三柱鳥居の謎 追跡情報 2005.7.10UP

三柱鳥居のその容姿に魅せられ謎を追い求めはや8年ほど経つであろうか。存在目的は、諸説あるにせよ未だ結論が出ていない実に不思議な建立物である。

前回までオリジナル(正確には、享保年間に石造りに模倣され同じ地に建立されたもの。本当のオリジナルは、木製)が存在する京都太秦の「木島社(蚕の社)」の由緒には、「全国で唯一」とあったが、実は現在九基(現存八基)みつかっている。だが木島社以外の物は、後に模倣され建立されたものであるため由緒の「全国で唯一の珍しい鳥居」という記述は、やはり現在でも正しい。

●新たな、三柱鳥居発見!

そんな折、とある情報筋から「大寧軒の庭園に同じ鳥居がある!」との情報を得た。早速WEB調査したところ…。なんと!まさに木島社のものと瓜二つのものが存在しているではないか。まさか同じ京都にあったとは!。昭和初期には、すでに存在していたようである。この情報には、驚いた。しかし!…。この三柱鳥居が存在する庭園は非公開との事。京都に出向いたところでおいそれとは見に行けないようである。

思いを馳せながらいろいろWEB調査をしていたところ偶然にも『第1回京都伝統工芸体験展〜春うらら〜』が、ここ南禅寺の非公開庭園 大寧軒で開催されている事を知る。しかし期日が4月からGW明けの8日までで、気づいた時すでに遅し…。4月からやっていたならもう少し早く情報を仕入れておけば良かった。

●情報GET!

ここは、自分が行けぬなら他力本願。いつもお邪魔している各掲示板に一途の望みを馳せ投稿してみた。待つこと数日…。すると…。いつぞや奈良のイワクラサミットでもお会いしたZOUさんからなんと!取材をしてきたとのうれしい一報が入る。お仕事で忙しいのに、わざわざご足労頂いただいたようである。写真や「拝観の手引き」なる小雑誌までお送りいただけるとの事。これにはほんとに感謝感謝。(取材をしていただいたZOUさん(URL:ZOUのイメージ歴史館)に、改めましてこの場を借りまして御礼を申し上げます。)

大寧軒の三柱鳥居 写真提供(C)ZOUさん

写真提供(C)ZOUさん

大寧軒の庭園にある三柱鳥居

高さは意外と小さく子供の背丈程度

同項の記述によれば、この大寧軒の非公開庭園は、明治38年(1904)頃のもので、茶道 藪内家の第十一代家元「藪之内紹智(やぶのうちしょうち)(透月斎竹窓(とうげつさいちくそう))」の作だと伝える。当時南禅寺周辺の神社仏閣の作庭には、植治だった七代小川治兵衛(じへい)の手がけたものが殆どと伝え聞くがなぜここだけ藪内流家元の作庭というのも気になるところだ。

この庭園は、茶人ならではの趣向が凝らされており至る所にその大胆な技巧がみられる事で有名だ。池の水は、琵琶湖疎水の取水口の一つから導かれ滝を介し静かな流れを見せその小川の中央に三柱鳥居がある。鳥居の中央からも清泉が沸き出でて小川となり池へと注ぐ。中央の池は琵琶湖をかたどっており、庭園内には「環水庵(かんすいあん)」という茶室がありその名に因み「環水庵庭園」の名で造園関係者には語り伝えられているそうだ。残念ながらこの目で見てはいないので紹介記事と写真で、創造を膨らませるしかないがパッと見は、華やかさにかけるようだが(ZOUさん談)この庭園の作風と技巧は、利休直系の薮内流茶人ならではの繊細で渋さが目立つ庭園のようだ。

●なぜここに三柱鳥居が・・・?

