#1「兆候」
「いつまで泳いでるんだよ、沙耶」
「ごめん、ケイちゃん。お願い、もう少しだけ……」
ゴーグルを額に押し上げて、沙耶が声を張り上げる。
「仕方ねえなあ、待っててやるよ。けど、その呼びかた、子どもっぽいからやめろよな」
「はぁい、天野桂二くん!」
彼女、潮崎沙耶は笑みだけ返してよこすと水面に姿を消した。
俺と彼女は、一般的に言うところの「幼なじみ」だが、俺は単なる「腐れ縁」だと思っている。なにしろ、保育園から高校二年の今日に至るまで、違うクラスになったことがない。クラブも一緒、ご覧の通り、水泳部に所属している。
沙耶は俺のことを、保護者かなにかだと思ってる節がある。俺のほうは、ぐっと色っぽくなってきた水着姿に、目のやり場に困ったりなんかしてるというのに。
近頃、沙耶は少し変だ。
悪くなかったタイムが、どんどん落ち続けている。大会のメンバーからもはずされてしまった。なのに沙耶は、以前にも増して泳ぎ続けている。水に入っていないと、渇いて死んでしまうとでも言うみたいに。
今日も、みんな帰ってしまって静まり返ったプールに、彼女の立てる水音だけが響いている。県内随一の設備を誇るプールは、長水路に隣接して飛び込みプールをも擁していて、最新の消毒法だとかで塩素臭もなく、災害などの非常時には飲用に供することが可能なほどに澄んだ水をたたえている。
長水路の端でターンし、息も継がずに水面下をきれいなドルフィンキックで進む彼女。暗色にワンポイントで蛍光ブルーの入った競泳用水着をまとって、優雅に、水の中を滑るように泳いでいる。魚かイルカみたいだ。これで記録が悪いのが謎だよな。
ひとり泳ぎ続けていた沙耶が、ふと泳ぎを止め、飛び込みエリアの最深部に潜水する。小さな水音がして、白い足先がひらめくのが見えた。見事なジャック・ナイフだ。
「いい加減にしてくれよ。上がってこないんなら、先に帰るぜ」
俺は独り言のようにつぶやいた。
深度を変えることのできる可動床は、表示によると、今は水深四メートル強に設定されている。その底に横たわり、沙耶は大きく息を吐き出した。身長の二倍よりも長い距離を上ってきた気泡が弾けて、波紋を広げる。
長い黒髪が、海藻のように水に揺れた。誰もいないのを良いことに、スイムキャップも、ゴーグルも、はずしてしまっているらしい。「こういうものがあると、水を感じていられなくてイヤなの」と言うのが、彼女の口癖だ。俺にもその気持ちは分からないでもないが、沙耶の水に対する愛着は、少々度を超してきている気がする。
っとに、いつまで待たせるつもりだ?
上がってくる気はないらしい。ため息をつき、プールサイドに腰掛ける。
沙耶が潜ってから三十秒、やがて一分。
青い水底にゆらめく姿を眺めながら、壁の計測時計に見るともなしに目をやる。沙耶はもともと息が長い。俺は、そう心配してはいなかった。
しかし、百八十秒……二百……、そして。秒針が四周してもなお、彼女は上がってこなかった。長すぎる、いくらなんでも。たしかさっき、沙耶は息を吐いてしまっていた。
「沙耶! 聞こえるか? 気絶してんのか、沙耶!」
聞こえないのを承知で呼びかけ、プールサイドからのぞき込む。水底に沙耶は横たわったまま、身じろぎもしない。
ちきしょう、ブラックアウトでもしてるのか。
狼狽し、深みに向かって飛び込む。あわてたので、いつもなら自動で抜ける耳抜きに手間取ってしまう。
ようやく到達した、四メートルを超える深みで。
沙耶はゆっくりとまぶたを開け、微笑んだ、ように見えた。ゴーグルをしていないので、水の中ですべてがぼやけて見える。だが、たしかに彼女は笑っていた。なんだか、見てはいけないものを見てしまったようで、背筋に冷たいものが走る。
腕をひっつかんで浮上し、水面で立ち泳ぎしながら向かい合う。
「びっくりしただろ、オマエいったい、何考えてんだよ!」
俺は息を弾ませながら、彼女を怒鳴りつけた。
「ごめんね、ケイちゃん……」
語尾が震える。沙耶はうつむいて、頼りなげな表情を浮かべた。童女のようにあどけなく、仔猫のように心細げな表情。俺は、彼女のこの顔には逆らえない。
「まあ、その、無事だったからいいけど」
「水の中があんまり気持ちがよくて、いつまででも潜っていられるような気がしたの」
言葉通り、四分以上もこらえていたにも関わらず、息ひとつ乱れていない。
「わーったよ、心配した俺がバカだったよ。沙耶、おまえホントはイルカかなんかなんだろ」
俺の軽口に、沙耶は眉を寄せ、答えようとはしなかった。