Title9-3.GIF (2758 バイト) 日本対外交渉の歴史   

<日本対外交渉の歴史 関連年表>
 日本の主なできごと 海外のできごと 
 BC18世紀
 BC15世紀
BC14世紀
BC13世紀
 BC11世紀
 BC10世紀
 BC9世紀
BC8世紀
BC7世紀
BC6世紀
BC5世紀
BC4世紀
BC3世紀
BC2世紀
BC1世紀
 1世紀 57年 倭の奴の国王が後漢に朝貢し、金印を授けられる。*5
2世紀 107年 倭の国王の帥升らが後漢の安帝に朝貢。*5 『後漢書』(東夷伝147-189年の間)に「倭国大乱」「凡そ百余国あり」
  纏向石塚古墳(奈良県)[Wiki]
  189年ca 卑弥呼が倭の邪馬台国の女王になる。*5
3世紀 239年 卑弥呼、狗奴国と戦い、魏の皇帝から檄を送られる。魏の明帝から卑弥呼に金印、銅鏡100枚与えられる。 魏志倭人伝「今、使訳(魏の使節)の通ずる所三十国なり」
  卑弥呼死去し、男王立つ、国中乱れ壱与女王となる。西晋に遣使。
  崇神天皇(10代);3世紀後半、王朝交代説あり
4世紀  4世紀初頭には前方後円墳(=ヤマト王権の勢力)が畿内から北部九州に拡大。箸墓古墳など。  
   4世紀後半、倭、朝鮮半島南部(加羅)に進出。百済王、倭王に「七支刀」を贈る。  
   391年倭軍、渡海し百済・新羅と戦う(高句麗広開土王碑銘)。倭、朝鮮半島南部を勢力下におく。  
   399年倭、百済と結び新羅に侵攻。高句麗、新羅を助け、倭を退ける。  
5世紀 
  日本のできごと 海外のできごと
402年  新羅の実聖王が倭に人質をおくる。*5  
404年  倭が帯方郡に出兵、高句麗に撃退される。*5  
   朝鮮半島半部に前方後円墳14基築造される(大和朝廷の統治範囲か)  『晋書』安帝紀に義熙九年(413年)に倭国が東晋に朝貢したと記す(中国王朝には147年ぶりの倭についての記述)。
421年  倭王 讃が宋に使いを送る.。*5  『宋書』(劉宋の正史)倭の五王(讃、珍、済、興、武)からの朝貢の記録がある。讃;履中天皇(17代)、武;雄略天皇(21)と考えられる。
438年  倭王珍、宋より安東大将軍倭国王の称号を授かる。*5  
478年  倭王武、宋に使いを派遣し、安東大将軍倭国王に任じられる。*5  
6世紀 
  日本のできごと 海外のできごと
502年  梁の武帝、倭王武を征東将軍に任じる。*5  
502年  倭、任那(加耶)復興のため、近江毛野と兵6万を朝鮮半島に送るが、新羅と通じた筑紫国造の磐井が毛野軍を九州で止める(磐井の乱)*5  
528年  物部麁鹿火(あらかび)、筑紫で磐井を討ち取る。*5  
537年  大伴狭手彦(さでひこ)ら、朝鮮半島に出兵、任那(加耶)を鎮め百済を救う。*5  
538年  百済 聖明王が日本に仏像等を伝える。  
548年  高句麗が百済に侵入。倭は百済の築城を支援し、百済・新羅連合軍は高句麗を撃退。*5  
554年  日本と百済の連合軍が新羅と戦う。百済の聖明王が敗死。*5  
562年  倭、新羅征討大将軍紀男麻呂を派遣するも敗れる。*5  
562年  大伴狭手彦、高句麗を破る。*5  
584年  蘇我馬子、百済より贈られた仏像2体を仏殿に安置。585年 物部守屋、仏像・仏殿を焼き払う。*5  
587年  用明天皇、仏教に帰依するか群臣に問う。蘇我馬子は賛成、物部守屋と中臣勝海が反対。両者は兵を集めて対立。蘇我馬子・厩戸王(聖徳太子)が物部守屋を滅ぼす。仏教が信仰される。*5  
591年  崇峻天皇、任那(加耶)復興の詔を発し、2万の軍勢を筑紫におくる。*5  隋(589~618)
