救命艇の内舷に頭を凭れさせながら、水無月青葉は頭上の降るような星月夜を眺めていた。
 暗い夜空に散らばった大小の星々は、大気の揺らぎに合わせてきらきらと瞬きながら、思い思いに種々の南天の星座を形作っている。そして眼下にくろぐろと広がる海面には、艇の作るわずかな航跡(ウェーキ)にも刺激されたのか、夜光虫がこれも煌く星々のように青白い燐光を放っていた。
 (きれい…)潜水艦のあの狭く息詰まるようだった艦内に比べ、ここは何と美しいのだろうと青葉はぼんやりと考えていた。 
 佳子と薫は、今は疲れきったように艇の舟底で身体を寄せ合って眠っている。さっき当直を青葉と交代した悠良は、艇の舳先に座って背中を星空に黒く浮かび上がらせていた。
 (私…)
 甘い海風が鼻腔を擽り、しばらく喉のひり付くような痛みを忘れさせてくれる。
 (ここで…死ぬんだ…)
 青葉たち4人が、沈みゆく巡洋潜水艦〈ウンディーネ〉を脱出して丸3日が経過していた。

 60メートル余りの深度からの浮上を始めた当初は、青葉は身体中に新鮮な活力がみなぎり、まるでいつまでも息を止めて潜っていられるように感じた。しかし両肺一杯の空気が、数分を経て序々に炭酸瓦斯(ガス)へと置換されていき、乳酸が全身の筋肉に蓄積されるにつれ、青葉の四肢の力は萎え、蹴り続ける両脚の動きは次第に緩慢になっていった。そして、頭上を泳いでいた佳子が失神したために、腕の負担がずんと増したと感じた頃だろうか。青葉は、横隔膜の自発運動につれ、海水を自然に肺の中へと吸い込んでいる自分を発見した。その胸腔を刺すような刺激に驚き、隔膜を必死に引っ張り上げるようにして水を口外へと吐き出しても、冷たい海水はやがて奔流のように、食いしばったはずの上下の歯列の間から再び喉の奥へ奥へと流れ込んでくる。そうやって、海水を深々と吸い込んでは吐くことを何度繰り返しただろうか。全身を圧迫していた水圧が徐々に緩むと共に、海水は透明度を増していき、ついに弾けるような気泡と共に頭が海面を割った。
 鮮青色の水を湛えた穏やかな水面と、まるで嘘のように頭上から燦々と照らす日光。青葉は思い切り空気を吸い込もうとして、自分の両肺が喉頭まで水で一杯なのに気付いた。ががっ。がふっ。激しく噎せながら、気管を絞り切るようにして海水を吐く。青葉が自分の肺にゆうに数分ぶりの新しい空気を与えようともがくうちに、悠良と薫が隣の海面に浮上してくると、同じように顔を真っ赤に紅潮させながらがぼがぼと水を吐いた。
 青葉が、危うい均衡を保って波間に浮かぶ艇を立ち泳ぎで支える間に、薫はその裏返しになった舟底の上に這い上がり、手動ポンプを動かして船体への給気を開始した。そして悠良は、さっきの浮上に失敗した佳子を探して、呼吸を整えると再び数十メートルの深度へと潜って行く。そして救助された佳子の蘇生が成功し、船上、青葉たちの眼前でうっすらと眼を開ける頃には、ゴム製の艇はようやく形を整え、潮流に乗って東北東へとゆっくり漂い始めていた。
 飢えと喉の渇きは、すぐにやって来た。
 救命艇の備品である糧食は流出し、飲料用水筒は破損して海水が入ってしまっていたのである。海水を呑んだ口内と鼻腔には塩気が残り、水分が乾ききると焼け付くようにひりひりと痛んだ。青葉たちは海水を手で掬って互いの身体に掛けあったり、艇の曳航索の金具をしゃぶって体内の水分の維持に努めたが、日差しを避ける場所もない船上では身体はすぐに乾いてしまう。じきに、どんなに金具をしゃぶってみても唾液はほとんど出なくなった。
 脱出の前に予め海図で見ておいた島嶼の影が見えたのは2日目の昼である。しかし艇を乗せていた潮流は予想外に速く、懸命の力漕にもかかわらず艇を島に近づけることは出来なかった。青葉たちが力尽きて(オール)を置いた頃、島はすでに水平線上の薄青色の影に過ぎなくなっていた。喉の渇きは一段と強まり、口中がざらついて舌が膨らんでくるのが分かった。そろそろ船体が新号電探の梱包箱の重みに耐えられなくなってきたので、梱包箱はやむなく識別浮標を付けて島沖合に投下した。
 3日目の朝、悠良が波間を流れている椰子の実を発見した。かなり古いものらしく、果皮は茶色く変色していたが、食べられるかも知れないと思って小刀で割った。果汁はほとんど無かったが、青葉が小さく割った果肉(コプラ)を薫の口に含ませてやると、薫はわずかに笑って感謝の意を表し、大分長いことかかってその破片を嚥下した。薫は特に衰弱が激しかったが、青葉もその渋みのある果肉を自分の口に運んでみて、初めて自分もそれを飲み下すのにも苦労するほど体力が削がれているのが分かった。

