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虐殺 |
備考・概略 |
1 |
チリ ピノチェト政権による虐殺
1973年〜 |
1973年9月11日チリ アジェンデ政権に対する中道派、右派、軍部および米CIAによるクーデターが実行される。大統領官邸に対する空軍からの爆撃、陸軍による砲撃により選挙によって選ばれたアジェンデ大統領は、フィデル・カストロから贈られたマシンガンで自ら命を絶った。アジェンデ政権下での社会主義的政策の失敗により経済が混乱しており、多くのチリ国民はこのクーデターを受け入れた。 |
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しかし、軍事独裁政権が数年で終わり民主政へ移行するとの国民の期待は、権力を握ってそれを放そうとしないピノチェト大統領に裏切られる。それどころか秘密警察を組織し、政敵や反政府の人々を弾圧した。13万人が逮捕され、10万人が国外に逃れ、数千人が虐殺された。 |
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民主主義の国が、分断と混乱から、クーデターにより、独裁政権となり、国内でこれだけの虐殺が行われたのは、衝撃であった。しかし、アジェンデ政権とピノチェト政権の両方を経験した国民は、ピノチェトが自由主義的な施策により、経済を復興させたことを含めマイナス面ばかりではないと評価していた。 |
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『危機と人類』(ジャレッド・ダイアモンド著)より |
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2 |
インドネシアでの虐殺 |
50万人が虐殺された。 |
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1965年〜 |
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3 |
インドネシア共産党の反乱
1948年 |
インドネシアではオランダから独立するため共和国政府を樹立し、戦っていたが、共和国内部でも、東部やスマトラ島のインドネシア人には、共和国政府がジャワ人主導に見えていた。インドネシア共産党(PKI)も不満を抱き、それが1948年に爆発し反乱を起こす。共和国政府軍はこれを制圧したが、少なくとも8,000人の共産主義者が殺された。 |
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『危機と人類』(ジャレッド・ダイアモンド著)より |
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