Title9-3.GIF (2758 バイト) 日本左翼史関連 クロニクル「日本」  

<日本左翼史年表>
 西暦  月日  主なできごと その他のできごと 
1945年 8月14日  御前会議、ポツダム宣言受諾を決定
8月15日  昭和天皇、「終戦」の詔勅放送。鈴木貫太郎内閣総辞職。
8月17日  東久邇宮稔彦内閣成立
  8月30日  連合国軍総司令官マッカーサー、厚木到着。  
9月2日  ミズーリ号艦上で、降伏文書調印。GHQ司令第一号。
9月27日  昭和天皇、マッカーサーを訪問。
10月9日  幣原喜重郎内閣成立。
10月10日  政治犯3,000人釈放。徳田球一・志賀義雄出獄後に「人民に訴う」の声明。自由戦士出獄歓迎人民大会開催。占領軍であるアメリカ軍を「解放軍」と規定してしまい、GHQの指令に自らを縛ることになる。*1
  10月11日   マッカーサー、幣原首相に人権確保のための五大改革を指令。 GHQのヒアリングに応じたのが、アメリカ共産党に所属する日系アメリカ人であったため農地改革など、その影響を受ける。*1  
10月15日  治安維持法廃止。
10月20日  「赤旗」再刊。
10月24日  国際連合発足。
11月2日  日本社会党結成(書記長;片山哲)
11月29日  日本自由党結成(総裁;鳩山一郎)
  12月6日  GHQ、近衛文麿らに逮捕命令、12/16 近衛、服毒自殺。  
  12月7日  マニラ戦犯裁判で山下奉文元大将に死刑判決。  
   12月9日  GHQ、農地改革の開始。12/15 GHQ、国家と神道の分離を指令。12/31 GHQ、修身、日本歴史、地理の授業停止を指令。  
  12月12日  第一回宝くじ売り出す。  
 1946年 1月1日  昭和天皇の人間宣言。  
  1月10日  山川均、人民解放戦線の結成を提唱。戦前のマルクス主義経済学者の中の「労農派」である向坂逸郎、山川均、堺利彦などが、社会党の流れへ。「講座派」である野呂栄太郎、山田盛太郎らのグループが「二段階革命論」(天皇制を倒すブルジョア革命の後、社会主義革命へ)を唱え、共産党へ。「労農派」は、明治維新が不完全ながら、欧州のブルジョア革命に相当するものであり、財閥打倒により社会主義革命を起す、という主張。*1  
  1月  この月、『中央公論』『改造』復刊。『世界』『展望』『人間』『近代文学』創刊。  
  1月12日  野坂参三、中国から帰国。中国で日本軍捕虜への平和・民主教育を行ってきた。(後1992年、スターリンへの密告の罪により、共産党を除名された。)*1  
  1月16日  社会党中枢、共産党との共同戦線は時期尚早と決定。  
  2月3日 マッカーサー、天皇制存続・戦争放棄・封建制撤廃の三原則に基づく憲法草案をGHQに指示。   2月ソ連の支援を受けた金日成が「北朝鮮臨時人民委員会」設立。
  2月17日  金融緊急措置令;旧円預金を封鎖、新円発行。  
  2月24日  共産党第5回大会、平和革命路線を採択。  
  3月3日  物価統制令公布。  
  4月5日  連合国、第1回対日理事会開催。  
  4月10日  第22回総選挙(自由141、進歩94、社会93、協同14、共産5など)  
  4月22日  幣原喜重郎内閣総辞職。  
  5月1日  メーデー復活(第17回)  
  5月19日  東京で食料メーデー、「プラカード事件」起きる。  
  5月22日  第一次吉田茂内閣発足。  
  6月18日  米主席検事キーナン、天皇を戦争犯罪人として裁判を行わずと言明。  
  6月29日  共産党、日本人民共和国憲法草案を発表。天皇制廃止、一院制、再軍備を主張。  
  9月6日  三井・三菱・住友・安田の財閥解体決定。  
