2005年1月10日
2005年の年頭にあたっておもうこと〜早くも成人の日を迎えて・・・〜
自然災害の多発した昨年末、止めを刺すかのようにスマトラ沖地震による大津波で、15万人以上もの人命が奪われました。命を落としたり、孤児になってしまった子どもたちはもとより、顔も判別できないほど傷んだ母親の遺体を確認した子どもの心の痛みを思うとなんともやりきれない思いで迎えた新年となりました。
★昨年も多くの子どもたちが悲しみの中に放り込まれました。自然災害だけでなく、戦争や飢餓、貧困など大人の社会が押し付ける災厄、虐待や犯罪といった直接の被害を受けることもあります。
『国連子どもの権利条約』について、「食べる心配もない、教育も十分に受けられる日本の子どもたちには関係のないもの」という人たちがいます。本当にそうでしょうか。この条約はすべての子どもに生きる意味と価値があり、その生存と成長におとなが責任を持つことを保障するものです。私には、現在の日本で子どもを自立した社会人に成長させる機能が果たせているとは思えません。
今、学習も労働もしない「ニート」と呼ばれる若者が57万人もいると言われ、厚生労働省は『ニート対策』を来年度予算に要求しました。長引く不況の中で、安心して働ける職場環境を保障することなく、フリーターやアルバイトしてしか若者を雇おうとしない社会の側にもニート発生の責任はないのでしょうか。
★学校教育の現場でも、学力低下の懸念から学力向上の対策が始まっていますが、勉強したり知識を身に付けることが「将来役に立つ」ということしか言えない親や教師では本当の教育はできません。教育が立身出世のためだったころの多人数の一斉学習から、一人一人の学びを大切にする学習方法に変えなければ、たとえ学力そのものは向上しても子どもの全人的な発達は望めないと考えます。
★政治の世界でも少子化問題を懸念して対策に力をいれていますが、年金の空洞化や社会保障などおとなの側の都合からの発想で、ただ出生率を上げたい施策だけでは本当の解決にはなりません。未来を担う子どもたちが将来に希望を持てるような社会の姿を示し、その第一歩を記すことが政治の役割だと考えます。
さあ、今日の成人式でどんな新成人に会えるでしょうか。そして、彼らを迎える私たちおとなが、自立した市民として彼らの目に映るでしょうか。