592年  崇峻天皇(32代)に飛鳥に宮都が置かれる。飛鳥時代はじまる。  
   蘇我馬子、崇峻天皇を殺す。推古天皇即位。  
593年  厩戸皇子(聖徳太子)摂政となる。高句麗僧慧慈、聖徳太子の師となる  マホメット(570~632)
7世紀 
  日本のできごと 海外のできごと
600年頃  遣隋使を派遣。新羅に出兵。  
 601年  聖徳太子、斑鳩宮を造る。新羅征討の兵動員。来目皇子を撃新羅将軍とする。*5  
 603年  新羅再征を中止。冠位十二階を制定。  
 607年  小野妹子を隋に派遣。  
 610年  高句麗僧曇徴、紙・墨・絵具の製法伝える  618年 隋が滅亡。唐が興る。
     622年イスラム帝国成立。
660年  唐・新羅連合軍が日本の友好国百済を攻め滅ぼす。百済の武将らから救援を求められ、援軍を派遣。  651年ササン朝ペルシア滅亡。660年百済滅亡。
663年  白村江の戦い;日本・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に敗退。朝鮮半島への影響力を失う。九州など防人を置いて、防戦の備え。(唐・新羅連合軍は日本を攻めず、高句麗を滅ぼす)  668年高句麗滅亡。
8世紀  
  日本のできごと 海外のできごと
701年  持統天皇の孫が文武天皇として即位。「大宝律令」を定める。大宝律令に「日本」と「天皇」の称号が明文化。『三国史記』に「日本国使、新羅に至る」と記す。  
717年  (霊亀3年・養老元年);多治比県守が率いる第9次遣唐使に同行し、阿倍仲麻呂、吉備真備、僧玄昉、井真成ら、唐の長安に留学。  
725年  (神亀2年)阿倍仲麻呂、洛陽の司経局校書として唐の玄宗に仕える。その後、、文学畑の役職を務め李白・王維・儲光羲らの唐詩人と親交。  
733年   733年(天平5年);多治比広成が率いる第10次遣唐使が来唐した際に、阿倍仲麻呂は長安で遣唐使らの諸事を補佐したが、唐での官途を追求するため帰国しなかった。翌年帰国の途に就いた遣唐使一行はかろうじて第1船のみが種子島に漂着、残りの3船は難破した。第1船に乗った真備と玄昉は無事帰国。日本に貴重な文物をもたらした。  
752年  (天平勝宝4年);大仏開眼供養行われる。国内から1万数千人、インドや唐から多くの僧、新羅から700人の使節が参加。(756年聖武上皇崩御)  751年タラス河畔の戦い;唐がアッバース朝に大敗;製紙法西伝。
 (天平勝宝4年)藤原清河率いる第12次遣唐使、吉備真備が副使となる。;阿倍仲麻呂は帰国許可を玄宗に申し出るが、容易には許可されなかった  
753年  753年 阿倍仲麻呂は、清河とともに帰国を図った。この時王維は「秘書晁監(「秘書監の晁衡(唐での仲麻呂の名)」の意)の日本国へ還るを送る」の別離の詩を詠んでいる。出帆した4隻のうち、仲麻呂や清河の乗船した第1船が暴風に遭って南方へ漂流。仲麻呂が落命したという噂を伝え聞いた李白は「明月不歸沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」を詠んで仲麻呂を悼む。  
   鑑真和上来日  
755年  (天平勝宝7年)仲麻呂は清河とともに長安に戻ったが、この年、安史の乱が起こったことから、唐朝は行路が危険である事を理由に清河らの帰国を認めず、仲麻呂は清河とともに留唐することになった。  755年安史の乱(~763年)
     766年(天平神護2年)阿倍仲麻呂、安南節度使となる。
     770年(宝亀元年)阿倍仲麻呂死去(73歳)代宗は州大都督の官名を贈る。
794年  (延暦13年);平安京遷都  
9世紀  
