揚輝荘 (ようきそう) 名古屋市指定文化財



 名古屋に本拠地を置く松坂屋百貨店は紐解くとその歴史は桃山期の慶長年間にまで遡り、それも織田信長に仕えた小姓が創業者というまさに老舗中の老舗。江戸期には既に大店として知られる存在となり、明治期以降は東海銀行の設立を行うなど豪商として隆盛を極め、特に明治期の終わり頃から大正期にかけてが絶頂期だった模様で、この時期に経営者当主の別邸が市内東郊の覚王山地区に造営されています。敷地約一万坪に及ぶ大豪邸は建築・庭園共に贅を凝らした破格のスケールとクオリティの高い空間が広がっていましたが、空襲やGHQの接収によりズタズタにされ、またこの覚王山地区は市内指折りの高級住宅地ですから敷地跡に高級マンションが次々と林立してしまい、往時の面影は殆ど残されていません。現在は広大な敷地の北側と南側の一部が切り離された状態で保存され、名古屋市が所有し整備して北園・南園という形式で公開されています。本来は同じ庭園だったのですけれどね。

 

 この御屋敷を構えたのは伊藤家第十五代当主であり、松坂屋初代社長を務めた伊藤次郎左衛門祐民。代々受け継がれた「いとう呉服店」を株式会社化し、名古屋で初の百貨店を開いた人物で、往時の中京経済界のリーダーシップ的な存在でした。既に市内茶屋町に本邸を構えていましたが、政財界や外国人賓客向けに迎賓館を造営することになり、1918年(大正七年)に当地の土地を求めて次々と建築物や庭園の整備を進めて、完成したのがなんと19年後の1937年(昭和十二年)のこと。移築・新築された建造物は三十数棟を数え、その周囲を京都の修学院離宮を模したと云われる池泉回遊式の庭園が広がっており、その名も「揚輝荘(ようきそう)」と命名されています。なんでも月見の名所らしく、陶淵明の漢詩「春水満四澤 夏雲多奇峰 秋月揚明輝 冬嶺秀孤松」から採用されたとか。
 この豪邸内で中核となる二つの建物が、うまい具合に焼け残った北園と南園とにそれぞれ残されており、特に南園の聴松閣(ちょうしょうかく)はこの御屋敷のランドマーク的な存在でした。

 

 この揚輝荘は茶室を始めとして和風建築が圧倒的に多いのですが、この聴松閣は珍しく洋風建築で組まれており、それもハーフティンバーによる山荘風の外観です。園内では一番最後の1937年(昭和12年)に竣工された洋館で、桟瓦葺の切妻屋根をのせた木造三階地下一階建て。一階壁面には自然木を貼り二階以上には紅殻のモルタルを塗ったコントラストの強い外観で、非日常的な華やいだ社交場としての性格を強調されています。正面車寄せには虎の石像が。なんでも五世紀頃の中国産だとか。

 

 

 この建物は外観と一階は欧州の山荘風で意匠が統一されており、特に玄関には欅の一枚板が嵌められ、木枠には精緻な彫刻が施された重厚な造りのものです。

 

 玄関ロビーも木目調のハーフティンバーで構成されていますが、荒らしく手斧の跡を表面に残すナグリが施されたまさに山小屋風の造り。二階へ上がる階段ホールは吹き抜けていますが、その手摺にはサンスクリット語の透かし彫りが入れられており、これは施主がこの聴松閣建造直前にインドへ旅行した経験から。

 

  

 一階は玄関ロビーの奥に食堂が続いており、こちらも同様にハーフティンバーの内装ですが、造り込みの飾り棚には「いとう」の文字が嵌め込まれ、暖炉には施主が趣味で集めた発掘古瓦も嵌め込まれています。隣にはサンルームもあり。

 

 

 二階には私室が並びますが、車寄せ上にある施主の書斎はちょっと不思議な部屋で、一見すると英国風の落ち着いた佇まいが見られるものの、よく見ると天井は舟底と網代が使われた数寄屋風の意匠が入り、床も市松模様のプラスチックタイルが張られた和洋折衷の意匠。

 

 また同じ二階の応接室も英国風ではあるのですが、暖炉の横コーナーのソファ上に円窓があり、その周囲の壁クロスには南洋風のオウムの絵柄が入っています。これは施主のインド・東南アジア旅行が影響しており、この円窓は船室をイメージしたもので、暖炉のタイルも海を表現したものです。床のナラ材のフローリングも特殊な張り方で、緞通(どんすの敷物)をイメージした寄木細工のもの。

 

  

 その隣の寝室は一転して中国風の意匠が横溢しており、天井・壁・暖炉・床にこれでもかという程の中国趣味濃厚な空間が広がります。この部屋で落ち着いて夜寝られたのでしょうか?

