Title9-3.GIF (2758 バイト) 塩野七生氏の視点 . . . . . . . . . . . . . . . .

塩野七生『ローマ人の歴史』より

〜「VIII 危機と克服」 より〜 

・被統治者は統治者に対し、統治する上での「正当性」「権威」「力量」を求めた
VIII-18

政体が何であるかに関係なく、統治者と被統治者の二分離は存続する。存続せざるをえないのが現実である以上、被統治者は統治者に統治する上での「正当性」「権威」「力量」を求めた。アウグストゥスが創設したローマ帝政では、「正当性」とは元老院と市民の承認であり、「権威」とはアウグストゥスの血を引くということであり、「力量」とは、ローマ皇帝にとっての二大責務である安全と食の保証をはじめとする、帝国運営上の諸事を遂行していくに適した能力を意味した。「権威」はもっていたにかかわらず、「力量」を欠くと判断されたがゆえに「正当性」を失ったことがネロの運命を決定したのである。そして、ネロ以降の皇帝たちも、右の三条件のすべてを満たすことを求めれた点では、ネロ以前の皇帝たちとまったく変わりはないのだった。それどころか、正当性と能力に加えてアウグストゥスの「血」に代わりうる別の権威まで創り出さねばならないのだから、問題はさらに深刻であった。

 

・内戦ではトップ自らの臨戦の重要性は決定的になる。
VIII-48

トップというのは、勝負がかかっている場には絶対自ら出向く必要がある。外敵との闘いの場合は最高司令官の臨戦の有無が戦闘員の士気に影響してくるから、その理由は説明するまでもない。しかし、内戦、つまり同胞間の闘いとなると、トップ自らの臨戦の重要性はより決定的になる。第一に、同胞同士で闘うのだから、敵味方いずれの兵士たちの心中にも、同胞に剣を向けることへのわだかまりがある。勝つには、そのわだかまりを断つことが必要だ。兵士たちにわだかまりをふっきらせるには、彼らに、自分たちが闘うのは敵が憎いからではなく、自分たちのトップのためである、と思わせねばならない。ルビコンを前にしたときのユリウス・カエサルはかの有名な「賽(サイ)はなげられた」の一句を口にする前に、兵士たちに言っている。「ここを越えれば人間世界の悲惨、越えなければわが破滅」。カエサルは、自分に従いて国法違反になる「ルビコン越え」を決行しようとしている兵士がもっているわだかまりを、越えるのはカエサルを破滅させないためという理由を与えることで断ち切らせるのに成功したのであった。第二の理由として勝ったときの部下の暴走を制御する、第三に敗れた同胞の処遇である。内乱はいつか終る。終った後の社会の再建に、怨念ほど害毒をもたらすものはない。怨念を残さないやり方で勝たねばならない。それが内戦の難しいところ。(しかし、ヴィテリウスは臨戦しなかった。)

〜「IX 賢帝の世紀」 より〜 

・トラヤヌスはなぜダキアに対して、カエサルがガリアにしたような同化政策をとらなかったのか?
IX-109

ガリアはゲルマンの脅威にもされされており、統一性のない大小の多くの部族があったため、利害が対立するたびに不利になった方がラインの対岸からゲルマンを呼び寄せたことがゲルマン侵入の原因にもなっていた。牽制しあう中でローマの下で生きていく道を選ばせることができた。一方、ダキアは一つの民族、一人の王にもと、反ローマで結束していた。

 

・ローマ皇帝たちは税率を上げることを神経質なくらいに避けてきた。
IX-P219

関税が「二十分の一税」、売上税が「百分の一税」、国有地の借地料が「十分の一税」の通称で定着していたことが、税率が動かなかったことのなによりの証拠である。

 

・法律とは時代に応じて改正されるべきというローマ人の法律観を反映して、ローマ法の変遷は、大別すれば三つの時期にわけられる。
IX-P276

第一期;BC753年〜BC150年の約600年間;。建国、イタリア半島統一、カルタゴに勝利など地中海世界制覇に向けてスタートする時代。言ってみれば、自国民であるラテン民族だけを考えていればよかった時代。

第二期;BC150年〜300年の約450年間;多くの他民族を加え、多人種、多民族、多宗教、多文化の共存共栄に適したもの。ローマ法自体がすでに国際法であった。

第三期;4C〜6Cの約250年間;コンスタンティヌス帝によるキリスト教の国教化から、東ローマ皇帝ユスティニアヌス帝による『ローマ法大全』の刊行までの、よりオリエント的でキリスト教的に変わった時代。