  日本のできごと 海外のできごと
801年  (延暦20年)征夷大将軍坂上田村麻呂、胆沢地方(岩手県奥州市)の蝦夷を制圧。  
   大隅と薩摩で班田収授法が実施され、朝貢中止。九州南端まで律令体制が行き渡る。九州南部から東北中部までの日本の領域が確定する。  
804年  最澄・空海、遣唐使として入唐。  
810年  (弘仁元年)薬子の変(弘仁の変)  
823年  (弘仁14年)越前国から加賀国が分立し、多禰国(種子島と屋久島)が大隅国に編入されると、六十六国二嶋の体制が長期間固定される。(ニ嶋とは、対馬と壱岐)  
   最澄と空海が遣唐使として実践的な仏教を伝える。桓武天皇が最澄を、嵯峨天皇が空海を後押しし、没後、清和天皇が最澄を伝教大師、醍醐天皇が空海を弘法大師とした。奈良時代にはじまった神仏習合は加速し、明治期の神仏分離令まで続く。  
835年  新羅人に備え、壱岐島に防人330人を置く。  
847年  遣唐使僧円仁、帰国。(最後の遣唐使)  856年 ヴァイキング、パリを攻撃し焼く。
858年  藤原摂関政治の始まり  858年 南詔、ヴェトナムに侵寇。
864年  富士山噴火  860年 ヴァイキング、初めてコンスタンティノープルを攻撃し、撃退される。
865年  唐商李延孝ら63人、大宰府に来着。  862年ルーシの首長リューリック、ノヴゴロド公国を建設。866年 唐ヴェトナムから南詔軍を撃退。
891年  (寛平3年)藤原基経死去後、宇多天皇親政。菅原道真による政治改革。また、道真建議により、遣唐使を廃止。  882年 キエフ=ロシア国家の建設。
10世紀  
  日本のできごと 海外のできごと
940年   940年摂関政治への不満から、平将門の乱、藤原純友の乱が発生。鎮圧に功績のあった源氏、平氏、藤原氏(摂関家とは別)などの武士が勢力伸長。  907年唐滅亡。小国分立後、宋(北宋)が中国統一。 
1000年  1000年 一条天皇(第66代)の治世で藤原道長が全盛期。娘彰子を一条天皇の中宮となる。  918年高麗が朝鮮半島統一。
    清少納言の『枕草子』、紫式部の『源氏物語』など、世界に先駆けた女流文学の盛んとなる。この二人はどちらも一条天皇の後宮で女房として働いていた。男子禁制の後宮で教養ある女性が求められたため。(中国、朝鮮では宦官の役割)  
11世紀  
  日本のできごと 海外のできごと
1051年  (永承6年)陸奥の国で勢力を拡大し独立の気風を有した安倍氏懲罰のため、陸奥守 藤原登任(なりとう)が出兵。前九年の役(奥州十二年戦争)始まる。  1037年 セルジューク朝建国
1068年  (治暦4年)後三条天皇(第71代)が即位、摂関政治は終わる。後に  1038年 李元昊、西夏建国
1086年  白河上皇による院政はじまる。  1077年 カノッサの屈辱
     1096年 第一回十字軍遠征
12世紀  
  日本のできごと 海外のできごと
1156年  (保元元年) 保元の乱;鳥羽上皇崩御すると、崇徳上皇が近衛天皇を呪詛し、叛乱の準備をしているとの噂が流され、後白河天皇は平清盛や源義朝(頼朝の父)らを起用して崇徳上皇を攻撃し、捕らえ配流とした。 1127年 金、宋の首都開封を包囲、徽宗・欽宗らを北方へ拉致。高宗ら南宋建国。
1159年  (平治元年)平治の乱;後白河院政派の源氏と二条親政派の平氏との抗争で、平清盛が源義朝を破る。
源氏が没落し、平氏一門による武家政権が成立。
義朝の子頼朝は池禅尼に助命され伊豆に配流。
 
1179年  (治承3年)後白河上皇が平清盛によって幽閉され、院政は停止。  1171年サラディン、アイユーブ朝建国