  11月3日  日本国憲法公布。  
1947年 2月1日  二・一ゼネスト中止声明。徳田たち自らが解放軍としたマッカーサー指令による。左翼における共産党の求心力低下。  
  4月7日  労働基準法公布。  
  4月20日  第一回参議院選挙(社会47、自由39、民主29、国民協同10、共産4、諸派13、無所属108)  
  4月25日  第23回総選挙(社会143、自由131、民主124、国民協同31、共産4)  
  5月3日  日本国憲法施行。  
  5月15日  社会党左派、共産党と絶縁声明。  
  5月20日  吉田内閣総辞職。  
  5月24日  片山哲内閣発足。  
  7月1日  公正取引委員会発足。  
1948年 3月15日  民主自由党結成(総裁;吉田茂)  
  6月23日  昭和電工社長の日野原節三が贈収賄で逮捕(昭電疑獄)。GHQの民政局(GS)ケーディス大佐が失脚。GHQの参謀第2部(G2)が占領政策を主導へ。日本を反共防波堤へ。反共主義の吉田茂を支援。*1  
  10月  第二次吉田茂内閣発足。  
1949年 6月18日  徳田共産党書記長、9月までに吉田政府打倒と発言(9月革命説)。  
   7月5日  下山定則国鉄総裁行方不明、翌朝、轢死体で発見(下山事件)。  
  7月15日  中央線三鷹駅で無人電車暴走(三鷹事件)。  
  8月17日  東北本線松川駅で列車転覆(松川事件)。3つの事件は共産党によるものと当局が発表。さらに共産党退潮へ。*1  
   8月29日  ソ連、セミパラチンスクで初の核実験成功。原水協がソ連を批判せず、社会党系が離脱し原水禁を結成。  10/1 中華人民共和国成立
1950年 1月6日  コミンフォルム、共産党の平和革命論を批判、内部対立激化。中国共産党からも批判され、「所感派」が平和革命路線放棄を宣言。*1  
  1月  社会党大会で「平和四原則」は発表して、平和路線を確立。  
  1月  ディーン・アチソン米国務長官の演説で、「アラスカ州アリューシャン列島、日本列島、琉球諸島、フィリピン諸島を結ぶ線(アチソンライン)より東側に対する攻撃に米国は断固反撃する」とした。朝鮮半島が入っておらず、金日成に対する誤ったメッセージとなる。*1  
  5月3日  マッカーサーが共産党を非合法化。反発した共産党が主導して皇居前広場(当時、人民前広場)で集会、占領軍との小競り合いから「人民広場事件」へと発展し、逮捕者8名。*1  
  6月6日  マッカーサー元帥、共産党中央委員24名全員の追放を指令(所感派、国際派に分裂)  6月朝鮮戦争勃発。
  6月26日  マッカーサー元帥、「アカハタ」の1か月停刊を指令。徳田、野坂は中国へ亡命、後に北京機関を作って、国内の「山村工作隊」「中核自衛隊」などの軍事組織を指示。*1  
1951年 1月19日  社会党大会、平和三原則と再軍備反対を決議(平和四原則)。  
  2月23日  共産党四全協、「軍事方針について」採択。  
  4月11日  マッカーサー元帥解任(朝鮮戦争での暴走による)。  
  10月  社会党左派は、ソ連・中国と講和が成立しないサンフランシスコ講和条約に反対。右派は朝鮮戦争を共産主義陣営による侵略戦争と、講和に賛成し、左右で分裂。  
  10月16日  共産党、五全協、新綱領(民族民主革命方針)を採択。  
  10月24日  社会党臨時大会、両条約承認の賛否で左右両派に分裂。  
1952年 2月   東大ポポロ事件;学生劇団「ポポロ」が松川事件をテーマにした演劇を上演したが、観客の中に私服警官4人が潜り込んでいるのを学生が発見し暴行を加えた。  
5月1日  血のメーデー事件;デモ隊、皇居前広場で警官隊と激突。「アカハタ」復刊。  4月サンフランシスコ講和条約締結。米と単独講和。
