2「等加速度運動」
7月○日、金曜日。
試験当日は、朝から抜けるような快晴となった。
「来ちゃったねえ」
「来ちゃったわよっ」
早苗の言わずもがなの問い掛けに、千鳥がぶっきらぼうに応じる。
まだ8時だというのに、路面のコンクリートからの照り返しがじりじりと熱い。
「ああもう、頭痛してきた」
千鳥と早苗が着ているのは紺の競泳タイプのスクール水着だけで、肩に直接、教科書やら筆記用具やらを入れたショルダーバッグを掛けていた。普段はもちろん制服を着てくるのだが、今日のように一限が戸外での授業の時は、寮から直に水着で来ても良いことになっている。
二人がふうふう言いながらかなりの勾配のあるスロープを登りきると、巨大プール―通称「学園」の全貌が目に入ってきた。
長さ300メートル、幅300メートル。大きすぎて一見湖のようだが、水はずっと澄んでいる。南洋のようなエメラルドブルーの水底に、体育館の赤いカマボコ屋根がうっすらと見えており―その向こうに、時計台の先端が水面から顔を突き出しているのが、何とも奇妙で間抜けだった。
A組の生徒は、もう半分くらい体育館最寄りのプールサイドに集まっている。うち何人かは、手首足首をぶらぶらさせる準備体操をしたり、2人一組で背筋をのばす屈伸運動をしたりしていた。
(ご苦労なことよね…)
のろのろと集合場所に向かおうとした千鳥に、誰かが後ろから声を掛けてきた。
「あら、千鳥さん、早苗さん」
「え?」千鳥は足を止める。ストレートロングの髪の、日本人形のような雰囲気の女の子がにこにこしながら立っている。白いワンピースの水着が、すらりとした肢体によく似合っていた。
「あっ、お蓮ちゃん。おはよう」と早苗。
「おはよ、蓮」千鳥も応える。
「おはようございます」
「どうよ」千鳥は、やや韜晦を含んだ口調で言った。「前人未踏、物理無呼吸一本勝負に向けての仕上がりは」
「ええ、とても困っていて」蓮が微笑しながら、なんだか全然困っていない様子で言う。
「練習、した?」早苗が訊いた。
「はい。自習室で」
「へえ」早苗が驚きの声を上げる。
自習室というのは各学年に1つずつあり、他の教室とは違って室内が天井まで全て水で満たされているという無茶な施設である。自習室よりも、肺活量鍛錬場と呼んだほうがふさわしいかも知れない。
「あの、バネと摩擦力を使った問題がなかなか解けなくて。やっと解けたと思ったら、すごく長く息を止めてたせいでそのまますうっと気が遠く…」
「えーっ、大丈夫だったの」
「ええ。たまたま、見回りの先生がいらっしゃって」
「九死に一生を得たわけだ」千鳥が口を挟む。
「はい。だから、私今回は全然自信がないんです」蓮が言う。「だけど、勉学の道は厳しいものですから。私、息の続く限り頑張ります」
「へ、へえ、努力家だね、蓮ちゃんって」早苗の声は、なんだか少し上ずっている。
そんな二人の会話を聞きながら、千鳥はぽつりと呟いた。
「…何だか、激しく間違っているような」
「おっす、三人とも」
振り向くと、武緒が白い歯を見せながら手を振っていた。今着いたばかりらしい。横には吉乃の姿もあったが、こちらは顔を上げようとせず、公式の書かれた単語帳を見ながらぶつぶつと呟いている。水球部の選手用の競泳水着を着た武緒の身体は日に灼け、引き締まっている。千鳥たちと同じスクール水着姿の吉乃は、対照的に肌白でしなやかな感じだ。
「どうだい、前人未踏、物理無呼吸一本勝負への…」
「仕上がっている訳ないでしょっ」千鳥は、武緒の言葉を荒々しくさえぎった。「それに、それあたしのセリフ」
「え、何の事だ?」
「もっとも、昨日の二年生の物理も、試験はこれと同じ形式だったらしいわよ」吉乃が、横から単語帳を繰りながら言った。
「げ」と早苗。「…それで、その試験はどうなったの」