 そして、その日の夜のことである。既にあの椰子の実のちいさな果肉を除いては、3日間というもの炎天下一粒の糧食も、一滴の水も口にしていない。気力だけで正常な意識を保つには、ほぼ心身の限界が来ていた。
 青葉は、再び満天の星々を見上げながら、いつの間にか放心のような眠りに落ちていった。
 
 上腕をゆさゆさと揺らす感触。―何。何なの。ぼんやりとした意識の中、青葉は重たい両の瞼を開けた。すると、さっき当直をしていた筈の悠良が、青葉の腕を掴んで揺さぶりながら何かを叫んでいる。さすがの悠良も頬の肉が落ち、夜目にも疲労の色が激しい。青葉は懸命に、ともすれば薄らぐ正気をその悠良の口元に集中させた。
 「青葉、(スコール)(スコール)だ…」
 混濁していた意識が、ふいに鮮明になる。―(スコール)。青葉が天をふり仰ぐと、さっきまで夜空じゅうに瞬いていた星々が、かき消すように無くなっている。息を吸い、吐く。空気が重く、周りの大気はこれまでと明らかに違う湿り気を含んでいた。べた凪だった海面には、大雨の前兆である小さな細波が起こっている。
 そして、青葉が身体を起す間にも、叩きつけるような大粒の雨が降り始めた。
 あまりの雨脚に、海面は白く泡立ち、小さな艇は傾いで揺れる。舟底にはまたたく間に雨水が溜まり始め、悠良は4つん這いになるとゴムの舟板を圧して窪みを作り、手で水を掻き集めながらごくごくと飲んでいた。青葉がそばに放っておいた鉄製水筒の蓋が、雨に叩かれて盛大な音を立てて鳴り始め、溜まった雨水はその縁を越えてみるみるうちに溢れ出してくる。青葉は蓋を掴むと、中身を前後不覚で喉へと流し込んでいた。美味しい。真水が、乾土のようだった喉元を潤し、その焼け付く痛みを癒していく。喉を動かすごとに、諦めかけていた生への強い執着が体内から湧き起こってきた。
 青葉は再び蓋を雨水で満たすと、傍らの佳子の上体を抱き起して声を掛けた。
 「佳子…ほら、水だよ」
 佳子はすでに水から上がったばかりのようにびしょ濡れで、前髪が色白の額に張り付いている。青葉は蓋を佳子の口元にあてがうと、ゆっくりと傾けて、澄んだ液体をその口の中へと流し入れた。
 されるがままだった佳子は、暫くしてびっくりしたように目を開けると、やがて当然の摂理に従うかのごとく、与えられた水を飲み込み始めた。こくん、こくん、こくん。白く柔らかな喉元が、その度にのびやかに脈動する。青葉が佳子の肩越しに見ると、悠良も両手に掬った水を同じようにして横たわる薫に与えていた。
 青葉は、佳子を腕に抱いたまま、空に向かって大きく口を開いた。
 雨が顔を叩きつける。とても目を開いていられない。大粒の雨水が、あるものは直接、あるものは青葉の頬を伝い鼻先を伝い、どんどん口中へ流れ込んでくる。呼吸ができず、水の上なのに溺れてしまいそうだ。
 「…!!!」
 青葉は、真夜中の雨空に向かって笑いながら、声にならない歓声を上げた。
 
            

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