  7月21日  破防法・公安調査庁法各公布・施行。  
 1955年 1月1日  共産党、「アカハタ」で極左冒険主義を自己批判。  
  7月27日  共産党、六全協(党内分裂収拾)。1953年徳田死去後、過激化した所感派は、宮本顕治ら国際派と合流。  
  10月13日  社会党統一大会(委員長;鈴木茂三郎)。  
 1956年 2月9日  ソ連共産党第20回大会でフルシチョフによるスターリン批判。中ソ関係悪化。  
  10月23日  ハンガリー動乱起こる。  
1957年 1月16日  労農党解党大会、社会党との統一決定。  1月 ソ連、スプートニク(世界初の人工衛星)打ち上げ成功。 
  1月17日  社会党大会、左派が主導権掌握。
     黒田寛一、本田延嘉らが革共同を設立。後に革マル、中核に分裂し、内ゲバへ。  
1958年    岸信介首相は、(米軍の日本駐留を認めている一方で、米が日本を守る義務があるとは規定されていない不公平な)旧安保条約の改正をめざす。  
     共産党第7回党大会で宮本顕治は、「敵の出方による」暴力革命論は否定しなかった。  
 1959年 1月19日  三井鉱山、労組に6,000人整理の企業再建案を提示。  
   3月9日  浅沼稲次郎社会党訪中団長、北京で「米帝国主義は日中両国人民共同の敵」と演説。  
  3月28日  安保改定阻止国民会議結成。  
  4月15日  安保改定阻止第一次統一行動。  
  7月19日  西尾末広、安保阻止国民会議から共産党の締め出し主張。  
  8月28日  三井鉱山、労組に4,580人整理の第二次案提示。  
  9月12日  社会党大会、西尾処分問題で混乱。  
  10月13日  三鉱連、反復スト闘争に突入。  
  10月25日  西尾派離党33議員、社会クラブ結成。  
  11月26日  社会党河上派、民社クラブ結成。  
  11月27日  安保阻止第八次統一行動のデモ隊2万人、国会内に入る。  
  11月30日  社会クラブ・民社クラブを中心に民主社会主義新党準備会結成。  
  12月11日  会社側、指名解雇通告。三池争議始まる。  
     本田延嘉、革共同全国委を結成。後に、中核派を結成し、革マルとの内ゲバを展開。  
1960年 1月16日  岸首相ら日米新安保条約調印全権団渡米。全学連学生など羽田空港に座り込み。  
  1月19日  日米新安保条約・地位協定調印。  
  1月24日  社会党の最右派が安保に賛成し、民主社会党(民社党)結成(委員長;西尾末広)。  
  5月19日  衆院安保特別委員会で安保条約の強行採決。アイゼンハワー来日(6月19日予定)までに自然成立を目指し急いだため。ここから安保闘争が盛り上がる。  
  6月4日  安保改定阻止第一次スト560万人参加。社会党が反岸内閣闘争、共産党が反米闘争で対立。共産党の二段階革命論のまず天皇制打倒、がまず米国を追い出す、ことに代わりナショナリズムが強くなる。  
  6月10日  米大統領秘書、羽田でデモ隊に包囲される(ハガチー事件)。  
  6月15日  安保改定阻止第二次スト、全学連主流派国会に突入(樺美智子死亡)。
樺美智子は第一次ブント(共産党の枠から活動家たちの共産主義者同盟。青木正彦、森田実、西部邁など。第二次ブントがよど号ハイジャックの田宮高麿、テルアビブ空港乱射事件の重信房子ら。)*1
 
  6月16日  岸内閣、アイゼンハワー大統領の訪日延期を要請。  
  6月17日  東京の7新聞社、暴力排除・議会主義擁護の共同宣言。  
  6月18日  安保阻止第18統一行動、徹夜で国会包囲。  
  6月19日  新安保条約自然承認。  
