| クロニクル 豊臣秀吉 天下統一 |
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戦国時代(室町時代後期)(#208)
織田信長 天下布武(#204)
戦国時代の群雄(#207)
| 織田信長が本能寺に明智光秀に殺され、毛利攻めに出向いていた羽柴秀吉は、中国大返しで明智光秀を破り、信長の後継者争いの中で柴田勝家を破り、徳川家康と和睦、九州平定、陸奥 伊達政宗などを従わせ、総仕上げとしての小田原 北条攻めにより、天下統一を成し遂げた。 |
| ■ クロニクル「豊臣秀吉 天下統一」 | ||||||||
| 年 | タイトル | |||||||
| 織田信長 天下布武(#204) |
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| 1582年 (天正10年6月) |
信長、武田を滅亡させ、上杉・毛利を抑える。 | |||||||
| 1582年 (天正10年12月) |
信長、本能寺で明智光秀に敗死。羽柴秀吉が光秀を討ち、後継者に。 | |||||||
| 1584年 (天正12年) |
秀吉、柴田勝家を滅ぼすが、織田信雄・徳川家康と対立。 | |||||||
| 1587年 (天正15年) |
関白豊臣秀吉となり、関東から四国、九州までを平定。 | |||||||
| 1590年 (天正18年) |
豊臣秀吉、北条氏を下し、天下統一を成す。 | |||||||
| 1593年 (文禄2年) |
秀吉の朝鮮出兵(文禄の役) | |||||||
| 1598年 (慶長3年) |
秀吉、朝鮮へ再出兵(慶長の役) | |||||||
| ■ 豊臣秀吉 天下統一 (年表詳細) | ||||||||
| 年 | 月 | 出来事 | ||||||
| 1582年 (天正10年) |
6月 | 2日未明、本能寺の変;明智光秀、13,000の兵で本能寺を包囲し、信長を殺す。 | ||||||
| 信長の嫡男信忠も二条御所で自害。 | ||||||||
| 明智軍に従軍した本城惣右衛門が江戸時代に著した『本城惣右衛門覚書』では、本城らは京に徳川家康が来ているので、家康を討つのだと思っており、信長を討った時ですら相手が信長と思っていなかったと回想している。 | ||||||||
| 3日 羽柴秀吉に「本能寺の変」第一報が届く。 | ||||||||
| 4日 羽柴秀吉、高松城主 清水宗治の自刃をもって毛利氏と講和。”中国大返し”*2 | ||||||||
| 8日 明智光秀、近江 坂本城に入る。 | ||||||||
| 細川藤孝は上役であり、親戚でもあった明智光秀の再三の要請を断り、剃髪して田辺城に隠居、嫡男忠興に家督を譲った。同じく光秀と関係の深い筒井順慶も参戦を断る。 | ||||||||
| 本能寺の変が起こると、旧武田領の各地で武田遺臣による国人一揆が起こる。織田家中の同僚である森長可、毛利長秀らが即座に領地を放棄し美濃へ帰還する中、滝川一益と河尻秀隆は甲斐の領国に留まった。 | ||||||||
| 15日;山崎の戦い;秀吉、明智光秀を討つ。 | ||||||||
| 16日;信長の死に乗じ、小田原城の北条氏直(氏政の嫡男)ら総勢5万6千の北条軍が上州倉賀野に侵攻し、滝川一益が厩橋城(現 前橋市)で迎え撃ち、18日の初戦は滝川勢が勝利したが、翌19日の合戦では北条勢が勝利した。滝川一益は伊勢に逃げた(その後蟄居)が、一益の織田方での地位は急落した。 | ||||||||
| 18日、家康の甲斐横領の意図を察知した河尻秀隆は、調略に来た本多忠政を斬殺して家康との断交の意思を明確にする。忠政の家臣の呼びかけによって結集した武田遺臣に襲撃され、秀隆が討ち取られる。家康、北条氏との争奪戦を制し甲斐を領する。 | ||||||||
| 27日、清須会議;織田家の後継を信雄と信孝で争っていたが、4人の宿老~羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興が中心となって、後継を三法師(信長の長男信忠の嫡男、当時3歳)に決定。 | ||||||||
| 徳川家康、清須会議の後、甲斐・信濃攻めに着手、武田遺臣らを用いた工作を開始するなど短期間で領国を拡大させる。 | ||||||||
