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ヴェネツィアの歴史 |
周辺・他地域の歴史 |
| 452年 |
フン族またはその王アッティラ(406~453年)のローマ帝国への侵入、殺戮と支配を避けるため、ラグーナ(潟)に逃げ込んだ住民が後のヴェネツィアを形成する。*1 |
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| 5C後半 |
ロンゴバルト族の侵入により避難民が増え、ヴェネツィアが拡大。*1 |
475年 西ローマ帝国滅亡 |
| 697年 |
はじめて住民投票により、ドージェ(終身の元首)を選出。 |
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| 800年 |
シャルルマーニュがイタリア半島の支配者となる。 |
フランク族の王シャルルマーニュ、神聖ローマ皇帝に即位。 |
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シャルルマーニュの子ピピン、ヴェネツィアに対してビザンチン帝国の配下から神聖ローマ帝国の配下に入るよう要求するが、ヴェネツィアがこれを拒否。 |
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ピピンは船を建造してヴェネツィアを攻めたが、ラグーナに逃げ込んで潮の干満を利用したヴェネツィアに大敗、ビザンチン帝国の傘下に残ること、神聖ローマ帝国領内での交易の自由を認めた。*1-P19 |
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ヴェネツィアはフランクに勝利した後、首都をマラモッコから海に囲まれたリアルト(現在のヴェネツィアの中心)に移す。*1-P20 |
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| 828年 |
ヴェネツィアの商人トリブーノとルスティコがエジプト アレクサンドリアのキリスト教寺院から聖マルコの御聖体を退避させるため持ち帰る。聖マルコはヴェネツィアの守護聖人となり、聖マルコ寺院建設される。*1-P22 |
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| 991年 |
ピエトロ・オルセオロ2世が元首(ドージェ)に就任。争う神聖ローマ帝国とビザンチン帝国から海軍力を高めたヴェネツィアを自派に引き入れようとしていた。国内の対立も発生していた。*1-P55 |
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| 992年 |
元首オルセオロは、ビザンチン帝国に属することを認める代わりにコンスタンティノープルへの入港料を他国の半額程度とする条約を締結。ヨーロッパでのヴェネツィア交易品の価格競争力が高まる。ビザンチン帝国は東のセルジューク・トルコや南のサラセンに対抗するため、ヴェネツィアの海軍力を防衛力として利用しようとした。ヴェネツィアは海賊掃討の大義名分を得た。*1-P56 |
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神聖ローマ帝国側につかなかったことは結果として、この後の皇帝派(ギベリン)と法王派(グエルフ)の争いからヴェネツィアを守ることにもなった。 |
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| 998年 |
海賊が荒らしまわる20以上のアドリア海東岸の都市がヴェネツィアに保護下に入ることを求める。海賊を掃討したヴェネツィアにビザンチン皇帝から「ダルマツィア公爵」の称号が送られた。*1-P59 |
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ヴェネツィアは配下の諸都市に完全な自治を認め、戦略要地に城壁や造船所、倉庫を建設した。18世紀はアドリア海は「ヴェネツィアの湾」と呼ばれる。*1-P60 |
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ヴェネツィアの「海との結婚」の儀式は、ピエトロ・オルセオロ2世がダルマツィア征服を記念して始めたと言われている。 |
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9世紀までのヴェネツィアの主な交易品は、塩と塩漬けの魚であったが、10世紀以降海洋交易時代に入ると主要商品は木材と奴隷になる。奴隷はキリスト教化(カトリック)されていない民族、主にスラヴ人をアフリカのイスラム教徒へ兵力などとして供給した。ローマ教皇はたびたびイスラム教徒に奴隷(軍事力)と木材(軍需物資)を売ることを禁じる布告をだすが、ヴェネツィア商人はこれを聞かなかった。*1-P67 |
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ヴェネツィアは、商業発展のため、海洋国家として船の建造、基地の建設など「高速道路」を造ることを執拗に押し進めた。また、商業のために独立を保持し、東地中海にあってはビザンチン帝国の”警察”の役割を果たした。 |
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ヴェネツィアでは法律で船は国内で造られたものを買わなければならなかったし、国外に売ることも禁じられていた。*1-P69 |
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| 1081年 |
ドゥラッツォの戦い;シチリアを征服したノルマン人がビザンチン帝国征服に乗り出そうとしており、ビザンチン皇帝からの要請を受け、ヴェネツィアがこれを阻止した。アドリア海の出口を塞がれることになるため、ヴェネツィアにとっても排除したいノルマン人だったが、ビザンチン帝国の商業特権などを要求し勝ち取っている。*1-P85 |
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| 1082年 |
コンスタンティノープルにヴェネツィア人居住区と領事館、倉庫、ヴェネツィア船専用の船着場が設けられる。ヴェネツィア以外の交易航路が発展した。コンスタンティノープルに1万人のヴェネツィア人がいた(本国の人口は約10万人)。*1-P84 |