  6月23日  新安保条約批准書交換、発効。岸首相、退陣表明。  
  7月14日  自民党大会混乱、池田勇人を総裁に選出。  
  10月12日  浅沼社会党委員長、右翼青年に刺殺される。  
1961年    「風流夢譚」事件;小説家深沢七郎が『中央公論』に『風流夢譚』を発表、皇室を侮辱したとして右翼の少年が中央公論社社長嶋中鵬二社長宅に押し入り、家政婦が殺される。天皇批判へのタブー視強まる。*1  
  3月6日  社会党大会。構造改革方針を決め、委員長に河上丈太郎を選出。  
  4月19日  ライシャワー米駐日大使着任。  4月 ソ連ガガーリン有人宇宙飛行に成功。
  7月25日  共産党第八回大会。反米帝・反独占、新しい人民の民主主義革命を基本路線とする新綱領(六一年綱領)を採択。  
     山川均ら社青同解放派、戦前のドイツ共産党ローザ・ルクセンブルクの理論に依拠。  
1962年  革共同全国委が革マル派と中核派に分裂。  
1963年 8月14日  日本、部分的核実験禁止条約に調印。  米英ソ部分的核実験禁止条約締結。
   11月10日  共産党、「アカハタ」で中ソ論争に対して自主独立の態度をとることを発表。  
   11月21日  第30回衆議院議員総選挙(自民283、社会144、民社23、共産5)  
     革共同の黒田が本田と対立し、革マルを結成。  
1964年 4月8日  共産党、4月17日に予定された公労協ストは挑発の陰謀であると反対を声明。各労組で方針論争起こる。  
  5月21日 共産党、部分的核実験禁止条約に賛成投票をした志賀義雄、鈴木市蔵を除名。   
     社会党、綱領「日本における社会主義への道」採択。  
  7月19日  共産党、4月17日スト反対表明は誤りと自己批判。この頃は共産党の反米主義により、活動方針が不明確だったが、結局社会党消滅後も共産党が唯一の左翼勢力として残ることになる。  
  8月10日  社会党・共産党・総評など、ベトナム戦争反対集会開催。  8月トンキン湾事件(米駆逐艦が北ベトナムから魚雷攻撃を受け、米が派兵決定。ベトナム戦争へ)
  10月10日  東京オリンピック開幕。開催期間中の10/17に中国が核実験に成功。共産党の宮本顕治は中国の核を「自衛手段」として肯定。  
  10月17日  鈴木善幸官房長官、中国の核実験に抗議の談話発表。社会・民社・公明・総評も反対を表明。宮本顕治共産党書記長、中国の核実験は自衛手段とする見解を表明。  
  11月9日  池田内閣総辞職、第一次佐藤栄作内閣成立。  
 1965年 1月28日  慶應大学で学費値上げ反対で学生が全学スト  
  4月24日  ベトナムに平和を!市民文化団体連合(べ平連)主催の初のデモ。  
6月22日  日韓基本条約・関係四協定調印。社会党・総評・全学連など抗議集会。韓国との条約締結は、朝鮮の南北統一を妨害する、との主張。  
  8月19日  佐藤首相、戦後初めて首相として沖縄訪問。  
     「ベトナム戦争反対・日韓条約批准阻止のための反戦青年委員会」(通称;反戦委員会)を作り、そこに新左翼を受け入れ、拡大する。後に過激化。  
1966年 1月18日  早大学生、授業料値上げ反対スト。  
  2月14日  佐藤首相、参議院決算委員会で、安全が確認されれば米原子力空母の寄港を承認と答弁。  
  11月24日  明大学生会、授業料値上げ反対、無期限スト。  
1967年 9月14日  法政大で学生処分問題をめぐり未明に機動隊導入、学生275人を検挙。  
  10月8日  佐藤首相、第二次東南アジア・オセアニア諸国歴訪に出発。三派系全学連、反対デモ。警官隊との衝突で学生一人死亡;第一次羽田事件。これ以降、ヘルメットと角材のスタイル、つまり武装化が定着する。  
