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日本の主なできごと |
海外のできごと |
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12世紀 |
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13世紀 |
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14世紀 |
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17世紀 |
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18世紀 |
1730年 |
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1730年の調査でロシア人は、ウルップ、エトロフ、クナシリの住民は支配者を持たず、クナシリの住民が日本人と交易していることを知っていた。*1 |
1761年 |
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1761年 シベリア総督ソイモノフは毛皮税が収められているのは、千島のうち3,4島であると記している。島々の間の潮流が激しく、統治が困難であった。*2 |
1771年 |
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1771(明和8)年、ロシアで捕虜になっていたオーストリア=ハンガリー帝国のベニョフスキー、脱走の途中、日本の阿波港に寄港し、オランダ商館長への書簡を手渡す。内容はロシアがカムチャッカやクリルに砦をつくっているなどと警告した。幕府はこれを秘匿したが、やがて漏れて、工藤平助、林子平らの警世の言を生む。*2 |
1772年 |
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1772年 カムチャッカ長官ベーム、ウルップに要塞を構築し領有を確実にすべきことを上司のイルクーツク総督に上申。 |
1782年 |
1783年 工藤平助『赤蝦夷風説考』、1785年田沼意次蝦夷地巡見使を派遣。1787年林子平、誤訳も含めて『海国兵談』刊行。*2 |
1782年 ウルップ島に1775年入植したロシア人たちが退去。 |
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天明年間に江戸幕府が調査したとき、ウルップ島に人影はなかった。 |
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1787年 |
1787年フランス ルイ16世に派遣されたラ・ペルーズが二隻の探検船で日本海を北上し、間宮海峡近くに迫ったが、水路を発見できず引き返し、宗谷海峡を抜けてカムチャツカ半島に向かった。*2 |
1787年 大黒屋光太夫、仲間3人死亡など滞在記録。*2 |
1791年 |
1791年 本田利明『赤夷動静』刊行。*2 |
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1792年 |
1792年(9月5日)ラクスマン乗船のエカチェリーナ号、漂流民大黒屋光太ら送還と国交樹立交渉のため根室に入港。*2 |
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1793年 |
1793年 ラクスマンら、松前にて幕府応接使と会談。地図など交換。「国法書」手交、松平定信指示により、通商を希望するならまず長崎に入港せよと回答。*2 |
1794年 仙台の若宮丸、アレウト(アリューシャン)列島に漂着し、16名の日本人漂流民がイルクーツクに到着。1795年日本との通商交渉再開が建議されるが、エカチェリーナ帝が消極的。*2
1796年エカチェリーナ帝死去により立ち消えに。 |
1795年 |
1796(寛政八)年英国プロヴィデンス号(艦長;ウィリアム・R・ブロートン、400トン)、王命により探検途上、室蘭に来航。松前藩の加藤肩吾らが対応。地図交換など友好的に会談。*2 |
1795年 イルクーツクの豪商シェレホフ、長い間無人となっていたウルップ島に植民団を送る。 |
1797年 |
1797年 マカオで越冬したブロートンらは、スクーナー船(87トン)を伴って再び北上したが、プロヴィデンス号が沖縄 宮古島で座礁し、スクーナー船で室蘭に到着。加藤肩吾らが対応したが、幕府の指示により警戒感が強まっていた。ブロートンは松前藩兵300が派遣されたが、到着前に出港、津軽海峡を通過し、松前沖に到着。幕府は津軽藩兵500を箱館警固に派遣。 |
1797年 ブロートンは蝦夷島(北海道)西岸を北上したが、蝦夷とサハリンの間が曖昧だった。サハリン西岸を北上したが、水深が浅くなり、湾の行き止まりと考え引き返した。サハリンが大陸から張り出した半島と判断した。*2 |
1798年 |
1798(寛政十)年 幕府はブロートンの来航を重大視し、調査隊を蝦夷地へ送り、翌年東蝦夷を直轄地とした。松前藩に蝦夷地防衛を任せておくことに強い懸念をいだいたため。*2 |
1798年 江戸幕府はウルップ島のロシア人入植を認識しており、ウルップ島までを日本の領土と考えていたが、紛争を避けるためエトロフ島までの地歩を固めようとした。 |
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1798(寛政十)年 近藤重蔵と最上徳内はエトロフ島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。*2 |
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1799年 |
1799(寛政十一)年 高田屋嘉兵衛がエトロフ航路を確立。*2 |
1799年シェレホフの遺志を継いだレザーノフの露米会社設立が皇帝パーヴェルが認可。 |
1800年 |
1800(寛政十ニ)年 近藤重蔵、高田屋嘉兵衛ら、エトロフのアイヌ(当時約700名在住)に物資を供給し、漁場を開発。*2 |
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幕府の東蝦夷地経営は、松前藩がアイヌとの交易を商人任せにし、略奪している交易を改め、またアイヌの和風化を図ろうとした。*2 |
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19世紀 |
1802年 |
1802(享和ニ)年2月 幕府は東蝦夷地の永久上知(直轄化)。1807年全蝦夷地の上知を決定。ロシアの脅威への反応を示す。*2 |
1803年3月露米会社の船隊派遣にあたり、日本との国交開始、広東との直接貿易、アラスカ植民地視察の任務を与え、全権大使レザーノフ、指揮官クルーゼンシュテルンが乗艦。若宮丸の漂民も通詞として同行した。7月クロンシュタット出港(翌年6月ハワイ諸島、ネヴァ号はアラスカへ、レザーノフとクルーゼンシュテルンが乗ったナジェジダ号はペトロパヴロフスクへ。)*2 |
1804年 |
1804(文化元)年9月 ナジェジダ号長崎沖に到着。*2 |
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20世紀 |
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