Title9-3.GIF (2758 バイト) 被差別部落民の歴史 探究テーマ史 #54  


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757年 天平宝字元年 養老律令 施行
律令制の中で、人民を良賤に分け、賤を稜戸、官戸、家人、公奴婢(くぬひ)、私奴婢(しぬひ)の5種に分けた。
902年 延喜2年 延喜の荘園整理令
公地公民の制が崩れ、荘園制に移行する中で、「奴婢停止令」により国家が定めた賤民の身分の存在を否定。
以降、徳川幕府成立まで、制度としての賤民は存在しなかったことになる。
荘園の内外で、雑役~例えば、清掃・土木・運搬、警備、手工業、呪術、芸能、狩猟、牛馬の肉を売るなど~に
携わり、年貢(地子)のかからない河原、道路の一部などに居住した。これらに対し、「非人」「屠児」など
差別的な呼び名が用いられ、一般に蔑視の対象となったと考えられる。
中世の被差別民は、人格的な隷属関係を持たない無視された存在、捨てられた者という意味の「非人」が中心的な存在であった。
「非人」はもともと罪を犯して本姓を除かれた者などをいう言葉であったが、しだいに
・居住する地域の状況から、「河原者」「坂者」
・なりわいから、「屠児」「声聞師(しょうもじ)」
・役目から、「犬神人(いぬじにん)」「清目(きよめ)」
、、、などと呼称された。
「屠児」などは人間や牛馬の死体処理や皮なめしにもたずさわったが、しだいに被差別民の多くがこれらの仕事に従事するようになったことと、仏教思想の影響を受けた神道の触穢(しょくえ)観念、殺生の禁止、肉食忌避の風習が貴族の間に生じるに至ったことが相まって、賤業視されるようになったものと思われる。
牛馬の屠殺業は、740年(天平12年)の馬牛屠殺禁止令以来、近代に至るまで、日本では存在しない。
鎌倉・室町時代 中世における寺社は、かつての広大な所領(荘園)を武士に蚕食され、衰退したが、それを補うため、商業や手工業、交通運輸などの
権益を手に入れるため、えた、非人、河原者などを強力に抱え込んで、支配権を確立しようとした。
足利幕府は、洛中・洛外をはじめ、山城、近江などの支配地域の治安維持や土木事業などに、多くの河原者を使った。後の城郭建築の基礎となる石垣づくりも、中世の河原者などによって生み出されている。枯山水の技術者から銀閣寺の庭を造った善阿弥、能楽を磨いた観阿弥・世阿弥など将軍にも近侍する者もあらわれるようになった。
戦国時代 室町末期の応仁の乱以降、下剋上の大変動期となり、例えば領主権力の必要によって把握され、一定の編成を受けて、脱賤した者も多かった。しかし、それらは一部であり、近世に引き継がれて定着していった。
江戸時代 徳川幕藩体制の封建的身分制度において、賤民が固定化された。
農民を土地に縛り付けて働かせる封建社会では、身分を士農工商に分け、その下に賤民が位置付けられ、それぞれの身分からの移動も他の身分の者との結婚も許されず、土地を離れることもできなかった。そのような中で、近現代の部落問題につながっていく。
幕末期 幕末動乱期において、部落民に帯刀を許し、戦乱に駆り立てるようなこともあったが、一部の先覚者が部落民の実況に義憤を持つなど。
千秋有磯『治穢多之議』;尊王論から新しい国家を展望し、穢多の身分還元を論じる。
渋染一揆;岡山藩で起きた穢多による百姓一揆。差別的な御触れ書に対し、嘆願した。
1871年 明治4年 明治政府による解放令により、四民の下に置かれた賤民を、身分・職業ともに平民と同様とする、とした。しかし、「新平民」という蔑称が使われるような状況が残った。
一方で、中江兆民は「天賦人権論」の立場から部落解放を提唱。
1902年 明治35年 備作平民会(岡山県)設立
1903年 明治36年 大日本同胞融合会(大阪府)設立。日露戦争により実質的な活動はなし。
教養や衛生観念など生活環境の改善など、内発的な運動も始まった。
1906年 明治39年 3/25 『破戒』島崎藤村による自費出版
1913年 大正2年 4月 新潮社版刊行
1914年 大正3年 板垣退助、大江卓らを上に据えた融和団体「帝国公道会」設立。
1918年 大正7年 米騒動において、多くの部落民が参加し、そのエネルギーに危機感を感じた政府は部落民を革命勢力の側に追いやらないために、融和運動を展開。各地に官民共同の融和団体を結成。しかし、米騒動の体験、労農運動の高揚、労働争議、小作争議、社会主義運動などに部落民から積極的に参加する者が現れ、政府の改善事業の欺瞞を批判した。
1922年 大正11年 2月 「藤村全集」第三巻として『破戒』刊行
3月 全国水平社創立大会開催。社会主義運動の高揚を背景として設立され、部落民の差別撤廃を訴え、差別する社会との闘争をめざした。
1923年 大正14年 3府21県に300以上の水平社が結成される。差別的言動に対して、徹底的な糾弾を加えた。
全国の水平社が、部落外の労働者、貧農との提携、労働運動、農民運動との共同闘争を強化するに至り、政府は警戒心を高め、官制の融和団体を上から組織していくようになる。
1927年 昭和2年 11/19 名古屋練兵場での観兵式において、歩兵二等北原泰作が、軍隊内の差別撤廃を掲げて、天皇に直訴する事件が発生。新聞各社も封建思想打破などを取り上げた。
1929年 昭和4年 7月 新潮社版「現代長編小説全集」第六巻として『破戒』刊行。大幅改訂し、「(部落民は)最早過去の物語」との序説。
解放運動からの弾圧が加えられ、『破戒』はこの後、絶版となる。
1931年 昭和6年 12月 全国水平社第10回大会で、一部糾弾活動の混乱や行き過ぎを批判。「穢多」や「新平民」など字句が使われていても侮辱の意志がなければ糾弾しない、ことを確認した。
1938年 昭和13年 11月 全国水平社第15回大会で、「『破戒』の再販指示」を決議した。
この大会で「出征将兵に対する感謝決議」「皇軍慰問、現地視察、代表派遣に関する件」などが可決され、水平社運動も、挙国総動員体制に向けて、時局迎合的に流れて行った。


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資料 島崎 藤村 『破戒』(「『破壊』と差別問題」北小路 健)