瑞泉寺 (ずいせんじ)



 鎌倉には‘谷戸‘と呼ばれる山襞に沿った細い谷が幾つもあり、その谷合に作られた曲がりくねった山間の細い道を進むと、最奥の小高くなった山裾の深い緑の中に、ひっそりとお寺が佇んでいます。紅葉谷の奥にあるこの瑞泉寺もその一つ。バスの終点の鎌倉宮からも大分離れているので土日でも人影はまばらです。杉林に囲まれた長い参道は途中で左右に分かれ、積年により磨り減った急傾斜の石段を登ると、本堂・客殿・開山堂・地蔵堂が点在して建てられています。

 

 嘉暦2年(1327年)に禅僧夢想国師が開基し、足利基氏が中興し、室町期には鎌倉五山に次ぐ関東十刹の首位に列せられる程の大寺になりました。たしかに山域は広く、鎌倉市内でも高台にあるため、遠く富士山も眺めることが出来ます。本堂裏手には夢想国師作庭による枯山水のお庭が広がるのですが、京都の禅寺とは一味違う石切り場のような眺めは、冬ざれた枯れ寂びしい趣があります。緑陰が濃く、季節の花が咲き誇る前庭とのコントラストが、禅の境地を伝えるものなのでしょうか?

 

 うら寂しい石庭の左手の崖下に墓地があります。谷戸の一番奥にあたる所で、三方は崖になっています。この一番最奥に幾人かの著名人の墓があります。

 名優志村喬のお墓もその一つ。志村喬と言えば黒沢明監督の幾多の名作で重要な役回りを演じ続けていた俳優ですが、特に「七人の侍」の総大将が良く知られています。どちらかというと主役を張るというタイプではなく、脇で重厚な演技により作品を支えるといったスタイルの俳優でした。
 元々俳優を志したのも遅く最初に映画俳優になったのも30歳になってから.。その後映画会社を転々とし長い下積みの後、東宝で黒沢明監督の「一番美しく」に出演したのが39歳の時でした。戦後東宝争議によりスター達が移籍したため、会社にはスターがいなくなり、三船敏郎や久我美子などのニューフェイスと共に渋みの利いたベテランが重用されるようになり、また戦後の民主化運動の高揚が反映された社会的リアリスティックな作品が多く作られ、元来がプロレタリアートの画家だった黒沢監督にすると、美男ではないどこか茫洋でありながら苦汁にみちたその風貌が、庶民生活を描くのにはまさにうってつけの人材だったのでしょう。
 小津安二郎監督と笠智衆との関係同様に、黒沢監督と志村喬との関係も同じく、世間の荒波を潜り抜けてきた人生の年輪を感じさせる名優によって代弁されています。あの「酔いどれ天使」や「生きる」における人生の不器用さを表現した慈しみ深い訥々とした演技は、何か心に深く刻印されるものがあります。
 この墓域には他に作家立原正秋の墓があります。それと道場六三郎の墓も。あれ?何ででしょ?

 

 境内は花の寺としても知られていて、春夏秋冬様々な花々が彩り豊かに咲き並びます。特に2月の梅と12月の水仙が有名です。初夏の紫陽花や桔梗も素敵で可憐な姿で楽しませてくれます。

 



 「瑞泉寺」
  〒248-0002 神奈川県鎌倉市二階堂710
  電話番号 0467-23-3050
  拝観時間 AM9:00〜PM5:00