| 織田北征軍が領国に引き上げた隙に、上杉家家臣須田満親が魚津城を回復。 | ||||||||
| 7月 | 秀吉、山城検地を行う。 | |||||||
| 織田家家督の問題が片付いた後、秀吉は畿内を手中に収め、同じ宿老である丹羽長秀・池田恒興を実質的麾下に置く。織田家の主導権を握った秀吉が、天下人を継いだかのような行動を取り始めたために、織田信孝はこれと反目して、同じくこれに不満を持っていた柴田勝家に接近。*wiki | ||||||||
| 10月 | 勝家と信長の妹お市の方との婚儀が岐阜城で行われる。これを仲介したのは織田信孝だといわれるが、秀吉が仲介したとの説もある。 | |||||||
| 柴田勝家は堀秀政を介して秀吉が清洲会議の決定に違反していると通告し、諸大名に弾劾状を送る。 | ||||||||
| 10日から15日にかけて大徳寺で秀吉自身を喪主とした信長の葬儀が大々的に行われる。織田家からは異母弟・羽柴秀勝、信長の乳兄弟でもあった池田恒興・古新親子が参加したが、当主・三法師、その後見人の信雄、信孝、宿老の勝家、滝川一益はこれに出席できず。*wiki | ||||||||
| 羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の三宿老が、清洲会議の決定を反故にし、織田信雄を暫定的な織田家の当主として主従関係を結ぶ。後に徳川家康も賛同して信雄を支持した。*wiki | ||||||||
| 11月 | 柴田勝家は前田利家を介して秀吉と一旦和睦。これは勝家の領土が雪国で、冬は行動が制限されるため。それを見抜いた秀吉は、逆に前田利家を調略。*wiki | |||||||
| 12月 | 秀吉、織田信孝が三法師を手放さないことを理由に挙兵。丹羽長秀、池田恒興ら諸将の多くも秀吉を支持して加勢。雪で柴田勝家が動けないままに、秀吉は長浜城の柴田勝豊(勝家の甥)を降し、信孝の岐阜城を包囲し降伏させる。*2*wiki | |||||||
| 1583年 (天正11年) |
2月 | 上杉景勝、秀吉の仲介により、織田政権と和睦。 | ||||||
| 4月 | 賤ケ岳の戦い;羽柴秀吉、柴田勝家を破る。勝家・夫人お市(信長妹)、越前国北庄城で自害。 | |||||||
| 秀吉に与した上杉景勝、佐々家臣の丹羽権平から宮崎城を奪還する。 | ||||||||
| 秀吉、加賀に進み前田利家、佐々成政らを帰順させる。*2 | ||||||||
| 5月 | 織田信雄、尾張で柴田勝家側に立った織田信孝を自害させる。*2 | |||||||
| 8月 | 秀吉、大坂城築城を開始(1585年完成)。 | |||||||
| この年 | 旧武田領の甲斐・信濃・上野(一部)をめぐり、徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈する。依田信蕃の調略を受けて滝川配下から北条に転身していた真田昌幸が徳川軍に再度寝返り、その執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条軍は、板部岡江雪斎を使者として家康に和睦を求めた。和睦の条件は、上野国を北条氏が、甲斐国・信濃国を徳川氏がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫が氏直に嫁ぐというものであった。こうして、家康は北条氏と縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐・信濃(北信濃四郡は上杉領)・駿河・遠江・三河(碧海郡(矢作川以西)を除く)の5か国を領有する大大名へとのし上がった。 | |||||||
| 1584年 (天正12年) |
3月 | 徳川家康、尾張の清洲城で織田信雄と会い、羽柴秀吉と敵対する。*2 | ||||||
| 4月 | 小牧・長久手の戦い;徳川家康・織田信雄、羽柴秀吉を破る。 | |||||||
| 秀吉に与した上杉景勝、佐々家臣の丹羽権平から宮崎城を奪還する。 | ||||||||