 

・ローマ人の広大な帝国は幸運に恵まれたからではなく、彼らの意志と労苦の成果であることがわかる。(『ユダヤ戦記』からの抜粋)
IX-P304

ローマの兵士は平和である間は人生を享楽し、必要になったら武器を手に戦場に出向くのではない。まるで武器を手に生まれてきたかのように訓練を怠らない。その訓練は激しく、軍事訓練は流血無しの実戦であり、実戦は流血を伴う訓練であるといえるほどである。また、ローマの軍団兵は敵の奇襲に不意を突かれることも極度に少ない。敵地に進攻して彼らが最初に行なうことは、敵に向っていくことではなく、防柵をめぐらせた堅固な宿営地を築くことが先行する。

 

・ローマ皇帝の責務は「安全」と「食」の確保である。
IX-P310

ただ、安全の保障が先決する。人々は、安全させ保障されれば、自分たちで自分たちが必要とする「食」は生産はできるのだ。

 

・もしもポンペイウスやキケロ、ブルータスなど元老院主導の共和政派がカエサルに勝利していたら・・・
IX-P334

ローマは共和国でありつづけただろうが、同時に後代のイギリス、フランスのような、本国が植民地を支配する型の帝国になっていただろう。だが、勝ったのはカエサルだった。そしてローマは、本国も属州も一体化することで運命共同体になっていく、普遍帝国への道を歩むことになったのである。

 

・ユダヤ人にとっての自由は神の教えに沿った国家を建設するということ。
IX-P337

もしあなたが、自由の中には選択の自由もあると考えるとしたら、それはあなたがギリシア・ローマ的な自由の概念をもっているということである。ユダヤ教徒の、そして近代までのキリスト教徒にとっての自由には選択の自由は入っていない。まず何よりも、神の教えに沿った国家を建設するということが、この人々にとっての自由なのである。これがユダヤ民族ならその特殊性を受け容れて、パレスティーナに政教一致の建設を許すことの不都合性はどこにあったろう。幸いにも選民思想のユダヤ人には自分たちの生き方を他民族にも広める意欲が少なかった。数が増えすぎては、神に選ばれたる民というありがたみが薄まるからである。帝国のひとすみに祭司階級が統治する国が存在したとしても許容範囲にとどまったのではないか。それで穏健化してくれれば帝国の統治上も好都合ではなかったか。本国ユダヤでその「自由」が達成されたない無念さが根底にあるからこそ問題を起すのが、帝国東方の諸都市在住のユダヤ人であったのだから。

 

・アントニヌス・ピウスは統治者としてよりも、むしろ父親(国家の父)を務めた。
IX-P390

ハドリアヌスとはちがって首都ローマに留まりながら帝国を統治したアントニヌスだったが、彼が心から望み、望だけでなく実行した統治とはまさに、ローマ帝国は一つの大きな家であり、帝国内に住む人はこの大家族の一員であるということの確立であった。「国家の父(パーテル・パトリアエ)」という、皇帝に与えられる尊称をハドリアヌスは、辞退しつづけた末にようやく十年経って受けている。それは彼が、「国家の父」とは皇帝として成した業績に対して与えられるもの、と考えていたからである。反対にアントニヌスは、帝位を継ぐとほぼ同時に「国家の父」の称号を受けた。アントニヌスが「Pater Patriae」を、文字どおりの意味で受け取っていたことを示している。同じくローマ皇帝であったトライアヌスとハドリアヌスは統治者としてその治世をまっとうしたのである。一方、アントニヌスは父親を務めることで一貫したのだった。

〜「XI 終わりの始まり」 より〜 

・ 蛮族が勇猛であったから侵略したのではない。蛮族であったから侵略したのである。
XI-P138

古代のヨーロッパの北東部一帯は、気候に恵まれていないことに加え、狩猟民族であることからも貧しい。貧しければ食べる量も減るから人口も減るのではないかとは、文明国の人の考え方である。狩をして帰った後は他にやることがない。貧しいうえに文明度も低いので、家も一部屋しかない場合が多く、多産は当然の帰結だ。生まれた子を養えるかどうかを考える人がいたとすれば、その人はもう蛮人(バルバリ)ではない。というわけで、ヨーロッパの北東一帯、現代ならば西部と南部を除いたドイツ、ポーランド、スカンディナビア諸国、チェコとスロヴァキア、そして旧ソ連邦の諸国はみな、天候はみな、天候などの自然条件とは無関係に、満水になるや堤が切れてあふれ出る、という状態をつづけていたのである。あふれ出る先は常に南西で、南西部では農耕が盛ん、ゆえに交易も盛んで、豊かであったからだった。狩猟を主とする人々よりも、農耕のほうが生産性は高いのである。蛮族が勇猛であったから侵略したのではない。蛮族であったから、侵略したのである。

