Title9-3.GIF (2758 バイト) 1937年ノモンハン事件関連年表 クロニクル「日本」  
ノモンハン 日本の動き ソ連の動き ドイツ他欧州の動き
5/4,バルシャガル高地を偵察していた外蒙兵を包囲・攻撃 5/3,平沼首相、ヒトラーとムッソリーニに三国同盟に関するメッセージを送るも有田外相、米内海相の抗議にあい、消極的な内容にとどまる。 スターリン、リトビノフ外相を退任させ、モロトフに外相を兼任させる(リトビノフはヒトラーが毛嫌いしているユダヤ人であったことからヒトラーの機嫌をとるためとの見方もある)。  
5/10,ハルハ河巡察中の満州国警察隊、外蒙側から射撃を受け応戦 5/7,五相会議で板垣陸相の三国同盟積極案は他の反対に遭う
陸軍の思惑は三国同盟により中国において日本軍活動の障害となっているイギリス、ソ連をけん制すること。
 
5/11,外蒙軍約60名の越境に対して700名と報告し満軍が日本軍に援軍を依頼、これが本格的な戦闘へ発展する
   
5/9,天皇、閑院宮参謀総長に対し参戦を含んだ三国同盟を拒否
5/14,日本軍の出動に対し、外蒙軍は撤退する。 5/21,外相モロトフが駐ソ連日本大使東郷茂徳にノモンハンにおける抗議 5/22,独伊軍事同盟締結
 
5/28,ハルハ河東岸に進出した外蒙軍・ソ連軍に対し日本軍が出動。ソ蒙軍の猛攻により東中佐の捜索隊は全滅 6/2,スターリンはジューコフ中将をノモンハンに派遣することを決定  
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ジューコフは指揮所をハルハ河付近に前進させる 6/4〜8,ノモンハン事件の戦訓をまとめ、演習を実施(事件は終了したと判断) ゾルゲは日本は本格的な戦争を決意しない、しかし関東軍の独走傾向があることを報告  
6/18,ソ連が日本軍拠点を爆撃 6/14,天津租界での暗殺事件の犯人引渡しを要請し、英仏租界隔離を断行 スターリンはジューコフの要請を上回る兵力を増援  

 

