| 年 | 
           欧露の拡大・侵略 | 
          アジア・極東の拡大・侵略  | 
        
        
          | BC30〜20世紀 | 
            | 
           日本の縄文期のシベリアは、青銅器文化が起こっており、文明度が高かった。中国(殷・周)に金属冶金を伝えた可能性も。ただし、国家を形成する文化に発展しなかった。 | 
        
        
          | BC8世紀 | 
           この頃からAD1世紀にかけて、クリミア半島を中心にスキタイが強勢となる。 | 
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          | BC3世紀 | 
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           シベリアに丁零(トルコ系遊牧国家)が形成。(バイカル湖〜アルタイ山脈) | 
        
        
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            | 
           シベリアに堅昆(けんこん;トルコ系遊牧国家) | 
        
        
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            | 
           モンゴル高原に匈奴が遊牧大帝国を形成。 | 
        
        
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            | 
           シベリアに4〜5世紀高車(トルコ系遊牧国家)が形成。(バイカル湖〜アラル海) | 
        
        
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            | 
        
        
          |  11世紀 | 
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          | 12世紀 | 
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          | 13世紀 | 
           | 
           モンゴル帝国が強大となる(東はシベリア・サハリン、西はロシアまで)。 | 
        
        
          |  キプチャク=ハン国(1243〜1502年)に支配される。その苛烈な支配は、“タタールの頸木(くびき)”と呼ばれ、その後のロシアの支配に受け継がれていく。 | 
        
        
          |  ノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーの死後、その末子ダニール・アレクサンドロヴィチに与えられた分領がモスクワ大公国の起源である。1271年にダニールは、初代モスクワ公となった。ダニールは、14世紀初頭に版図を拡大し、コロムナ、ペレヤスラヴリ・ザレスキー、モジャイスクを得た。(Wiki) | 
            | 
        
        
          | 14世紀 | 
           ヴォルガ水運の要所にあったモスクワは経済的に発展し、1318年には、ノヴゴロドとモンゴルの支持を得て、ダニールの子ユーリー3世が初めてウラジーミル大公位を獲得した。(Wiki) | 
            | 
        
        
          |  1325年以降、ウラジミール大公位は、ダニールの子孫ではないトヴェリのドミトリーおよびその弟アレクサンドルに移ったが、ダニールの子であるモスクワ公イヴァン1世は1327年のトヴェリにおける反タタール蜂起の際にモンゴルの尖兵として活躍し、1328年にウラジーミル大公位を再びモスクワ公のものにした。(Wiki) | 
            | 
        
        
          |  1360-70年代に、イヴァン2世の子であるモスクワ公ドミートリー・ドンスコイがスーズダリ=ニジニ・ノヴゴロド公国(英語版)及びトヴェリ大公国と戦い、これを従えたことでウラジミール、ノヴゴロド、そしてトヴェリの大公位は安定的にモスクワに保持されるようになった。従ってこの頃を、実質的にモスクワ大公国の成立と考えて良いだろう。この国家の成立は、モンゴルの認可や、あるいは国家成立の宣言等によっては確認されるものではない。(Wiki) | 
            | 
        
        
          |  1380年、ドミートリー・ドンスコイは、クリコヴォの戦いでママイに勝利するも、その2年後にトクタミシュによってモスクワが占領される(モスクワ包囲戦)。(Wiki) | 
            | 
        
        
          |  1389年、モスクワ大公としてヴァシーリー1世が即位。1392年、ニジニ・ノヴゴロド公国、タルーサ公国、ムーロム公国、ゴロジェッツ公国を併合。(Wiki) | 
            | 
        