1180年  (治承4年)平清盛が高倉天皇(80代)を退位させ、娘の徳子が生んだ孫の安徳天皇(81代)を即位させる。  
   後鳥羽上皇の皇子以仁王(もちひとおう)が平氏追討の令旨(りょうじ;皇族が出す命令)を発す。計画が漏れ、以仁王と源頼政は討死。源頼朝と源義仲が挙兵。  
   (治承4年)10月、富士川合戦;挙兵した源頼朝と甲斐源氏が、平家の追討軍を破る。  
1181年  (治承5年)2月、平清盛死去。平宗盛(清盛の嫡男)が、後白河上皇に政権返上。以仁王令旨の大儀がなくなる。宗盛は源頼朝からの和平調停案を拒否。  
1183年  (寿永2年)10月後白河院が源頼朝に東国の年貢貢納の責任と権限(=行政権)を与える;事実上の鎌倉幕府成立。  
1185年  (文治元年)壇ノ浦の戦い;源義経が平氏を破る。  1189年 第3回十字軍
     
13世紀
14世紀
 :

17世紀
18世紀  
 1730年 1730年の調査でロシア人は、ウルップ、エトロフ、クナシリの住民は支配者を持たず、クナシリの住民が日本人と交易していることを知っていた。*1
1740年    1740年ベーリング、ペトロパヴロフスクを開港。
1761年    1761年 シベリア総督ソイモノフは毛皮税が収められているのは、千島のうち3,4島であると記している。島々の間の潮流が激しく、統治が困難であった。*2
1771年   1771(明和8)年、ロシアで捕虜になっていたオーストリア=ハンガリー帝国のベニョフスキー、脱走の途中、日本の阿波港に寄港し、オランダ商館長への書簡を手渡す。内容はロシアがカムチャッカやクリルに砦をつくっているなどと警告した。幕府はこれを秘匿したが、やがて漏れて、工藤平助、林子平らの警世の言を生む。*2
1772年    1772年 カムチャッカ長官ベーム、ウルップに要塞を構築し領有を確実にすべきことを上司のイルクーツク総督に上申。
1782年  藤平助『赤蝦夷風説考』、1785年田沼意次蝦夷地巡見使を派遣。1787年林子平、誤訳も含めて『海国兵談』刊行。*2  1782年 ウルップ島に1775年入植したロシア人たちが退去。
  天明年間に江戸幕府が調査したとき、ウルップ島に人影はなかった。
1787年  フランス ルイ16世に派遣されたラ・ペルーズが二隻の探検船で日本海を北上し、間宮海峡近くに迫ったが、水路を発見できず引き返し、宗谷海峡を抜けてカムチャツカ半島に向かった。*2  1787年 大黒屋光太夫、仲間3人死亡など滞在記録。*2
1791年   本田利明『赤夷動静』刊行。*2  
1792年  9月5日ラクスマン乗船のエカチェリーナ号、漂流民大黒屋光太ら送還と国交樹立交渉のため根室に入港。*2
1793年  ラクスマンら、松前にて幕府応接使と会談。地図など交換。「国法書」手交、松平定信指示により、通商を希望するならまず長崎に入港せよと回答。*2  1794年 仙台の若宮丸、アレウト(アリューシャン)列島に漂着し、16名の日本人漂流民がイルクーツクに到着。1795年日本との通商交渉再開が建議されるが、エカチェリーナ帝が消極的。*2
1796年エカチェリーナ帝死去により立ち消えに。
1795年  寛政八年 英国プロヴィデンス号(艦長;ウィリアム・R・ブロートン、400トン)、王命により探検途上、室蘭に来航。松前藩の加藤肩吾らが対応。地図交換など友好的に会談。*2  1795年 イルクーツクの豪商シェレホフ、長い間無人となっていたウルップ島に植民団を送る。