| この戦いでは、甥の三好信吉(後の羽柴秀次)が失態により、秀吉に叱責されたが、その後の紀伊・四国への遠征では羽柴長秀が秀次と共に従軍し、長秀は秀吉に対する秀次の信頼回復に尽力した。またこの頃、「長秀」の名乗りを、「秀長」に改めている。 | ||||||||
| 秀吉側の織田家家臣池田恒興、森長可が討ち死。 | ||||||||
| 6月 | ポルトガル船、平戸に来航。 | |||||||
| 11月 | 織田信雄、羽柴秀吉と単独講和。 | |||||||
| 12月 | 秀吉、家康と和睦。 | |||||||
| 1585年 (天正13年) |
1月 | 秀吉、知行替えを行い、織田信雄の所領を縮小。信雄は大坂城をしようとしなかったが、徳川家康に促され、大坂城に登城し、秀吉の軍門に下る。 | ||||||
| 4月 | 秀吉、高野山を帰順させ、武装解除させる。*2 | |||||||
| 6月 | 羽柴秀長(秀吉の弟)、四国の長曾我部元親攻めに向かう。*2 | |||||||
| 7月 | 羽柴秀吉、関白となる。*2 | |||||||
| 秀吉、弟 秀長、黒田孝高、宇喜多秀家、毛利の小早川隆景ら10万の大軍を送り、長曾我部元親が降伏(秀吉、四国平定。四国には阿波三好勢力などが残っていたが、元親は四国統一目前だった)。*2 | ||||||||
| 8月 | 富山の役;佐々成政が立て籠もる越中国富山城を秀吉が大軍で包囲、降伏させる。上杉景勝も秀吉陣営に加わる。 | |||||||
| 9月 | 羽柴秀吉、豊臣姓を賜る。*2 | |||||||
| この年 | 秀吉、石山本願寺に味方するなど抵抗勢力だった紀伊の雑賀衆、根来衆を攻め、これを平定。 | |||||||
| 1586年 (天正14年) |
5月 | 徳川家康、朝日姫(秀吉の妹)を正室(継室)にむかえる。*2 | ||||||
| 8月 | 豊臣秀吉、黒田義孝・小早川隆景らに九州攻めを命じる。*2 | |||||||
| 10月 | 秀吉、大政所(秀吉の母)を人質として徳川家康におくる。*2 | |||||||
| 島津義久、大友氏攻撃のため日向に出陣。*2 | ||||||||
| 徳川家康、諸将らと大坂城で豊臣秀吉に謁見。*2 | ||||||||
| 12月 | 豊臣秀吉、戦闘停止と領地確定を秀吉に委任させる惣無事令を発する。*2 | |||||||
| 島津家久、豊臣方の仙谷秀久・長曾我部信親らを豊後の戸次川で破る。*2 | ||||||||
| 1587年 (天正15年) |
3月 | 豊臣秀吉、九州 島津討伐のため大坂城を出立。*2 | ||||||
| 4月 | 豊臣秀吉、日向の根白坂で島津義久らを破る。*2 | |||||||
| 5月 | 島津義久、豊臣秀吉に降伏;豊臣秀吉 九州平定。*2 | |||||||
| 6月 | 豊臣秀吉、九州の国分けを行う。*2 | |||||||
| 秀吉、バテレン追放令を発布。京の南蛮時などを取り壊す。*2 | ||||||||
| 1588年 (天正16年) |
7月 | 秀吉、刀狩令・海賊取締令を出す。*2 | ||||||
| 8月 | 島津義久、豊臣秀吉の命により琉球王国に日本への服属を促す。*2 | |||||||
| 1589年 (天正17年) |
7月 | 秀吉、信濃 真田昌幸に上野 沼田領の1/3を北条氏に渡すよう命じる。*2 | ||||||
| 9月 | 秀吉、妻子を京に住まわせるよう諸将に命じる。*2 | |||||||
| 10月 | 北条氏邦(当主氏政の弟)の家臣・猪俣邦憲による名胡桃城奪取事件が起きる。 | |||||||
| 11月 | 秀吉、約定に反して真田氏の名胡桃城を奪取した北条氏に誅伐を通告し、上洛の上で説明を求める。*2 | |||||||
| 12月 | 氏直は、氏政抑留の可能性、国替えの可能性、家康上洛時と同様の保証を求めるなどしたが、上洛を引き延ばす氏政、氏直に対し、秀吉は豊臣政権への従属拒否と見て、北条追討の陣触れを発す。 | |||||||
| 1590年 (天正18年) |
1月 | 秀吉、陸奥の伊達政宗に小田原城への参陣を催促。 | ||||||
| 3月 | 秀吉、相模の北条氏討伐のため小田原城に向けて聚楽第を出陣。*2 | |||||||
| 4月 | 秀吉、北条氏が籠城する小田原城を包囲。*2 | |||||||