        
           | 
          モンゴル帝国は分裂。 | 
        
        
          | 15世紀 | 
            | 
           1405年 カザフ汗国が形成される(〜1552) | 
        
        
          |   | 
           1428年 ウズベク汗国(シャイバニー朝)が形成される(〜1599) | 
        
        
           | 
          ヨーロッパでムスケット(火縄銃)が発明され、遊牧国家が没落していくこととなる。 | 
        
        
          |   | 
           シベリアでは、シビル汗国が強大となる(イルティッシュ川中流が中心) | 
        
        
          |  東ローマ帝国の滅亡後、すなわちヴァシーリー2世の時代以降、モスクワ大公国は正教会の擁護者としての意識を高める。1472年にイヴァン3世は東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪ソフィア(ゾイ・パレオロギナ)を2番目の妻とし、ローマ帝国の継承者であることを宣言し、モスクワを(ローマ、コンスタンティノープルに続く)「第3のローマ」と称し、初めてツァーリ(ロシア皇帝)の称号を名乗り、ルーシの諸公国を併合(たとえばノヴゴロド公国は1478年、トヴェリ大公国は1485年に併合)し、また1480年にイヴァン3世がジョチ・ウルスから事実上の独立を果たした(ウグラ河畔の対峙)。(Wiki)  | 
           1467年に妻に先立たれたイヴァン3世は1472年、最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスの弟ソマス皇子の娘ゾイ(ロシア語名ソフィヤ)と再婚した。この頃から「ツァーリ」の称号を使用し始めた。ロシア国家が「第三のローマ」として世界帝国の継承国家を自認するうえで、この結婚が大きく影響した。 | 
        
        
          |  1471年、イヴァンはノヴゴロドの親リトアニア政権を遠征によって倒した。 | 
        
        
          |  1477年にはノヴゴロドを直接統治へ移行。貴族共和政国家ノヴゴロドは終焉を迎え、親モスクワ派も含めた全ての貴族たちは1500年頃までに所領を奪われて他地域に強制移住させられた。 | 
        
        
          |  ウズベク族により、カザフ汗国がバルハシ湖からアラル海にいたるキルギス草原に強勢となる。カザフは元はコザック=遊牧民の社会からはぐれ出た自由民の意味。 | 
           1480年 ロシア大公イヴァン3世、クリム汗国と協力して、ウグラ河畔でキプチャク=ハン国(ジョチ・ウルス)のアフマド・ハンを撃退し、タタールのくびきから解放する。しかし、貴族と農奴という二元構造であることは同じ。 | 
        
        
          | 16世紀 | 
           1533年 モスクワ公国のイヴァン4世即位(雷帝、在位1547〜1574年、1576〜1584年)、ツアーり(皇帝)を宣言。ただしロシア国外においては一部の国家を除き、“ツァーリ”ないし“皇帝”の位は認められず、1721年まで大公の地位を持ち合わせていた。恐怖政治で土地を所有していた貴族を抑え、強権体制を構築。貿易業者(主に毛皮商人)を保護し、西方の兵器を輸入した。キプチャクハン国の残欠(かけら)として残っていたモスクワ周辺の遊牧国家を滅ぼすか、服従させた。 | 
           | 
        
        
          | 1552年 カザン汗国、1557年アストラン汗国を滅ぼす。 | 
           1555年 シビル汗国が、ロシアに従属し、朝貢。 | 
        
        
           | 
           1574年 イヴァン4世は、ストロガノフ家に朝貢を怠るようになったシビル汗国討伐を一任(黒貂と中国交易路開拓を目的として、引き受ける)。ストロガノフ家は、コザックの首長イェルマークを雇い、1581年東をめざす。1583年 シビル汗国の首都イスケルを陥落。 イェルマークはウラル山脈の東側をイヴァン雷帝に献上した。*1 | 
        
        
          |  リューリク朝は1598年1月、フョードル1世の崩御で断絶。以後、ロシアでは皇位をめぐる動乱期に入る。 | 
           (いつ頃?)シベリアで黒貂を獲り、ヨーロッパで取引。フランスなどで高値で売れた。 (いつ頃?)黒貂を獲りつくすと、千島列島へ進出し、ラッコを獲った。 | 
        