「ええと、確か」武緒が指を折りながら言う。「ほとんどが棄権して、答案が採点に回ったのが3人。しかもどっさり水を飲んで、まだ保健室で意識不明で寝てるってさ」
「まあ」と蓮。
「…」早苗の顔色が、さっと青くなった。
「…しかし逆に、なんでその三人は棄権しないで済んだの?」と千鳥は訊いた。「まさか、試験時間が終わるまで、ずっと息が続いたわけ?」
「いや」武緒が言う。
「つまり、試験を途中で終わらせるのに必要な、所定の手続きを踏んだということでしょう」
吉乃が、やや投げやりに補足した。
「ええっ、それって…」千鳥はごくりと唾を飲んだ。「まさかとは思うけど、八重山の…」
武緒と吉乃が、異口同音に頷く。「濃厚、キス」
「いやああああっ」早苗は耳を押さえると、プールサイドにぺたんと座りこんでしまった。
「ナエ…」
「千鳥ちゃん、助けてっ」早苗は、傍らの千鳥にしがみついてきた。さっきまでの元気が嘘のように、華奢な水着の肩がこきざみに震えている。「…助けて」
「いやさ確かに、助けてあげたいのは山々なんだけど」千鳥は、屈みこみながら言った。
「あたし自身、もう一杯一杯というかさ…。いいじゃない、さっさと棄権しちゃえば」
しかし、早苗は大きくかぶりを振った。「あたしね、昨日の英語、〇点なんだ。マークシート、一行ずつずらして書いちゃったの」
「え、そ、そうなの?」
「だから、今日の物理で〇点取ったら、落第しちゃう。今日は、どうしても頑張らないといけないの」
「ナエ…」大粒の涙を溜めた目を見ていると、千鳥は自分のさっき言った言葉を後悔し始めた。
「だ、大丈夫だよ。大丈夫。あたしも、そう、死ぬ時は一緒だから」
「死にたくない。わああああ」早苗は、とうとう泣き出してしまった。
すると、それまで黙って腕を組んでいた武緒がすっと早苗の前に立った。
「ナエ、しっかりしろ」
ぱん、と音を立てて平手が早苗の右頬を打つ。早苗は、びっくりしたように泣き止むと、叩かれた頬を押さえながら武緒を見上げた。
「武緒…ちゃん」
「どうしても頑張らなきゃならないんだろ。だったら、泣いてても仕方ないぞ」
「…」
「息を思いきり吸って、一秒でも、潜れる時間を延ばすんだ。いいか、いくぞ」
武緒は両腕を横に伸ばすと、すうっ、と音を立てて深呼吸をし始めた。肩がせり上がり、水着の胸がみるみる膨らんでいく。
「う、うん」早苗はあわてて立ち上がると、武緒の真似をして、笛のような音を立てて大きく息を吸いこみ始めた。
「ひゅうううううっ」
「すうううううっ」
なぜか、蓮も練習に加わる。ただし今にも泣き出しそうな顔の早苗と違って、こちらの動作は何だか優美な感じだ。
「…どうしたの、これ?」先ほどからの騒ぎが聞こえたのか、春菜が後からひょっこりと顔を出した。これから泳ぐというのに、髪はいつも通りツインテールをリボンで結わえている。スクール水着を着ていると、本当に小中学生みたいだ。
「見ての通りよ。最後の追い込み」千鳥は、うんざりしたような口振りで答える。
「へえ。大変だねえ」
「あたしも、もう駄目かな、て感じ」
「千鳥、物理苦手だもんね」春菜がからかうように笑う。
「うるさいわね」千鳥は応えた。「あんたはずいぶん余裕じゃない。何か考えでもあるの」
「へへへへ。我に、秘策あり」春菜は、またいたずらっぽく笑った。
「秘策?」
「うん」と春菜。「…それより、そろそろみんな集まってきたみたいだね」
千鳥は周りを見回した。試験開始を控え、もうA組のほぼ全員がプールサイドに揃っていた。早苗たちは、まだ例の練習を続けている。他にも生徒たちはあちこちで準備運動をしていて、中にはヨガのように蓮華座になって瞑想したり、何を間違えたのか水際に立って合掌し、何かお祈りを詠唱している子もいた。 「しかし、壮絶よね…」
千鳥は、あきれ果てたといった風情で、独り言のように呟いた。