| 5月 | 佐竹義宣、南郷において政宗と対峙していたが、1万余の軍勢を率い、北条方の城を落としつつ小田原へ進軍し、秀吉に謁見して臣下の礼をとる。 | |||||||
| 6月 | 伊達政宗、小田原陣中の秀吉のもとを訪れ、臣従することを奏上。*2 | |||||||
| 7月 | 小田原城の北条氏直が降伏。(豊臣秀吉の全国統一) | |||||||
| 父北条氏政は切腹、家康の娘婿である氏直は助命され、子の氏規、さらにその子 氏盛が河内狭山藩主となり明治維新まで存続。 | ||||||||
| 秀吉、徳川家康に北条氏の所領である関東への移封を命じる。*2 | ||||||||
| 秀吉は家康の旧領(駿遠三甲信5ヵ国)の119万石を、信雄に給付すると決めたが、信雄はこれを固辞して先祖相伝の地である伊勢・尾張をこのまま領していたいと願い出た。秀吉は激怒し、信雄を下野国那須烏山(捨扶持が2万石)追放に処した。 | ||||||||
| 8月 | 徳川家康、江戸城に入る。*2 | |||||||
| 9月 | 秀吉、京に戻る。*2 | |||||||
| 1591年 (天正19年) |
1月 | 秀吉を補佐してきた豊臣秀長(秀吉の弟、大和・紀伊・和泉・河内、大納言)病死。*wiki | ||||||
| 2月 | 千利休、秀吉の命により自害。 | |||||||
| 8月 | 秀吉、翌年の朝鮮出兵を発表。諸将に肥前名護屋城の造営を命じる。*2 | |||||||
| 12月 | 豊臣秀次(秀吉の甥)が関白となる。 | |||||||
| 1592年 (文禄元年) |
1月 | 秀吉、3月からの朝鮮出兵を諸将に命じる。*2 | ||||||
| 秀吉、琉球を島津氏の与力とする。*2 | ||||||||
| 3月 | 秀吉、大軍を朝鮮半島におくる;文禄の役 はじまる。*2 | |||||||
| 4月 | 肥後の小西行長ら第一軍が釜山に到着。 | |||||||
| 秀吉、肥後 名護屋城に到着。*2 | ||||||||
| 5月 | 小西行長、加藤清正らが漢城を攻める。*2 | |||||||
| 6月 | 小西行長、黒田長政らが平壌を攻める。*2 | |||||||
| 7月 | 日本水軍、朝鮮 李舜臣の水軍に大敗。*1 | |||||||
| 加藤清正軍、朝鮮の2王子を捕らえる。*1 | ||||||||
| 9月 | 小西行長、明の沈惟敬と会い講和を結ぶ(50日間の休戦)。*2 | |||||||
| 1593年 (文禄2年) |
1月 | 小西行長、明の李如松の攻撃を受け平壌を脱出。*2 | ||||||
| 秀吉、蠣崎慶広に蝦夷地の全権を認める。*1 | ||||||||
| 3月 | 15日 黒田孝高、指揮系統の乱れた現地諸将を統括するため秀吉から軍奉行に任じられ、兵糧奉行の浅野長政と共に再び渡海。*wiki | |||||||
| 4月 | 小西行長らが沈惟敬と会い、講和使節の派遣を約束。*2 | |||||||
| 小西行長らが漢城から撤退。*2 | ||||||||
| 5月 | 21日 黒田孝高、秀吉が画策した晋州城攻略計画に反対し、秀吉を直接説得するため東莱城より名護屋城へ帰国。この行動に秀吉は激怒し、謁見を許されなかった。*wiki | |||||||
| 6月 | 豊臣秀吉、明の使節に和平7か条を提示(文禄の役 終結)。*2 | |||||||
| 8月 | 秀吉側室 淀君、秀頼を出産。*1 | |||||||
| 11月 | 秀吉、台湾に入貢を促す。*1 | |||||||
| 1594年 (文禄3年) |
3月 | 秀吉、伏見城の造営を開始(秋に完成)。*1 | ||||||
| 7月 | 堺商人 納屋助左衛門、ルソン島に渡り、壺など珍品を秀吉に献上。*1 | |||||||
| 8月 | 豊臣秀吉、伏見城に移る。*2 | |||||||
| 9月 | 石田三成、島津領の薩摩・大隅・日向の文禄検地を開始。*1 | |||||||
| 1595年 (文禄4年) |
1月 | 小西行長と陳雲が協議するも決裂。*2 | ||||||
| 7月 | 秀吉、豊臣秀次を高野山に蟄居させる。*2 | |||||||
| 豊臣秀次、高野山で自害(享年28)。*2秀次の子・妻妾30余人を京都三条河原で処刑。*1 | ||||||||