6/20,ソ連軍事力を過小評価した日本の作戦命令が下達
6/27,関東軍独走によるタムスク爆撃      
6/29,参謀本部は関東軍に対しノモンハンの戦線拡大しないよう指示      
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7/1,小松原師団長の命令により、第二十三師団15,000名が展開し進撃。夜、フイ高地を占領      
7/2,第二十三師団、ハルハ河渡河 7/2,参謀次長がはじめて天皇に攻撃計画を奏上    
7/3,ハルハ河西岸でソ連軍と本格的な戦闘となり苦戦。半日にして東岸へ“転進”し、東岸のソ蒙軍に攻撃を集中 7/5,板垣陸相が寺内大将のナチス党大会出席を上奏するも、天皇はこれを認めず    
7/5,東岸へ渡河後、軍橋を爆破、以後も日本軍は白兵戦で継続   7/18,板垣陸相は五相会議でノモンハン事件を外交交渉に移したい意向表明  
7/20,参謀本部は磯谷参謀長を東京へ出頭させ、収拾を図るも合意に至らず      
7/23,日本軍は砲兵を中心とした攻撃を開始     7/23,米が日米通商航海条約廃棄を表明
7/25,守勢持久のため築城準備命令      
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8/1・2と7・8,ソ連の攻勢 8/3,板垣陸相、閑院宮参謀総長ら日独伊三国同盟締結に向け陸軍の結束を確認。陸相辞任を切り札に。   8/3,独外相リッペントロップからソ連外相モロトフへ、東欧における反コミンテルン協定撤回を伝達
  8/4,第二十三師団を第六軍の下に置き、関東軍の影響力を弱ようとした。第六軍司令官荻洲中将、参謀長藤本少将。   8/4,英仏がソ連に軍事使節団派遣を決定(スターリンが独と英仏双方から求愛を受ける立場となる)
8月半ばまでにソ蒙軍5万7,000人が集結。 8/8,板垣陸相は五相会議で独提示条件をそのまま受け入れ軍事同盟を締結することを主張。陸相辞任も辞さず、と発言し、平沼首相ら反撥。 8/12,スターリンは独ソ間の問題を論議する用意がある旨をヒトラーに伝達 8/12,ヒトラーは日本の状況報告を受け三国同盟締結が困難であると判断
  8/11,海軍は陸軍に対して非常警戒体制を敷く 8/17,英仏ソ間のモスクワでの軍事会談は進展せず延期 8/14,ヒトラーは鷹の巣山荘で司令官たちにポーランド攻撃の決意を伝える
      8/16,ヒトラーはスターリンに独ソ不可侵条約と日ソ間の仲介を提案
      8/18,独外相リッペントロップよりモスクワ招聘を請願する電報がスターリンに届く
      8/19,スターリンから8/26か27に独外相モスクワ招聘が伝えられる
8/20,ソ連軍による大攻勢 8/21,駐独大島大使から独ソ不可侵条約調印予定を知らされる 8/21,スターリンは23日のリッペントロップ外相のモスクワ訪問歓迎を伝える 8/20,ヒトラーは8/23までの外相訪問を要望(8/26にポーランド進攻を計画していたため)
8/22,ソ蒙軍優勢なるも、第六軍は東部への攻勢移転の命令を下す   8/22,ソ連外相代理ロゾフスキーから東郷大使に対し停戦交渉の提案。停戦については合意するも条件について次回9/9に交渉となる(ノモンハンの第六軍がこれを知っていれば攻勢移転はしなかったはず) ヒトラーは独ソ不可侵条約が英仏に動揺を与えないことに落胆
駐独英大使ヘンダーソンに独とポーランドの問題に干渉しないように要求するも効果なし
小松原師団長からの攻勢移転の命令に対し須見大佐が抗命   8/25,英・ポーランド同盟条約調印
8/24,第七師団の残留主力部隊を後方支援とし、攻勢にでる   8/23,独ソ不可侵条約調印 8/26のポーランド進駐を延期
8/27,ソ蒙軍の攻勢に、孤立した各部隊は次々に全滅、部隊長も自刃するもの多し 8/28,独ソ不可侵条約の衝撃により平沼内閣総辞職    
8/28,関東軍は第二十三師団が潰滅状態となり、さらに他の四個師団により反撃を計画      
8/30,阿部新内閣成立、畑陸相、吉田海相(元聯合艦隊司令長官)。山本五十六海軍次官は連合艦隊司令長官に就任。
8/29,荻洲第六軍司令官の撤退命令(命令が全軍に到達せず部隊ごとに抗戦続く)   8/30,ヒトラーはポーランドに十六か条の要求を提示するが、拒否される
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9/2,関東軍はなおも反撃準備の態勢 8/30,ノモンハン事件作戦終結の天皇命令   9/1,ポーランド進攻〜第二次世界大戦はじまる
  9/3,参謀本部よりノモンハン方面でのすべての作戦中止命令   9/3,英チェンバレン首相、仏ダラディエ首相が独に宣戦布告
  9/6,軍司令官から東京の参謀総長宛に戦場の死体掃除の意見具申(関東軍はこれを機に再び進攻を策していた)    
  参謀総長は意見具申を却下    
  中島参謀次長、植田軍司令官、磯谷参謀長は予備役(引退)    
  辻参謀に対しては責任を問う声もあったが、一部の幕僚により現役に残される    
  服部作戦班長は兵学校付    
  幕僚に対する処断が甘い一方、部隊長クラスに対しては、無断撤退などの責任を問い、戦場や病院で自決を迫った    
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日本軍 第六軍

 

ソ連軍

出動 58,925人   出動
戦死 7,720人   戦死 6,831人
戦傷 8,664人   戦傷 15,251人
戦病 2,362人   戦病 701人
生死不明 1,021人   生死不明 1,143人
損耗 198,768人   損耗(蒙軍を含む) 24,492人

※第二十三師団だけに限っても、出動15,975人、戦死戦傷12,230人、損耗率は76%になった。

 

参考資料;『ノモンハンの夏』半藤一利著 文藝春秋社 1998年4月

 

 著者は特にこの二人に強い憤りを隠していないが、辻、服部の参謀部が日本軍を煽り、無責任にノモンハン事件を拡大させ、数千人を強力なソ連軍に突入させて死なせて、それが一時的な左遷を経て、再び参謀部に復帰し、今度は太平洋戦争において数十万人の兵隊を殺すことになる。

 それでいて、現場の部隊長が弾尽きて、司令部と連絡がつかず、やむなく撤退したときに命令によらず持ち場を離れたという理由で自決を強要されるなどし、幕僚上層部は一時的な左遷などで済ませている。

 また、本書では「三宅坂の秀才たち」と呼ばれている参謀本部のエリートたちも、関東軍の暴走を怒りながらも、軍人として相対すると腰砕けになってしまい、それをコントロールしようとしなかった様子も描かれている。

 日露戦争から学んだのはソ連側であって、機甲部隊などを強化したが、日本軍はソ連軍を根拠なく見下しており、精神主義に偏っていた。ソ連側の記述にも「日本軍の下士官兵は狂信的で頑強であり、勇猛だが、上層部は近代戦の要諦を学ぼうとせず、“皇軍不敗”という根拠なき確信を抱いている」と評されている。


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