 

・ ローマ人は大帝国をつくろうと意図して征服を進めたのではなく、防衛強化を考えて軍事行動をつづけていくうちに自然に大帝国をつくってしまった。
XI-P196

マルクス・アウレリウスの壮大な意図とは、「近蛮族」をローマに併合し属州化することによって「遠蛮族」と直接に接触するようになったときの、帝国の防衛線の要塞化を実現することであった。意図としては悪くない。国家ローマの支配圏の拡大の歴史が、防衛強化の所産であったと言ってもよいからである。ユリウス・カエサルによる北部イタリアの本国組み入れは、ルビコン以南のイタリア半島の防衛強化策であった。同じくカエサルの行なったガリアの属州化は、北部までも含めた本国イタリアの防衛強化策の所産である。カエサルが手をつけ、クラウディウス帝が完了したブリタニアの征服は、ガリアの安全のため、という具合である。ポンペイウスによるシリアの属州化は、大国パルティアへの防衛対策の強化であった。ローマ人ははじめから大帝国をつくろうと意図して征服を進めたのではなく、防衛強化を考えて軍事行動をつづけていくうちに、自然に大帝国をつくってしまった、といっても冗談ではない。

 

・ 歴史家モムゼンはそのときのコモドゥスの決断のその後の成果を「六十年の平和」であったとしている。
XI-P225

『ローマ帝国衰亡史』を皇帝コモドゥスから筆を起こしたギボンを待つまでもなく、ローマ時代からすでに、コモドゥスへの評価は最悪で、彼の皇帝就任は帝国にとっての災難であったと断ずる史家は多かった。その理由は父マルクスの死後に蛮族と結んだ屈辱的な講和、そしてそのために実現できなくなったボヘミア地方の属州化であった。だが、これもコモドゥスがほんとうに判断を誤ったのであろうか。・・・トライアヌス帝によるダキアの属州化がドナウ河下流一帯の防衛に長く役立ってきたのは隠れもない事実である。しかし、ローマ帝国北方の防衛線(リメス)はあくまでもドナウ河であり、ダキアは二重防壁作戦であった。そのため軍団はダキアだけでなく、南岸にも配備されていた。ボヘミアが属州化されても同じことではないか。その負担にローマは耐え続けられたであろうか。・・・防衛には、人もカネもかかる。だから住民は税金を払うことを納得するのだが、ローマ人の考える安全保障には、街道の敷設も橋の建造も町づくりまで入った。これに加えて軍団基地までも置くのだから、国庫への負担は相当な規模になるのを覚悟しなければやれない。・・・属州化されたダキアからも帝国をになう人材は出ていない。もしもボヘミア全域が属州化されても事情は同じであったろう。ローマにとって、広大であっても所詮は橋頭堡であったからであっただ。ならば、その戦略を実行に移すか否かは、征服欲の満足などにはなく、冷徹な政略によって判断されるべきことであった。紀元二世紀末というあの時期、決定的な戦果に持っていけずに十年にもわたって闘いつ づけけていた戦役を終わりにし、蛮族を絶望に追いやらないことを考慮しての温和な条件の講和を結び、ボヘミア地方の属州化の計画を放棄したコモドゥスの講和は、ローマ帝国にとっては正しい選択であったと思う。

 

・ 「取得権」の「既得権」化による影響。
XII-P30

皇帝カラカラは、ローマ市民に課されていた相続税と奴隷解放税の税収を上げるため、「アントニヌス勅令」を発し、属州民のすべてにローマ市民権を与えた。一方で属州税が入らなくなり、税収策として失敗しただけではない。この影響は、第一に従来のローマ市民権所有者から、帝国の柱は自分たちだという気概を失わせた。第二に新たにローマ市民となった属州民から向上心や競争の気概を失わせた。第三に人間はタダで手に入れたものは大切に思わない。つまり、ローマ市民に格上げされた属州民が積極的に帝国を背負う意気を示さない。第四にローマ市民と属州民との境界を撤廃したことで、かえってローマ社会の特質でもあった流動性を失わせてしまった。そして最後に、社会が「名誉ある者」と「卑しき者」の階級に二分化されたこと。人間は所詮、全員平等でいることに耐えられず、何かで差別しないと生きていけないのかもしれない。ローマ帝国の一角がこの法によって崩れた。ローマ崩壊の端緒を作ったのは、敵ではない、ローマ人自身が手を下したのだ。