ヴェネツィア商人のコンスタンティノープルでの特権取得により、ビザンチン商人のライバルとなり、ビザンチンの国益に影響し始めたため、皇帝はヴェネツィアの特権を抑制しようとした。 |
| 1099年 |
十字軍の補給を担当していたピサの艦隊をヴェネツィア艦隊が撃破。ビザンチン皇帝は、コンスタンティノープルでのヴェネツィアの特権を保証した。*1-P86 |
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ヴェネツィアは十字軍のヤッファ攻撃に協力し、先行していたジェノバやピサとパレスティーナの商業権益と同等の権利を得る。 |
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しかし、アドリア海西岸に進出してきたハンガリー王やシチリアのノルマン人に対抗するため、約20年間十字軍支援から脱退する。 |
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| 1123年 |
40隻のガレー船、28隻の帆船、4隻の大型ガレー商船からなるヴェネツィア艦隊が元首ドメニコ・ミキエル指揮のもとヤッファに到着するが、十字軍に対するムスリムの包囲は解かれていた。ヴェネツィア艦隊は南下してアスカロンの沖でムスリムのエジプト艦隊を撃破した。 |
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| 1124年 |
ヴェネツィア艦隊も参加した十字軍によるティロスの陥落で、アスカロン以北は港はすべてイエルサレム王国などキリスト教側の支配下となる。*1-P89 |
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| 1147年 |
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1147年 第二次十字軍は敗退。 |
| 1168年 |
コンスタンティノープルにおける特権の継続を渋る皇帝に対して、ヴェネツィアの元首ヴィターレ・ミキエレは、全ヴェネツィア人のコンスタンティノープルでの交易を禁止する。*1-P84 |
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| 1170年 |
ビザンチン皇帝とヴェネツィア元首との間で和解が成立。 |
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| 1171年 |
皇帝が交代し、コンスタンティノープルでヴェネツィア排撃運動が勃発。皇帝に扇動された暴動によりヴェネツィア船は焼かれ、多くのヴェネツィア人が人質として拘束された。 |
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| 1177年 |
ギベリン(皇帝派)と教皇派(グエルフ)争いの中、ヴェネツィアは中立を保ち、1177年元首(ドージェ)セバスティアーノ・ヅィアニが神聖ローマ皇帝バルバロッサと教皇アレッサンドロ3世を招き和平協定に調印する。*1-P82 |
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| 1190年 |
ヴェネツィア共和国とビザンチン帝国の間で和解が成立し、再び交易が開始されたが、以前のような信頼関係は持てなくなっていた。*1-P90 |
1187年 サラディン、イエルサレムを占領。
1188年 第三次十字軍派遣されるが、大きな挽回はなかった。 |
| 1201年 |
第四次十字軍の代表6名(フランスの騎士)がヴェネツィアを訪れ、全軍の運搬を依頼。 |
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| 1202年 |
3万3,500人の運搬を依頼したが、集まった騎士、歩兵は1万人程度だった。ヴェネツィアは運搬する艦隊の建造を間に合わせた。*1-P111 |
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騎士たちは支払いを履行することができず、ヴェネツィアも支払われるまで船を出さなかったが、ヴェネツィアの要塞ザーラがハンガリーに攻撃されており、この奪還に手を貸してくれれば、支払い猶予を延期する、との申し出があり、キリスト教徒と戦うことに躊躇はあったが、申し出を承諾した。 |
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11月 ザーラを占領。教皇インノケンティウス3世が激怒し、第四次十字軍は破門となる。フランス軍は釈明をして撤回されたが、ヴェネツィアの破門はそのまま。ここで越冬している間に、ビザンチン帝国皇子アレクシウスから略奪された父の帝位奪還への協力を要請があり、十字軍内での対立と紛糾の末、コンスタンティノープルを攻略することとなる。皇子アレクシウスから成功したときには、報酬(フランス兵のヴェネツィアに対する運搬費用の未払いに充当できる)、エジプト攻略時や聖地警護の兵力提供、そしてビザンチン帝国のギリシア正教をローマ・カトリック教会へ統合する、が提示された。 |
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| 1204年 |
ヴェネツィア主導の第四次十字軍、コンスタンティノープルを占領。ラテン帝国を建国。 |
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| 1260年 |
この時代は帆船とガレー船があり、帆船についてこの年の記録によれば、200トン以上が大型船だが、「ロッカフォルテ(城塞)級=500トン以上)」の大型船は6隻しかなく、ヴェネツィアとジェノバが各2隻保有していた。(コロンブスのサンタ・マリア号は100トン)*1-P71 |
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帆船においては四角帆と三角帆があり、1300年頃になると四角帆と三角帆を備えた船も造られる。追い風では四角帆が速いが、三角帆は45°風上にも進める。*1-P71 |
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ガレー船は商船でも軍船でも使われた。軍船は兵役で教区ごとにグループを作り、資金を出し合って給料とした。イタリアでは漕ぎ手は戦闘員でもあったので奴隷を使わなかった。*1-P77 |
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