吉村家住宅 (よしむらけじゅうたく) 重要文化財



 大阪市近郊の羽曳野市に、民家建築としては最初に文化財の指定を受けた吉村家住宅があります。戦前の1937年(昭和12年)8月に当時の国宝保存法により国宝に指定された民家で、戦前では唯一、戦争中の1944年(昭和19年)に指定を受けた小川家住宅(二条陣屋)と共に二件しかない国宝の民家だった建物です。現在は戦後の1950年(昭和25年)の文化財保護法発足により国の重要文化財の指定に変わりましたが、民家建築というジャンルを代表する物件であることには変わりはありません。
 特筆すべき点として、その1600坪に及ぶ敷地全体も指定の範囲を受けており、宅地の裏側に広がる広大な山林や溜池も重要文化財。敷地は南に長屋門と土塀が配され、西側に土蔵が並びます。門や土蔵と主屋の間は白砂の前庭が広がりますが、大庄屋として代官所のような役目も兼ねていた為で、高札所も付設されています。

 

  

 吉村家は鎌倉期に当地に土着した佐々木高綱の子孫と伝えられ、桃山期には当地の百姓の筆頭として政所と呼ばれていた格式の高い家柄で、江戸中期には近在18ヶ村の大庄屋を務めた豪農でした。現在も吉村家は当地で大地主として健在で、この文化財に指定された屋敷の隣に今でも居住されています。
 長屋門の北側に長大なその姿を見せる主屋は江戸初期の建造と見られており、以前のものは大坂夏の陣(1615年)における羽曳山合戦の余波を受けて焼失したらしく、その直後に再建されたものと見られています。
 大きさは桁行41.2m奥行11.4mありますが、寛政年間(1789年〜1801年)に改造が行われてこの大きさに変わったようで、当初は桁行29.9mの長さで建造された茅葺屋根の住宅だったようです。大庄屋ともなると役人の迎賓用に専門の接客空間が必要となったらしく、式台付きの正統的な書院造の客座敷が西側に増築されて今見る姿となった模様。

 

 外観での大きな特徴はその屋根にあり、切妻造の茅葺と本瓦葺を段違いに並べた二重構造の形式で、「大和棟」と呼ばれる大和地方から河内地区に見られる独特のもの。茅葺と本瓦葺との傾斜が異なる為に、茅葺の妻側に本瓦葺を少し付けて壁に漆喰を塗って構造的に補強してあり、農家建築と町家建築の屋根が融合したような内容です。この大和棟が登場するのは江戸後期の18世紀後半からなので、武家階級に変わって豪商や豪農が力を持つようになった頃であり、その象徴として瓦葺が農家にも採用されていったという証でもあります。この吉村家も寛政年間の改造に際してこの大和棟に変更されたようです。
 またその屋根の秀麗さもさることながらその軒下の壁部の構成美も見事で、土壁の色をキャンバスとして柱・貫・窓・格子・大戸口等の様々なフォルムのパーツが幾何学的に配置されており、デ・スティルまたはキュービズム的なモダンな姿をみせています。

 

 内部は東半分が土間と納屋で、西半分が居室部と座敷部になります。土間は柱が省略され太い梁を渡して広い空間を造りだしており、高い天井は丸竹の簀子を張ったもので、屋根裏は土を盛って固めて物置として利用していたようです。
 居室部との境には「ヒロシキ」と呼ばれる板の間となり、その奥の居室部とは太い差鴨居と土壁で隔たれたやや閉鎖的な造りです。このあたりは寛政期の改造前の古い時期の手法が残されているらしく、茅葺屋根の整形四間取りによるプリミティブな住宅だった頃の名残です。

 

 

 またこの「ヒロシキ」の南側に天井から吊るされた畳二畳ほどの小部屋があり、この部屋へ登る為の梯子が壁面に取り付けられています。ここは女中部屋で、梯子には足掛りとして半月状の切り欠きがあり、デザインとして違和感なく周囲の風景に馴染んでいます。

 