        
          | 17世紀 | 
          1613年ロマノフ朝成立;ロマノフ家のミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位。初めは貴族の大なるものという点で、江戸徳川幕府と似ていた。ただし、日本と異なり、ロシア貴族は領地だけでなく、そこで生産する農奴をも所有していた。 | 
           ロシアは毛皮商人のためにシベリアからカムチャッカにいたるまで、要所に兵を駐屯させた。ただ、食糧や衣類は慢性的に不足していた。そこで東の海に浮かぶ孤島日本に目を付けた。 | 
        
        
          |   | 
            | 
           17世紀前半には、松前藩は北海道の金山を閉山する。*2 | 
        
        
          |   | 
            | 
           1669年シャクシャインの乱;アイヌが松前藩の統治に対して反乱を起こすが敗れ、さらに厳しい圧政下に置かれる。 | 
        
        
          |   | 
            | 
           1689年-7 ネルチンスク条約;中ロ国境を確定 | 
        
        
          | 18世紀   | 
           1721年にピョートル1世がインペラトールを名乗り体制をロシア帝国に改め西欧化を推進。 | 
          イルクーツクと外モンゴルの庫倫(クーロン、現ウランバートル)の通商路が開かれたが、シベリアの食糧をまかない、黒貂やラッコが売れることもなかった。*1 | 
        
        
          |   | 
           1717年オホーツク港からカムチャッカ半島へ渡る航路が開かれる。*2 | 
        
        
          |   | 
           1730年の調査でロシア人は、ウルップ、エトロフ、クナシリの住民は支配者を持たず、クナシリの住民が日本人と交易していることを知っていた。 | 
        
        
          |   | 
           1761年 シベリア総督ソイモノフは毛皮税が収められているのは、千島のうち3,4島であると記している。島々の間の潮流が激しく、統治が困難であった。*2 | 
        
        
          |  1768年 第一次対トルコ戦争(〜1774) ポチョムキン、セヴァストーポリ要塞構築、黒海艦隊創設。 | 
          1771(明和8)年、ロシアで捕虜になっていたオーストリア=ハンガリー帝国のベニョフスキー、脱走の途中、日本の阿波港に寄港し、オランダ商館長への書簡を手渡す。内容はロシアがカムチャッカやクリルに砦をつくっているなどと警告した。幕府はこれを秘匿したが、やがて漏れて、工藤平助、林子平らの警世の言を生む。*2 | 
        
        
          |   | 
           1772年 カムチャッカ長官ベーム、ウルップに要塞を構築し領有を確実にすべきことを上司のイルクーツク総督に上申。 | 
        
        
          |  1783年 エカテリーナ女帝、ポチョムキンにオスマントルコ保護下のクリミア半島クリム汗国を滅ぼし、併合。 | 
          1783年 工藤平助『赤蝦夷風説考』、1785年田沼意次蝦夷地巡見使を派遣。1787年林子平、誤訳も含めて『海国兵談』刊行。*2 | 
        
        
          |   | 
           1787年 大黒屋光太夫、仲間3人死亡など滞在記録。*2 | 
        
        
          |   | 
           1791年 本田利明『赤夷動静』刊行。*2 | 
        
        
          | 19世紀 | 
           | 
          黒貂取引のため、清の外蒙古の拠点クーロン(庫倫・現ウランバートル)と通商。しかし、シベリアへの食糧供給には遠すぎた。食糧調達と販路のために、日本を目指した。*1 | 
        
        
           | 
          ロシアはカムチャッカや千島への日本漂流民を保護、送り届けるなどしたが、鎖国の日本は交渉を拒否しつづける。*1 | 
        
        
          |   | 
           1792年(9月5日)ラクスマン乗船のエカチェリーナ号、漂流民大黒屋光太ら送還と国交樹立交渉のため根室に入港。*2 | 
        
        
          |   | 
           1793年 ラクスマンら、松前にて幕府応接使と会談。地図など交換。「国法書」手交、松平定信指示により、通商を希望するならまず長崎に入港せよと回答。*2 | 
        