  11月12日  佐藤首相、訪米に出発。三派系全学連デモ隊、空港周辺で警官隊と衝突(第二次羽田事件)  
 1968年  1月15日  米原子力空母エンタープライズ佐世保入港阻止の反日共系、佐世保で衝突。  
  1月27日  佐藤首相、非核三原則を含む「核四政策」を発表。  
   5月27日  日大全学共闘会議(議長;秋田明大)を結成。乱脈経営是正、学園民主化を要求。9月4日に仮処分執行で学生132人を検挙(日大闘争)。大学が相撲部や柔道部を使って襲わせ、「日大アウシュヴィッツ」と言われた。  
  6月15日  東大医学部で、一部学生が安田講堂占拠。警官隊導入により強制排除。  
   共産党不破哲三委員長、その著書で、平和革命論は日和見主義と批判。*1  
  7月  衆院選挙で前年に続き、社会党議席数減。  
  10月21日  新宿騒乱事件;ベトナム戦争のための米軍燃料タンク輸送阻止闘争のデモ隊が新宿駅を占拠。364人逮捕。  
 1969年 1月18日  東大安田講堂事件;機動隊500人を導入、占拠学生を実力排除。19日封鎖解除、学生631人を逮捕。東大生や革マルは脱出し、逮捕された中に東大生は少なかった。  
  4月28日  4・28沖縄闘争;沖縄本土復帰と引き換えに米軍基地を永続的に置くことに反対。  
  9月22日  赤軍派の大阪戦争計画失敗;同時多発的に警察署や交番を襲撃し、武装蜂起する計画。続いて東京戦争計画も失敗。  
  11月  大菩薩峠の軍事訓練で赤軍派53人が逮捕される。残った塩見、田宮らは、日本一国の闘争では革命実現は困難と考え、国際根拠地論を展開。北朝鮮を目指し、のちによど号事件を起こす。  
  12月  総選挙で社会党50議席減。  
     共産党系の民青は、東大闘争などをニセ左翼の暴動と批判し、武装し全共闘と乱闘(内ゲバ)を繰り広げる。  
     東大占拠から逃げだした革マルは全共闘内部では裏切者とされ、嫌われ、秘密結社化していく。  
1970年 2月3日  政府、核拡散防止条約に調印  
  3月31日  よど号ハイジャック事件;赤軍派学生、羽田発福岡行き日航よど号を乗っ取る。3月15日リーダー塩見孝也が逮捕され、田宮高麿ら9人で実行。彼らは反スターリン主義であったが、北朝鮮入国はスターリン主義で、主体(チュチェ)思想など洗脳教育を受け、日本人拉致事件に関与したとされる。  
  6月22日  政府、日米安保条約自動延長で声明。  
  6月23日  総評の反安保統一行動で集会・デモ、全国で77万人参加。  
  7月1日  日本共産党第11回大会、報道陣に初公開。中央委幹部会委員長宮本顕治、書記局長不破哲三選出。  
  8月3日  東京教育大生リンチ殺害事件(革マルの学生が中核派に殺害される)。内ゲバ激化。  
  11月25日  三島由紀夫事件;楯の会会員と陸上自衛隊東部方面総監部でクーデターを呼びかけ、失敗し自決。  
  11月30日  第34回社会党大会。委員長成田知巳、書記長石橋正嗣を選出。  
1971年 2月22日  新東京国際空港公団・千葉県が、成田空港用地の強制代執行開始。反対派の農民・学生と警官隊衝突。  
  2月以降  赤軍派は毛沢東主義で思想的に合わない京浜安保同盟と合流し(連合赤軍)、銀行や銃砲店を襲う。  
   印旛沼事件;永田・坂口らが、連合赤軍から脱走を図った男女を殺害。  
  8月21日  赤衛軍事件;朝霞自衛官殺害。後に京大助手 滝田修のパルチザン闘争の主張に影響を受けた新左翼学生の犯行と判明。  
  9月16日  成田空港第二次強制代執行で学生と機動隊衝突、隊員3人死亡。  