 土間は作業場である「ウチニワ」と台所である「カマヤ」に分かれ、その境には煙が「ウチニワ」側に侵入しないように巨木を嵌めた煙返しがあります。ただ当主の話によると、以前はここは板壁があり、またカマヤには竈は無く、今は破却された北側に出っ張った箇所に竈があって、この「カマヤ」は物置代わりに使っていたとのこと。現在の建物は寛政期の状態に復元されているので、板壁を外して今見る状況になっているようです。その板壁に彫られてあった透かし彫りは衝立に改造され、「ヒロシキ」の上に置かれています。

 

 その「カマヤ」には復元された竈があります。上部は天井が無く屋根裏が丸見えで、煙出し用の櫓が屋根の上に乗っています。煙はまた「ウチニワ」の天井裏にも流れるようになっており、茅葺の虫除けの意味もあるようです。

  

 居室部は土間の南側から「デイ」「イマ」と並び、それぞれ北側に「オイエ」「ナンド」が続きます。寛政期の改造前はこの4部屋だけで構成されていたように、構造や意匠の面でも古さを感じさせます。まず各部屋の前面に1間ごとに柱が立ち袖壁が付くために開放部が少なく閉鎖的で、天井も土間同様に丸竹の簀子が張られています。「イマ」と「ナンド」との境に仏壇が付き、「デイ」の縁側には格子が嵌められて室内への採光を柔らかくします。非常にシンプルな意匠で、この奥に連なる座敷部とは対照的な内容。

  

 

 「イマ」「ナンド」の西側には「ゲンカンノマ」「ゲンカンザシキ」が並び、「ゲンカンノマ」には式台が付きます。寛政期の改造時に増築された箇所で、ここから西側は接客用になりますが、この二部屋は居室部とあまり変わらない意匠です。

 

 「ゲンカンノマ」の西側には「ツギノマ」「オクザシキ」が直列に並びます。居室部の質実剛健さとは一転して上質な書院造の部屋に変わり、周囲には庭園も広がります。
 この住宅が戦前に国宝の指定を受けていたのはこの座敷部の存在が大きく、当時は神社仏閣以外に茶室・書院の指定が相次いだ頃で、同時に奈良の今西家書院も指定を受けているように、優れた書院造の建物として指定を受けたようです。重文民家の指定を受けた初期のものは書院造の民家が多く、昭和20年代には降井家書院や小笠原家書院が指定を受けており、いわゆるフォークロア的な民家建築としての指定は高度経済成長期の昭和30年代以降に増えていきます。

 

 「オクザシキ」は9畳の広さに畳床の床の間が配され、花頭窓の付書院が付きます。長押は使われず、柱は面皮を用いたくだけた数寄屋風の造りで、「ツギノマ」との欄間には巴・木瓜・唐草・剣菱等の紋様による透かし彫りも入り、釘隠し・襖引手金具にも凝った細工を施すなど、農家としては破格の上質な意匠で構成されています。

 

 

 また「ツギノマ」の一角には茶立所があり、皮付丸太の中柱を備えた炉が切られ、低い竿縁天井に風炉先窓を設えるなど、本格的な茶室としての十分な機能を備えてあります。

 

 「ツギノマ」の北側は4畳による「サヤノマ」となり、西側には「オクザシキ」の広縁が続きます。縁側ではあるのですが、杉戸の絵や竹の濡縁に、軒先に開けられた様々な紋様による欄間はこれだけでも優れた造作を見せるもので、優れた接客空間の一部にもなっています。
 この座敷部の各意匠はどう見ても農家のものとは思えないほどのレベルの高いもので、京都の寺院における数寄屋風の書院(曼殊院・聖護院・大徳寺玉林院等)と同様の極めて質の高い瀟洒な住宅建築と言えます。
 現在は国の重要文化財の指定ですが、将来民家にも国宝の指定という話があった場合は、筆頭に掲げられる民家でしょう。

  

 



 「吉村家住宅」
   〒583-0881 大阪府羽曳野市島泉5-3-5
   電話番号 072-958-1111 (羽曳野市社会教育課)
   公開は毎年春秋に2日間ずつ 要予約