| 秀吉、聚楽第を破却。*1 | ||||||||
| 秀吉、徳川家康・前田利家ら諸将に子の拾(秀頼)への忠誠を誓う起請文を提出させる。*2 | ||||||||
| 1596年 (慶長元年) |
1月 | 小西行長、明の副使 沈惟敬を連れて日本に向かう。*2 | ||||||
| 6月 | 沈惟敬、伏見城で豊臣秀吉に謁見。 | |||||||
| 閏7月 | 京畿大地震、方広寺の大仏殿倒壊。*1 | |||||||
| 9月 | 明の正使が豊臣秀吉に謁見。金印・冠服を授け、天子(皇帝)の言葉を告げたが、秀吉はその言葉に激怒。再び朝鮮に出兵することを決める。 | |||||||
| 11月 | 京畿地方のキリスト教徒26人捕らえられる。長崎で磔刑(26聖人殉教)。*1 | |||||||
| 1597年 (慶長2年) |
3月 | 黒田長政・加藤清正らが朝鮮半島(梁山・西生浦など)に城を築く。*2 | ||||||
| 6月 | 慶長の役;秀吉、小西行長・加藤清正らに攻撃を命じる。 | |||||||
| 7月 | 小西行長・藤堂高虎らが、巨済島で朝鮮水軍を破る。*2 | |||||||
| 8月 | 宇喜多秀家・島津義弘らが朝鮮の南原城を攻略。*2 | |||||||
| 9月 | 日本水軍、鳴梁で朝鮮水軍に敗れる。*2 | |||||||
| 12月 | 蔚山城の加藤清正・浅野幸長らが、明・朝鮮の連合軍に包囲される。*2 | |||||||
| 1598年 (慶長3年) |
1月 | 秀吉、越後の上杉景勝を会津120万石に加増し国替え。*2 | ||||||
| 3月 | 小西行長、明との和平を画策。*2 | |||||||
| 秀吉、醍醐寺三宝院で花見の宴を行う。*1 | ||||||||
| 5月 | 宇喜多秀家・毛利秀元・藤堂高虎ら諸将が朝鮮より帰国。*2 | |||||||
| 7月 | 秀吉、徳川家康や前田利家らに秀頼に忠誠を誓わせる起請文を提出させる。 | |||||||
| 8月 | 18日 豊臣秀吉が伏見城で没(享年63)。*2 | |||||||
| 22日 豊臣家の五奉行、朝鮮に出兵している諸将に撤退を告げる使者を送る。*2 | ||||||||
| ※解説 | 五奉行;政治上の実務やお金、政治の細かい仕事をわけ合って行った。石田三成、浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以。 | |||||||
| 11月 | 明・朝鮮水軍、日本軍撤退を遮断、激戦。朝鮮水軍統制 李舜臣戦死。*1 | |||||||
| 12月 | 島津義弘ら朝鮮に出兵した日本軍の撤退が完了(慶長の役 終結)。*2 | |||||||
| 1599年 (慶長4年) |
1月 | 豊臣秀頼が伏見城から大坂城へ移る。*2 | ||||||
| 2月 | 豊臣家大老 前田利家、徳川家康を訪問。*2 | |||||||
| ※解説 | 五大老;大きな力を持つ大名たちで、話し合いで大切な決め事をしていた。徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝 (最初は小早川隆景)。 | |||||||
| 3月 | 徳川家康、病床の前田利家を訪問。*2 | |||||||
| 閏3月 | 前田利家 没す。*2 | |||||||
| 加藤清正・黒田長政・福島正則ら七将が、五奉行の石田三成を襲撃。*2 | ||||||||
| 石田三成、近江の佐和山城へ蟄居。奉行職を解かれる。*2 | ||||||||
| 徳川家康、京の伏見城に移る。*2 | ||||||||
| 8月 | 豊臣家大老の上杉景勝、会津領内の支城や山道の整備を命じる。*2 | |||||||
| 9月 | 家康、大坂城内の西の丸に移る。*2 | |||||||
| 10月 | 家康、加賀の前田利長討伐を発表。*2 | |||||||
| 1600年 (慶長5年) |
3月 | 家康の元に上杉景勝に謀反ありとの訴えが届く。*2 | ||||||
| オランダ船リーフデ号、豊後に漂着。徳川家康、アダムズらと会見。*1 | ||||||||