  11月14日  沖縄返還協定批准反対で全国32都道府県で集会・デモ。渋谷事件;学生と警官隊衝突、警官と学生各1人死亡。  
  12月18日  警視庁土田國保警務部長の自宅で郵便爆弾により妻死亡、13歳の息子が重傷。赤軍派が逮捕されるが、証拠不十分で不起訴。  
  12月31日  山岳ベース事件;2か月の間に、自己批判や他のメンバー批判などの総括により、12名の内ゲバリンチ殺人。  
1972年 2月16日  群馬県妙義山中で連合赤軍2人逮捕、17日同所で幹部の永田洋子・森恒夫逮捕。19日長野県軽井沢で4人逮捕。5人が警官隊と銃撃戦の末、管理人の妻を人質にとってあさま山荘に籠城;あさま山荘事件(28日警官隊が強行救出作戦によって人質救出、5人全員逮捕。山岳ベース事件も世間に知られ、新左翼運動への社会のシンパシーは失われた。  
  5月15日  日米沖縄返還協定発効、沖縄県発足。  
     新日和見主義事件;日本共産党中央委員の広谷俊二や民主青年同盟中央常任委員の川上徹らが中心となり、党の公式路線に反対するための分派を組織。分派活動に関わった党員100名が処分される。  
  5月30日  イスラエルのテルアビブ空港で日本人ゲリラ3人(パレスチナ解放戦線に参加)の乱射事件;死者26人、重軽傷者73人。ゲリラ2人(安田安之・奥平剛士)は射殺、1人(岡本公三)逮捕。  
     中核派は爆弾製造など過激化し、革マル派は労働運動に力を入れるなど分岐が鮮明になる。  
  11月8日  川口大三郎事件;早稲田大学構内で革マル派による男子学生へのリンチ殺人、死体遺棄事件が発生。  
1973年 1月1日  赤軍派リーダー森恒夫が獄中で自殺。  
  3月13日  上尾事件;埼玉県上尾市で暴動が発生。  
  4月24日  首都圏国電暴動  
  7月17日  渡辺美智雄、中川一郎、石原慎太郎ら自民若手タカ派31名が青嵐会を結成。  
  8月9日  金大中事件;金大中・韓国新民党大統領候補、東京のホテルから数人の韓国人により白昼誘拐。  
  9月11日  チリ・クーデター;アジェンデ政権崩壊。軍事独裁のピノチェト政権が誕生。  
  10月9日  日本共産党、民主連合政府綱領を発表。  
1974年 8月30日   東京丸の内の三菱重工本社爆破事件。死者8人、重軽傷者380人あまり。  
  12月28日  創共協定;創価学会と日本共産党との合意についての協定調印。  
1975年 8月4日  日本赤軍、クアラルンプールの米・スウェーデン両大使館を占拠。人質と引き換えに赤軍派活動家など7人の釈放を要求。5日、政府が超法規的措置で釈放決定。うち5人出国。8日、リビアのトリポリ空港着、人質を解放し、ゲリラはリビア政府に投降。  
  11月  スト権スト(ストライキ権奪還ストライキ)行われる。  
1976年 7月27日  ロッキード事件で田名角栄前首相を逮捕。  
  7月28日  第13回共産党臨時大会、プロレタリアート執権、マルクス・レーニン主義の用語削除を含む綱領・規約改正を採択。  
 1977年 2月8日  第40回社会党大会開催。社会主義協会派による江田三郎副委員長批判で、左右対立激化。  
9月28日  ダッカ事件;日本赤軍、パリ発東京行き日航機を乗っ取り、ダッカに強行着陸。拘留中の赤軍派など9人の釈放と身代金600万ドルを要求。29日政府は要求受け入れを決定。10月1日超法規的措置で6人が出国。  
10月29日  社会市民連合結成大会;江田五月、大柴滋夫、菅直人を代表に選出。  
  1月4日  共産党、袴田里見前副委員長の除名を発表。  
 1978年 3月1日  社会党初の委員長公選で飛鳥田一雄委員長を信任(対立候補なし)。  
  3月26日  社会民主連合(代表;田英夫)結成。  