        
          |   | 
           1799年シェレホフの遺志を継いだレザーノフの露米会社設立が皇帝パーヴェルが認可。 | 
        
        
          |   | 
           1803年3月露米会社の船隊派遣にあたり、日本との国交開始、広東との直接貿易、アラスカ植民地視察の任務を与え、全権大使レザーノフ、指揮官クルーゼンシュテルンが乗艦。若宮丸の漂民も通詞として同行した。7月クロンシュタット出港(翌年6月ハワイ諸島、ネヴァ号はアラスカへ、レザーノフとクルーゼンシュテルンが乗ったナジェジダ号はペトロパヴロフスクへ。)*2 | 
        
        
          |   | 
           1804年-9 レザーノフのナジェジダ号、長崎に入港。出島オランダ館長ドゥーフが立ち合い。通商は江戸幕府に拒否され、翌年3月長崎を出港。*2 | 
        
        
          |   | 
           1805年 クルーゼンシュテルン、ペトロパヴロフスク帰港後、サハリンを調査。サハリンが島であることは確認できなかった。 | 
        
        
          |   | 
           1805年-7 レザーノフ、樺太・南千島の日本植民地襲撃計画を皇帝アレクサンドルに上申。*2 | 
        
        
          |   | 
           1806年 レザーノフ、露米会社の拠点ノヴォアルハンゲリスクが食糧難となり、スペイン領サンフランシスコへ行き、通商交渉を行うが拒否される。しかし、スペイン総督の娘と結婚することとなる。 | 
        
        
          |   | 
           1807年-3 レザーノフ、ロシア皇帝の仲介で結婚に関するローマ教皇の許しを得るため、ペテルスブルグへ帰還の途上死去。 | 
        
        
          |   | 
           1808年 間宮林蔵が間宮海峡を発見。 | 
        
        
          |   | 
           1811年-7 ゴローヴニンのディアナ号がクナシリ島トマリ湾に来航。松前奉行が会見すると称して上陸したゴローヴニンを捕らえる。副官リコルドはディアナ号で退避。 | 
        
        
          |   | 
           1812年-7 リコルドはゴローヴニン救出に動くが、(ナポレオン戦争による)欧州情勢緊迫の折、皇帝アレクサンドルは日本への遠征を裁可せず。リコルドはクナシリに戻り、日本船を拿捕し、高田屋嘉兵衛を拉致した。 | 
        
        
          |   | 
           1813年-5 クナシリ島トマリで高田屋嘉兵衛解放される。7月幕府はリコルドに改めてフヴォストフ事件の釈明書を求める。 | 
        
        
          |   | 
           1813年-9 釈明書を持ったリコルドが箱館に戻り、ゴローヴニンが解放される。 | 
        
        
          |   | 
           1816年 シベリア総督ぺステリ、日本との交渉はよい時期がくるまで延期することを上申し裁可された。イルクーツクの日本語学校が閉鎖される。*2 | 
        
        
          |   | 
           1828年 露米会社によるウルップ植民再開される。*2 
           | 
        
        
          |   | 
           1836年 ロシアのオルロフ少尉のウラナスカ号で日本漂民3名を送還。アッケシで砲撃を受け、エトロフに上陸させて退去。ロシア政府から露米会社には通商交渉に入らないよう訓令がでていた。*2 | 
        
        
          |   | 
           1843年 ガヴリーロフ少尉のフロムイセル号、日本の越中国漂民をエトロフに送還。*2 | 
        
        
          |   | 
           1843年 プチャーチン海軍少将、日本との国交樹立のため探検隊を派遣する計画を上申。総理大臣ネッセルローデの反対にあう。*2 | 
        
