたらしく、千早が気付いて遠くからあわててお辞儀をすると、「遅かったじゃない」と笑いながら声をかけてきた。
「心配してたのよ。道が分からないんじゃないかって。東京からじゃ大変だったでしょ」
そう言いながら、小母さんは千早の手荷物を受け取ると、千早が断る暇もないままにてきぱきと母屋に運び入れた。
ついてらっしゃい、と言われて後ろから階段を上っていった千早は、2階にいくつか並んだ客間のうちの一室に通された。
「ここが、千早ちゃんの部屋ね」
案内された千早は、部屋の中を見回した。古びているが、きちんと掃除が行き届いていて、清潔な感じだ。南向きに開いた窓からは、浜辺に生えた松越しに海が良く見えた。入り江をはさんだ向こうの砂浜にちらほらと見える赤いものは、あの海水浴場のビーチパラソルだろうか。
「若い人は、お座敷の部屋ってちょっと苦手かもしれないけど」
「いいえ、そんなことないです」千早は否定した。
「お客さま用の部屋を使わせてもらうのに、そんなこと…」
「遠慮しないでよ」と小母さん。
「千早ちゃんは、これまで大変だったんだから」
そう口にした小母さんは、一瞬しまったという顔をした。千早の顔をちらちら見ながら、次に何を言うべきか考えている。
「いいえ」しばらく気まずい沈黙が続いた後、千早は微笑し、一語一語を確認するように言った。
「私は、全然、大丈夫、ですから」
千早の両親は、今協議離婚の手続きをしているところだった。
父と母がどういう理由で離婚することにしたのか、理由ははっきりと分からない。ただ、夏休みの近いある朝、千早がパジャマ姿で起き出してくると、食卓に目を赤く泣き腫らした母と、憮然とした表情の父が座っていて―母さんが、父さんと母さんは、離婚することになったの、と言った。
これは父さんと母さんの問題で、お前は悪くない、と父が続ける。これからどうするか、母さんといろいろ話合わなくちゃならないが、それにお前を巻き込みたくない。だから、高校が夏休みになる間、すまないけど母さんの親戚の家に行っていてくれないか―。
五十鈴の小母さんは母さんのいとこにあたる人で、小さい頃からとても仲が良かったらしい。だが、母さんが島の高校を卒業するとすぐ上京したのに対し、小母さんは島に残って家業の民宿を継ぎ、漁師をやっていた今の小父さんと結婚した。小父さんは今の時期は漁に出ていて殆んど家にいないとのことで、民宿は実質、小母さんが独りで切り盛りしているらしい。
「綾も今夏休みだから、ちょうどいいんだけどね」1階の茶の間で千早にお茶を勧めながら小母さんが言った。「暇さえあれば海に入りに行っちゃうんで、今いないんだよ。あの子も今年で中学生になったっていうのに、本当男の子みたいで」
綾というのは小母さんの一人娘で、千早も1回だけ会ったことがある。何年か前、小母さんがめずらしく東京に遊びに来た時のことで、まだ小学校高学年だっただろうか。きれいな子だった。でも島の子らしく、初夏だというのに黒く日焼けしていた。髪も灼けて少し茶色がかっていて、よそ行きのブラウスと紺のスカートが全然似合っていなかったことを、千早は思い出した。ただ、その時はほとんど話をしていないし、あれからの数年間でもうずっと大きくなっているだろう。
どんな子だろうか。仲良く出来ればいいけど―。
お茶の間を辞して部屋に戻った千早は、座って窓の外の海を眺めながら、これからの島での生活のことをぼんやりと考えていた。