| 4月 | 家康、上杉家家臣 直江兼続に詰問状をおくり、上洛を要請する。 | |||||||
| 直江兼続、家康に返書をおくり上洛の要請を拒否。*2 | ||||||||
| 6月 | 家康、会津の上杉討伐を発表。*2 | |||||||
| 家康、伏見城から江戸城に向けて出発。*2 | ||||||||
| 7月 | 2日 家康、江戸城に入る。*2 | |||||||
| 11日 石田三成、徳川討伐に反対する豊臣家家臣 大谷吉継を説得し、家康と戦うことを決定する。*2 | ||||||||
| 12日 石田三成・大谷吉継・安国寺恵瓊・増田長盛らが軍義を開き、毛利輝元へ協力を要請することを決定。*2 | ||||||||
| 17日 毛利輝元、大坂城に入り西軍の総大将となる。*2 | ||||||||
| 19日 西軍、家康家臣 鳥居元忠が守る伏見城を攻撃。小早川秀秋は西軍として参加。*2 | ||||||||
| 21日 西軍、徳川方の細川幽斎の丹後田辺城を攻撃。*2 | ||||||||
| 21日 家康、会津の上杉景勝討伐に向けて江戸城を出発。*2 | ||||||||
| 24日 家康に石田三成(西軍)挙兵の報せが届く。*2 | ||||||||
| 25日 家康、下野 小山城で諸将と軍義を開き、反転して西に軍を向けることを決定(小山評定)。*2 | ||||||||
| 8月 | 1日 東軍 鳥居元忠が守る伏見城が落城。*2 | |||||||
| 小早川秀秋は西軍の伊勢方面攻略軍に加わらず、京都や近江に在陣し、一人戦線を離れていた。*wiki | ||||||||
| 11日 三成、美濃の大垣城に入る。尾張を防衛ラインに設定する。*2 | ||||||||
| 23日 東軍の福島正則・池田輝政、西軍が守る美濃 岐阜城を攻略。*2 | ||||||||
| 24日 徳川秀忠、東軍の別動隊を率いて中山道を進軍。*2 | ||||||||
| 9月 | 1日 会津討伐から引き返した徳川家康が、東軍の本体を率いて江戸を出発。以後、東海道を通り関ケ原へ進軍。*2 | |||||||
| 3日 大谷吉継、関ケ原に着陣。*2 | ||||||||
| 6日 徳川秀忠率いる東軍の別動隊が、信濃の上田城に拠る真田昌幸・信繁(幸村)と交戦。秀忠軍は上田城を攻略できず信濃にとどまることに。 | ||||||||
| 7日 毛利秀元ら西軍主力部隊が関ケ原の南宮山に布陣。*2 | ||||||||
| 8日 西軍が、東軍の京極高次が守る大津城を攻撃。*2 | ||||||||
| 11日 秀忠、真田昌幸・信繁の上田城に押さえを残して関ケ原に向かう。(関ケ原には間に合わず)。*2 | ||||||||
| 13日 豊前中津の黒田孝高(如水)が北九州で挙兵(西軍)、豊後の石垣原で大友義統と戦闘を開始。*2 | ||||||||
| 14日 家康、美濃の赤坂に着陣。西軍の小早川秀秋が関ヶ原の松尾山城 伊藤盛正を追い出して入城し布陣。*2 | ||||||||
| 15日 関ケ原の戦い;早朝、東西両軍が関ケ原に布陣。戦闘が開始される。 | ||||||||
| 午前中、西軍諸将の奮戦もあり、一進一退の攻防が続く。正午過ぎ、西軍の小早川秀秋が寝返り、東軍が有利となる。 | ||||||||
| 15時頃 西軍の敗北で終わる。この頃、直江兼続が出羽の長谷堂城を攻撃。九州では黒田如水が大友義統を降伏させる。*2 | ||||||||
| 21日 石田三成、関ケ原に近い伊吹山山中で捕らえられる。 | ||||||||
| 10月 | 1日 石田三成・安国寺恵瓊・小西行長ら西軍の将が処刑される。*2 | |||||||
| 10月半ば 小早川秀秋は備前の岡山城を接収。備前に残っていた宇喜多氏の家臣による抵抗はなく、秀秋は無事に岡山城を開城させた。秀秋は戦後の論功行賞において、備前・美作・備中東半にまたがる、播磨の飛び地数郡以外の旧宇喜多秀家領の岡山55万石に加増・移封された。 | ||||||||
| ■■■日本の合戦年表■■■ | ||||||||
| 資料 | *1 『世界史大年表』 石橋秀雄他 |
| *2 『日本の合戦年表』 (地人館編著 朝日新聞出版) | |
| *3 『信長公記』 | |
| 『日本史年表・地図』 (吉川弘文館) |