3月  成田空港管制塔占拠事件;第四インター前田道彦らが管制塔に突入し、破壊。開港を遅らせる。(前田は懲役9年の実刑)  
1979年 12月24日  ソ連のアフガニスタン侵攻。  
1980年 1月10日   社会・公明両党、連合政権構想で合意。(共産党排除を明記)  
  5月18日  韓国・光州事件;民主化運動全国化。光州の民主化運動を武力鎮圧。  
1982年 2月6日   第46回社会党大会、馬場昇書記長選出。  
   7月30日  臨時行政調査会;増税なき財政再建の堅持、国鉄など三公社の分割民営化などの基本答申を鈴木善幸首相に提出。  
   7月31日  第16回共産党大会、野坂参三中央委員会議長引退、宮本顕治議長選出。  
  11月27日  中曽根康弘内閣成立。  
1983年 9月7日  飛鳥田一雄社会党委員長の辞意を受け、石橋正嗣委員長を選出。  
1986年 1月22日  第50回社会党大会続開大会開幕、「新宣言」採択(西欧型社会民主主義路線へ転換)  
   8月15日  新自由クラブ解散、自民党へ復党。  
   9月6日  社会党委員長選挙、土井たか子候補が当選(国政史上初の女性党首)  
1987年 1月19日  社会党など4野党・総評など労働5団体、売上税反対で共闘。  
  4月1日  国鉄分割民営化。  
1988年 6月18日   リクルート事件発覚。  
1989年 7月23日  第15回参議院議員選挙で国政選挙初の与野党逆転。  
  9月10日  土井社会党委員長、連合政権を展望した「新しい政治への挑戦」(土井ビジョン)を発表。  
  11月9日  ベルリンの壁崩壊。  
  11月21日  総評解散、日本労働組合総連合会(新「連合」)発足。  
1990年 4月5日  社会党大会、野党連合政権下での日米安保条約、自衛隊の維持の方針などを採択。  
   8月2日  湾岸危機;イラク軍がクウェートに侵攻・制圧。  
  10月16日  国連平和協力法案提出。  
  11月8日  自社公民4党幹事長・書記長会談で国連平和協力法案の廃案決定。  
  11月21日  全欧安保協力会議(CSCE)、34ヵ国が調印。冷戦終結を公式に宣言。  
1991年  12月25日  ゴルバチョフ・ソ連大統領の辞任。ソ連崩壊。  

 「日本における社会主義への道」(1964、社会党綱領)
 1917年のソ連の社会主義革命によって、世界の歴史上にはじめて社会主義国家が樹立されたが、それ以来四十数ヵ年を経た今日においては、東欧、中国、蒙古、朝鮮、北ヴェトナムを加えて、十三ヵ国、世界人口の三十五%が社会主義体制を確立するに至った。(中略)このような世界の中で、資本主義諸国は、国内体制強化と共に、各種の軍事的、経済的国際連帯を作り上げ、その体制維持のために狂奔しているが、国内的には、幾多の基本的矛盾を累積拡大する過程で、反独占に結集した労働者階級を中核とし労農提携を中心とする勤労諸階級の抵抗と体制変革を求める根強い闘争によって、その足元を堀くずされ、対外的には、社会主義諸国の平和的競争の圧力、新興諸国家を中心とする反帝国主義、反植民地主義の闘争、さらには資本主義諸国家間の利害対立によって、その国際的地位は著しく低下し、今や資本主義体制は。世界史的に見てその歴史的使命を終わり、社会主義体制にその席を譲らざるを得ない段階にきているということである。史上かつてないほどの急速な発展をとげた日本の国家独占資本主義は、同時に資本主義の基本的矛盾が最高度に発展している独占資本主義であって、この意味で国家独占資本主義は資本主義最後の段階であり、社会主義の前夜であるということができる。
 この「道」は、反スターリン主義を掲げていおらず、「議会主義平和革命」を掲げた。それは「外患誘致」例えば、ソ連の軍事力を以て革命を成し遂げようとしていた。