1797年  1797年 マカオで越冬したブロートンらは、スクーナー船(87トン)を伴って再び北上したが、プロヴィデンス号が沖縄 宮古島で座礁し、スクーナー船で室蘭に到着。加藤肩吾らが対応したが、幕府の指示により警戒感が強まっていた。ブロートンは松前藩兵300が派遣されたが、到着前に出港、津軽海峡を通過し、松前沖に到着。幕府は津軽藩兵500を箱館警固に派遣。  1797年 ブロートンは蝦夷島(北海道)西岸を北上したが、蝦夷とサハリンの間が曖昧だった。サハリン西岸を北上したが、水深が浅くなり、湾の行き止まりと考え引き返した。サハリンが大陸から張り出した半島と判断した。*2
1798年  (寛政十)年 幕府はブロートンの来航を重大視し、調査隊を蝦夷地へ送り、翌年東蝦夷を直轄地とした。松前藩に蝦夷地防衛を任せておくことに強い懸念をいだいたため。*2  1798年 江戸幕府はウルップ島のロシア人入植を認識しており、ウルップ島までを日本の領土と考えていたが、紛争を避けるためエトロフ島までの地歩を固めようとした。
 (寛政十)年 近藤重蔵と最上徳内はエトロフ島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。*2  
1799年  (寛政十一)年 高田屋嘉兵衛がエトロフ航路を確立。*2  1799年シェレホフの遺志を継いだレザーノフの露米会社設立を皇帝パーヴェルが認可。
1800年  (寛政十ニ)年 近藤重蔵、高田屋嘉兵衛ら、エトロフのアイヌ(当時約700名在住)に物資を供給し、漁場を開発。*2  
   幕府の東蝦夷地経営は、松前藩がアイヌとの交易を商人任せにし、略奪している交易を改め、またアイヌの和風化を図ろうとした。*2  
19世紀  
1802年 (享和ニ)年2月 幕府は東蝦夷地の永久上知(直轄化)。1807年全蝦夷地の上知を決定。ロシアの脅威への反応を示す。*2 1803年3月露米会社の船隊派遣にあたり、日本との国交開始、広東との直接貿易、アラスカ植民地視察の任務を与え、全権大使レザーノフ、指揮官クルーゼンシュテルンが乗艦。若宮丸の漂民も通詞として同行した。7月クロンシュタット出港(翌年6月ハワイ諸島、ネヴァ号はアラスカへ、レザーノフとクルーゼンシュテルンが乗ったナジェジダ号はペトロパヴロフスクへ。)*2
1804年 (文化元)年9月 ナジェジダ号長崎沖に到着。*2 レザーノフの通商交渉のための江戸行きを拒否され、1805年3月長崎を出港。
5月ペトロパヴロフスク帰港後、レザーノフは露米会社のアラスカ植民地へ、クルーゼンシュテルンはサハリンへ調査に赴き、北から(後の)間宮海峡に入るが、アムール河口で海水がほとんど淡水になり、サハリンが大陸とつながった半島であると判断した。露清関係が緊張しており、アムール河口には近づかなかった。
1805年 (文化2)年10月レザーノフを応接した遠山景晋が西蝦夷地を視察。*2 1805年6月ペトロパヴロフスクに居た南部藩領慶祥丸漂流民6名(船頭継右衛門)はナジェジダ号(日本に通商拒否され)帰港後、待遇が悪化し、小舟で出港。翌1806年6月エトロフ島に到達。
1806年 (文化3)年3月遠山調査隊が姥神社で「降福孔夷」扁額を発見し、松前藩とロシアと通じている疑いを持った。*2 1806年7月レザーノフ、樺太・南千島の日本人植民地への襲撃計画を皇帝アレクサンドル1世に上申。アラスカの要塞ノヴォアルハンゲリスクでユノナ号(船長フヴォストフ)、アヴォス号(船長ダヴィドフ)を用意し出港出港。*2
     10月6日フヴォストフらサハリン クシュンコタンの松前藩運上所を襲撃。
1807年  (文化4)年3月幕府は松前本領と西蝦夷地を松前氏から取り上げ、奥州梁川9千石を与える。前藩主道広は永蟄居。*2  1807年3月レザーノフ自身はカトリック教徒(サンフランシスコのスペイン植民地総督の娘)との結婚を皇帝に認めてもらうため、ペテルスブルグへ向かったが途中クラスノヤルスクにて死去。*2
