増上寺 (ぞうじょうじ) 重要文化財



 徳川家歴代の将軍の霊廟が残るのが上野の寛永寺と芝の増上寺で、それぞれ江戸城の地勢的な重要ポイントして造られたお寺。なんでも風水によると江戸城に対して寛永寺が鬼門を、増上寺が裏鬼門を司っており、いわゆる魔除けとして造られた寺院です。寛永寺は上野の山と呼ばれるぐらいで砦のようでしたし、増上寺は東海道沿いで海に近く、有事の際の防御の要としても重要だったのでしょう。まあ護国寺や浅草寺など江戸城を取り囲むようにして大寺が開かれていますしね。
 先に官軍vs彰義隊でほぼ全焼しちゃった寛永寺に対して、昭和期までその広大な伽藍を見せていた増上寺もB29によりこちらもほぼ全焼し、残る建築物は三門や経蔵など数えるのみ。江戸建築の宝庫も戦争で何もかも失ってしまったわけです。

 

 最初から芝にあったわけではないようで、今の紀尾井町にそれも真言宗のお寺として開かれたようです。室町期の1385年(元中2年)に浄土宗へと改宗し、桃山期の天正年間に家康の帰依を得て徳川家の菩提寺となり、1598年(慶長3年)に当地へお引っ越しして来たようです。
 本堂・五重塔・開山堂・大方丈・大庫裏など壮大な伽藍が建ち並び、将軍家霊廟や東照宮が取り囲む広大な境内を誇っていましたが、空襲等により焼失し大幅に縮小されて、今では公園やホテルや東京タワーに変更し、寺域は往時の三分の一程度しかありません。
 その大伽藍当時の姿を彷彿とさせてくれるのが、一番手前にあった三門。諸堂と少し離れていたので延焼を免れたのでしょうね、創建当時の大型の三門で、「三解脱門」と呼ばれています。

 

  

 1622年(元和8年)に建立された二重門で、屋根が入母屋造りの本瓦葺となり、大きさは桁行5間奥行3間。両脇に山廊と繋塀を従えた本格的な禅宗寺院の三門形式で、全体に目にも鮮やかな朱漆塗りが施されています。
 基本的に禅宗様で組まれており、桟唐戸や花頭窓等の他に、軒の二重目が扇垂木で初重が平行垂木とするなど禅宗様の意匠が見られますが、構造部の組物で初重の三手先には尾垂木は付かず、また勾欄に和様が見られなど、禅宗様に和様が混在した意匠となっています。国重要文化財指定。

 

 この三門同様に戦災を免れた建物として経蔵があります。これも諸堂と離れていたことが焼け残った理由の一つですが、実は漆喰で覆われた土蔵造りで、耐火用にも万全だったこと。
 1613年(慶長18年)に創建され、1681年(天和元年)に改造移築し、1802年(享和2年)に現在地に移されています。屋根が宝形造りの本瓦葺で、四方に銅板の裳越を付けた白壁土蔵造り。内部に自由に回転出来る八角形の木造輪蔵を安置し、一切経を納めています。東京都有形文化財指定。

 

  

 徳川将軍家の霊廟群は、増上寺本坊の北側に六代家宣と七代家継の霊廟・墓所と、九代家重・十二代家慶・十四代家茂の墓所が、南側に二代秀忠の霊廟と墓所にお江の方の霊牌所がありましたが一部の門を除いて全て焼失しています。遺体は戦後に全て発掘されて桐ケ谷斎場で荼毘に付され、本堂裏手に御霊屋として一同に集められて宝塔の下に眠っています。

 

 

 各霊廟群はそれそれは壮麗な伽藍を見せていたようで、特に秀忠夫妻の霊廟は群を抜くものだったようです。日光東照宮と相前後して造営されたもので、将軍家が最も威光を強めていた時期ですし、装飾華麗な工芸品とも言うべき建築群であり、奥院宝塔は霊廟建築としては最高峰とも呼ばれる存在だったようです。

 

 

 こちらも門だけ焼け残り、台徳院(秀忠)霊廟惣門と有障院(家継)霊廟二天門がそのまま残されています。いずれも国重要文化財指定。台徳院霊廟の勅額門・御成門・丁字門は、西武グループが東京プリンスホテル用地買収の際にユネスコ村に移築し、今は狭山不動寺の所有になっています。

 

 三門を過ぎて左手に小さな水盤舎があります。これも霊廟群の遺構の一つで、三代家光三男綱重(清揚院)霊廟にあったもの。剥落が激しいのですが当時は華麗な装飾が施されていたのでしょう。

 

 この増上寺で一番の景観は本堂奥に聳える東京タワーでしょう。由緒正しき寺院と現代建築とのコラボ、そう言えば浅草寺でも東京スカイツリーを借景とする庭園が広がるので、いかにも大都会ならではの景観ということなのでしょうね。

 



 「増上寺」
  〒105-0011 東京都港区芝公園4-7-35
  電話番号 03-3432-1431
  境内自由