ここで、庭園に置かれている三柱鳥居との関係であるが実は、ここの三柱鳥居は、造園当時ここに置かれていない事が判っている。記録写真から推測するに、どうやら昭和初期に、ここのオーナーが後から趣味で置かれたものであるようだ。前述の小雑誌の同項には、当時の大寧軒のオーナーが「1200年の時を経た当時の治水技術の大事業に貢献した(秦氏?)功労者に因み木島社の三柱鳥居を模してここに置いたもの。或いは三方正面の造形からこの庭の末広がりを意図したものか」とある。いずれも推測の域を出てはいないがやはり自分には、三井家との繋がりを無視するわけにはいかない。

現在の東京三田にある「綱町三井倶楽部」の庭園は、回遊式池庭(いけにわ)」と呼ばれる、池を中心とした造りで、本館の建設費よりも庭園の造営費に巨額な費用が投じられ贅を尽くした造りで有名である。ここは、三井家先々代の発意指示により、薮内節庵が作庭し4年の歳月をかけ造営されたものであるという。彼は、前述 透月斎竹窓の先代 十代家元休々斎 竹翠と共に数々の庭園をてがけている。

●三井家の茶人

そもそも三井一族は、茶の湯を好んだ物が多い。八郎右衛門高福は三井物産社長・三井銀行頭取を歴任し、茶の湯を表千家の吸江斎宗左に学ぶ。高福の子の八郎次郎(松籟)は表千家の惺斎に茶の湯を学び、京都美術協会副会長にもなっており、十八会のメンバーでもあった。その兄弟で三井銀行頭取・高保(華精)は、表千家の碌々斎惺斎に学んだ。その子の高大(小柴庵)も遠州流を学んだことで知られている。三井財閥の創始者であった益田孝(鈍翁)は、弟の克徳(非黙)から茶の湯を紹介されたちまち夢中に成り「不白流川上宗順」に師事した。彼は、東京財界人の茶道グループ十六羅漢会(大師会)の中心人物で、隠居後は、小田原に敷地2万坪の”掃雲台”を建て、茶三昧の日々を送っていた。彼は、美術品としての茶道具を数多く収集していたことも知られている。また注目したいのは、三井物産社長の三井高泰(泰山)である。彼は、薮内流を学び自ら削った茶杓も残している。

明治から昭和の初期、少なくとも太平洋戦争以前までは、茶道は紳士の高尚な趣味で、茶会は、現在のゴルフと同じ社交の場として存在していた。毎回開かれる茶会では、道具の収集とその披露の場での美術鑑賞会。そして山海の珍味に舌鼓を打ち場の趣向を味わう楽しみとしての茶の湯。その道具立てにおいても過去の仕来たりにとらわれず自由に機智を働かせたようである。

写真提供(C)三柱鳥子 様 写真提供(C)三柱鳥子 様

茶道で使われる茶道具のひとつ蓋置「三ツ鳥居」 藪内流では好まれて使われていると聞く 

そんな中、茶道具の中でも奇異を狙ったものも少なくない。ここで紹介する三柱鳥居型の蓋置もそんなもののひとつ。薮内流では、三柱鳥居(三つ鳥居)型の蓋置を好んで使われると聞くが、少なくとも三井家と薮内流との接点がある以上、茶会の席で居合わせた三井一族のある人物が大寧軒のオーナーと意気投合し昭和初期ここに、三柱鳥居を建てさせた事は、十分予想できる。 

●謎は振り出しに

今まで、前述 三柱鳥居の謎、続三柱鳥居の謎で、三井家と三柱鳥居の関係を追ってきたが三井家が木島社を祈祷所として再興した折今まであった木製の三柱鳥居を石製に建て直し寄贈したものである事は間違えないが三井家と三柱鳥居の接点はそこまでで、謎は振り出しに戻ってしまった。不思議なのは、これだけ奇異な鳥居であるにも関わらず詳細が不明なのが自分には、納得いかない。隠匿せねばならないような事実でもあったのだろうか?それが故に関連文書は、全て破棄され真相は闇に葬られてしまったのだろうか。では、誰が何を隠匿したかったのだろうか? 歴史はいつでも都合のいいように解釈されるが謎はまた深まるばかりである。

関連URL: 三柱鳥居の謎 三柱鳥居の謎 追跡調査 続三柱鳥居の謎(改)

写真提供(C) ZOUさん・三柱鳥子様

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