   4月 松前藩がフヴォストフのクシュンコタン襲撃を知り、藩兵を引いて樺太に渡る。*5  04.25 フヴォストフらはエトロフ島ナイボの番屋を襲撃。米塩など略奪、番屋・倉庫に放火。*5
   04.29 フヴォストフらはエトロフ島シャナを襲撃。駐留していた南部・津軽藩兵と交戦。日本がほとんど戦わず撤退。*5  フヴォストフとダヴィドフはその後もサハリン アニワ湾の複数の番屋や日本の商船を襲撃した。また、人質解放にあたって、通商を求めつつ、かなえられなければ、千島諸島などを占領するなどの威嚇の文書を持たせた。*5
   幕府はロシア船を見かけ次第打ち払うべしとの指令を出す。*5  フヴォストフらオホーツクに帰港後、長官ブハーリンによって投獄され、戦利品も没収された。その後、脱獄してイルクーツク知事の仲裁によりペテルスブルグに帰る。スウェーデンとの戦争で功績を立てるが勲章はもらえず、代わりに処罰を免れた。その後、酩酊してネヴァ河の橋から落ちて溺死。*5
1808年  (文化5)年 箱館奉行河尻・荒尾は、10隻ほどの千石船(艦隊)を建造し、エトロフからカムチャツカまで派遣し、北辺警備を強化、一方で辺境同士の交易を許可するよう提言。*5  
1809年  (文化6)年 間宮林蔵、前年に続き樺太に渡り、山丹地方(韃靼地方沿海州)にも渡り、清朝官吏などとも接触し、樺太が島である確証を得た。*5  
   松田伝十郎、アイヌの山丹人との交易でかさんだ借財を奉行所が負担し、山丹人のアイヌに対する横暴を抑制した。*5  
1811年  (文化8)年 松前奉行奈佐瀬左衛門、水・薪を求めてクナシリ島に上陸したゴローヴニンを引見したが、フヴォストフらの乱暴を問責して彼らを捕縛。副長リコルドはディアナ号から砲撃。*5  リコルドはゴローヴニンら人質の命を優先して、いったんオホーツクへ退去。*5
   ゴローヴニンら8名の捕虜は箱館へ移送され、尋問を受けた。フヴォストフらの行為は皇帝の意思ではなく、公務ではないと説明した。*5  
   ゴローヴニンらは松前に移送され、奉行荒尾成章から取り調べを受ける。荒尾はゴローヴニンの来航がフヴォストフらとの一件とは関係なく、釈放する方針で対応した。荒尾はロシアの事情などを質問した。*5  
1812年  (文化9)年 幕閣は荒尾の上申を却下し、ゴローヴニンらを留め置くよう命じた。*5  
   03.24 ゴローヴニンら脱走するが、10日間ほど山中をさまよって逮捕される。*5  8月リコルドは、前年保護した日本人漂流民6名(摂津国歓喜丸)返還を機会にクナシリに投錨。しかし、日本の役人からゴローヴニンらは殺害されたと知らされる。
08.14 入港した日本の商船観世丸を拿捕し、高田屋嘉兵衛を連行。嘉兵衛は事件解決のためリコルドに協力。*5
1813年  09.26 ゴローヴニンら箱館で解放され、リコルドが引き取る。
リコルドは日露友好関係の樹立と国境確定について交渉するようイルクーツク知事から訓令を受けていたが、時期尚早と判断し、交渉せずに帰国。*5
 05.26リコルドのディアナ号は再びクナシリのトマリ港へ。高田屋嘉兵衛を解放し、交渉を仲介させた。*5
     
 
20世紀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 






資料    *1 『ロシアについて 北方の原形』(司馬遼太郎著)文春文庫
 *2 『黒船前夜』(渡辺京二著)洋泉社
 *5 「日本の合戦年表」(小和田泰経 朝日新聞出版)
 山川出版社『世界史大年表』石橋秀雄 他。