        
          |   | 
           1844年 クルーゼンシュテルン提督の対日関係樹立計画上申するも裁可されず。*2 | 
        
        
          |   | 
            | 
        
        
           | 
          1858年 -4 アイグン条約;黒竜江(アムール河)以北はロシア領、ウスリー江東岸は両国共同管理。*1 | 
        
        
          | ウィッテ伯爵(1849〜1915年)「独裁政治だからこそ大ロシア帝国は存在した」。これはソ連にも引き継がれた。 | 
          1858年 -7 露・清の間に天津条約締結;ロシア、海路通商権、最恵国特権、治外法権などを得る。その後清朝は、英米仏などとも同様の条約を締結。*1 | 
        
        
          |   | 
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          |  20世紀 | 
          1917年;ロシア革命でロマノフ朝滅亡。皇帝(ツァーリ)に権力が集中しており、皇帝一人を倒せば、ロシア帝政自体が崩壊するな構造になっていたい。革命は容易に為し得た。 | 
           | 
        
        
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           | 
          1945年2月 ヤルタ会談;スターリン、南樺太・千島列島をソ連に引き渡すことを、米英首脳(ルーズヴェルト・チャーチル)に約束させる。*1 | 
        
        
           | 
           | 
        
        
           | 
           1978年 ソ連、アフガニスタンに侵攻 (〜1989年) | 
        
        
           | 
           1988年3月 ソ連 アフガニスタンから撤退 | 
        
        
          |  1988年11月 ソ連で初めてエストニアが国家主権を宣言 | 
           | 
        
        
          |  1990年3月 リトアニアがソ連からの独立を宣言 | 
           | 
        
        
          |   | 
           1990年5月 ラトビアとグルジアがソ連からの独立を宣言 | 
            | 
        
        
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           1991年8月 ソ連共産党内の保守派と軍部のエリートによるクーデター。ゴルバチョフを打倒しようとして失敗。だがゴルバチョフ政権は影響力を失う。 | 
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           1991年9月、バルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)の分離独立認められる。 | 
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           1991年12月 ロシアのボリス・エリツィン大統領、ウクライナのレオニード・クラフチュク大統領、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチ議長によって、互いの独立を認め、ソ連に代わる独立国家共同体(CIS)を創設。 | 
           1991年12月16日にカザフスタンが独立を宣言(ソ連から脱退した最後の国)。 | 
        
        
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          |  21世紀 | 
           2008年8月 ロシア連邦とジョージア(グルジア)との戦争(南オセチア紛争とも) | 
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           2014年2月26日 ロシアから派遣された国籍不明の(後にプーチン大統領が指示したロシア連邦軍と確認された)武装勢力、クリミア半島に侵攻し、主導権を握る。 | 
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           2014年3月クリミア議会はウクライナからの独立を宣言、ロシア連邦への併合を呼びかけ、翌日ロシア連邦に組み入れられる。4月1日までに約3,000人の住民がクリミア半島から逃れたが、その80%はクリミア・タタール人だったとされる。 | 
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           2021年春以降、ロシアはウクライナの国境近くで軍事力の集結や軍事演習を断続的に行ない、ウクライナやジョージアへの北大西洋条約機構(NATO)拡大停止などを当該国や欧米に要求。 | 
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           2022年2月24日、ロシアがウクライナの東部・南部・北部から全面的に侵攻を開始し、ロシア対ウクライナの全面戦争に発展。 | 
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           侵攻当初はウクライナ北部から侵攻したロシア軍が首都キエフに迫る勢いであったが、ウクライナ軍の頑強な抵抗に遭遇したため4月上旬までに北部戦線からは撤退し、それ以降は南部と東部で激しい戦闘が繰り広げられている。ロシアのウクライナ全面侵攻は西側諸国を中心とする国際社会から非難され、ロシアに対する大規模な経済制裁が行われたが、特にブチャの虐殺が発覚するとロシアに対する国際的な非難が激化しさらなる制裁が行われた。 | 
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