 

・ 全員に与えたことで、かえって全員が失った、一例。
XII-P87

カラカラ帝による市民権の大盤振る舞いを機に、市民権所有者が増え、控訴の処理がパンク状態になり、皇帝アレクサンデル・セヴェルスは、皇帝と元老院にあった司法上の最終決定権を、各属州の総督に委譲した。この法の成立により、この二十年後から目立つようになるキリスト教徒への弾圧を容易にしたが、それだけでなく、もっと深いところに影響したと思えてしかたがない。これも全員に与えたことで、かえって全員が失った、一例なのであった。(つまり、市民権を全員に与えてことで、かえって属州総督に対する控訴権を失うこととなり、属州総督専横の一因となった。)ローマは、ローマである理由を少しずつ、自らの手で失いつつあったのである。

 

・ 国境を鉄壁化する手段となると、カエサル型か、アウグストゥス型に分かれた。
XII-P96

国境を鉄壁化する手段となると、カエサル型か、アウグストゥス型に分かれたように思う。敵の本拠をたたくことで敵の侵略の意図をくじくやり方か、防衛体制を確立し防衛設備を強化することで、敵の侵略を防ぐやり方か、のどちらかということだ。皇帝たちのうちでも代表格ならば、トライアヌスはカエサル型であり、ハドリアヌスはアウグストゥス型であったと言えよう。

 

・ ローマ帝国の衰退は、これら軍人皇帝たちの輩出に起因するというのである。
XII-P129

これ(マクシミヌス・トラクス)よりはじまる50年を軍人皇帝の時代と呼ぶ。軍団が自分たちの司令官を、元老院の意向など無視して皇帝にかつぎあげ、それによって迷走の半世紀がはじまったというのだ。そして、ローマ帝国の衰退は、これら軍人皇帝たちの輩出に起因するというのである。しかし、その要因を軍人出身の皇帝たちだけに帰すのも納得できない。カラカラもアレクサンデル・セヴェルスも、ミリタリーではなく、シビリアンに属す皇帝だったが、そのシビリアンがローマの衰退を促す種を蒔いたのではなかったか。(中略)軍人皇帝の輩出も3世紀という時代の要請に応えた現象の一つではないかと思っている。軍人皇帝であったというだけで非難するのは、シビリアン・コントロールという現代の概念で過去まで律しようとする、アレルギーの一種ではないかとさえ思う。ただし、仮に時代の要請であったとしても軍人皇帝に、軍人出身であるがゆえのマイナス面がなかったのではない。それどころかマイナスもあったことが迷走の要因になったのだ。(中略)ちなみにローマ帝国の「シビリアン」とは元老院出身者であり、「ミリタリー」とは、軍団でキャリアを重ねた者と考えても良い。そして、もう一つ、超一流のミリタリーでありながら、超一流のシビリアンでもある、という人々がいる。ユリウス・カエサルがこの代表例だが、帝国の中期までは、カエサルほどではなくても、軍事の重要性を認識しそれに精通していた皇帝は少なくなかった。

 

・ 三世紀のローマ帝国の特質の一つは、政略面での継続性を失ったことである。
XII-P174

それ以前は、たとえ悪帝と断罪された人の死後に帝位を継いだ皇帝でも、先帝の行った政策で良策と判断したものは、継続しただけでなくさらにそれを発展させるようなことまで、迷うことなく行ってきたのだった。(略) 哲学や芸術ではギリシア人に及ばず、体力では肉食民族のガリアやゲルマンの民に劣り、技術でさえもエトルリア民族の教えを受けることで、あれほどのインフラストラクチャーの完備を可能にした技術立国になり、経済の才能でもカルタゴやユダヤの人々にはるかに及ばなかったのがラテン民族だったが、そのローマ人がこれらの諸民族を傘下に収める大帝国を築きあげ、しかも長期にわたってその維持に成功してきた真因は、実にこの、持てる力の合理的で徹底した活用への執着、にあったのだ。