 全共闘(1968)
 各大学の学生自治会でストを行おうとすると多数決をとり賛成多数であれば全学ストを行うことも可能だが、バリケードや占拠など戦闘的なストを行おうとすると、多数決方式では多数派のノンポリ学生がついて来られないので否決されてしまう。そこで革命意識の高い学生たちがブントや革マル、中核派といった諸族党派の垣根を越えて集まる「共闘会議」が自治会とは別に組織され、この全学共闘会議を軸とした闘争が展開された。
 だから全共闘の特徴は、近代的な代議制ではない、というところにある。意識が高い者だけが集まった方がよい、というのは戦前日本の翼賛運動やナチスと通じるところがある。
 

 新左翼運動について
佐藤優)哲学・思想の面で新左翼にすぐれたものがあったが、政治的には全く無意味な運動だった。革命を成就させられなかっただけでなく、その後の日本社会に何らかのポジティブな影響を及ぼしたわけでもない。正義感と知的能力に優れた多くの若者たちが必死に取り組んだけれども、その結果として彼らは相互に殺し合い、生き残った者の大半も人生を棒に振った。だから彼らと同形態の異議申し立て運動は今後決して繰り返してはいけない、ということに尽きる。 ・・・暴力に走ったとしても権力に対する暴力にとどめていれば一定の存在感を残せていた可能性もあったでしょうが、内部で殺し合いに走ったことが致命的であった。
 佐藤優)国家権力の新左翼に対する介入の仕方は巧みでした。彼らの内ゲバに対しては、殺人事件や傷害事件としてもっと徹底的に摘発だってできたはずです。ところが、警察の態度は実際にはそれほど徹底的ではなかった。こうすることで新左翼を社会から遊離させるたかったから。・・・当局はことの全貌がわかるまで基本的に泳がせるもの。(池上)公安では、犯人逮捕が目的ではなく、誰がどういう目的で、どういう指揮命令系統で事件を起こしたのかを情報収集すること。
 佐藤優)新左翼のリーダーは、知的能力も意欲も備えながら、社会の矛盾を正したい一心で自分の人生全部を棒に振る覚悟でロマンを追求したからです。既存体制の中にある知識人の欺瞞、大学の中の親分・子分関係にもとづく空虚なヒエラルキー、そうしたものすべてに異議申し立てをすることで人間の解放をしようと本気で目指していた。そういう意味では、自分一人の栄達だけで満足できてしまえる21世紀型のエリートではなかった。そこは評価しなければいけない。
 佐藤優)新左翼の運動はロマン主義であるがゆえに、多くのものにとって運動に加わる入口になったのは、実は思想性などなにもない、単純な正義感や義侠心でした。そのために大学内の人間関係などを軸にした親分・子分関係に引きずられて任侠団体的になり、最後は暴力団の抗争に近づいていった。
 池上彰)閉ざされた空間、人間関係の中で同じ理論集団が議論していれば、より過激なことを言うやつが勝にきまっている。
 佐藤優)ロマン主義や社会民主打撃論的な内ゲバへの誘惑に流されることなく踏みとどまり、現実的に考えるためにひつようなことの一つは、組織の内部に「ダラ幹(堕落した幹部)」を作っておき、その現実主義を認めることです。ロマン主義はダラ幹の存在を認めようとしませんがそういう運動は壁にぶつかります。






資料  *1 池上彰・佐藤優 『真説 日本左翼史 1945-1960』(講談社現代新書)
 *2 池上彰・佐藤優 『激動 日本左翼史 1960-1972』(講談社現代新書)
 *3 池上彰・佐藤優 『漂流 日本左翼史 1972‐2022』(講談社現代新書)
 山川出版社『世界史大年表』石橋秀雄 他。

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