  

  

 かようにエキゾチックなアジア趣味濃厚な建物ですが、特にその傾向が最も強く出ているのが地下室。階段を下りた先のホールには、インドのアジャンタ石窟にある釈迦生誕の壁画のコピーが描かれています。インド人留学生ハリハランの手によるもので、施主のインド旅行に同行した人物。釈迦誕生2500年にあたる1934年(昭和九年)にインド・東南アジアへの旅行を行うなど、仏教文化への造詣が深い御仁だった模様で、釈迦の骨を奉納している日泰寺に隣接した当地に、この御屋敷を構えたのも宣なるかなというところなのでしょうね。柱や梁には草花や葡萄をモチーフとする細かい図案の装飾が見られます。

 

 

 ここでユニークなのが、壁画のあるコーナーから下へ降りる細い階段があり、その奥に地下道が続いていることで、園内の茶室の一つとさらに途中で分岐する園内の別の入口へ繋がっていました。防空壕としても使われたそうですが本来の目的は不明だそうで、暴漢に襲われた際の秘密の抜け穴でしょうか?

 

 地下室のメインとなるのは舞踏場で、舞台も付いているのでちょっとした芝居や映画上映にも使われたのかもしれませんね。社交場として機能していたので、様々な催し物が夜な夜な開催されていたのでしょう。ここもインド・東南アジアテイストが濃厚で、重厚な柱が林立する神殿の様な造り。ソファのある南面の窓ガラスには、ヒマラヤの雪嶺が描かれたエッチングガラスが嵌め込まれています。

 

 

 柱の根元にはインドのアーグラ宮殿に見られる草花の模様が描かれ、色石も嵌め込まれています。暖炉の上にある石膏レリーフは、カンボジアのアンコールトムにある女神像の彫刻のコピー。

  

 この舞踏場の奥まった位置には壁面がタイル張りの小部屋があり、なんでも洗面所か瞑想室だったとのこと。クメール風の女神像が取り付けられています。

  

 南園はこの聴松閣以外では、渡り廊下で連なる揚輝荘座敷が残されています。これは移築建築物で、元は市内矢場町五ノ切の松坂屋本館敷地内にあった木造二階建ての和風住宅建築を、1919年(大正八年)に移築し改造したものです。現在は非公開。

 

 南園は枯山水の石庭が広がり、聴松閣と揚輝荘座敷はその庭園を室内から鑑賞するような構成となっていますが、北園は池泉回遊式の庭園が広がり、池の周囲に建築物を並べた構成となります。

 

 その北園の中核となる建築物は伴華楼。これも移築建築物で、1929年(昭和四年)に尾張徳川家から購入した和風住宅建築を移築して二階とし、一階にビリヤード場の遊戯室と応接室を増築した複合建築です。正面から見ると二階建てですが、傾斜地に建てられているので裏から見ると平屋建てに見えます。増改築の設計には名古屋大教授で建築家の鈴木禎次が担当し、命名の由来であるバンガロー風の外観を持ちながら、市松模様によるマントルピースの煙出しやサワラ材のうろこ壁にアールデコ風の玄関部など、モダンで洗練された意匠が随所に散りばめられています。

 

  

 内部も一階が当時流行のアールデコ様式を基本とし、違い棚や網代張りなど和風建築の意匠を融合させた和洋折衷の空間が見られます。二階には茶室もある純然たる数寄屋風建築。

 

 

 この北園の庭園は修学院離宮上御茶屋をモチーフとしており、池岸線の形状が浴龍池に少し似せてあります。その浴龍池に架かる千歳橋のコピーが白雲楼で、手彫りの白木擬宝珠や浴龍池に因む天井の龍の図案に特徴があります。まあ園内の風景を見て愉しむのに持って来いの建物ですけれどね。

 

 

 この白雲楼を渡ったすぐ先にあるのが三賞亭。園内で最初に移築された建築物で、1918年(大正七年)に茶屋町の本邸から運ばれたものです。伊藤家は代々松尾流に茶道を師事しており、この三賞亭も煎茶向けの茶室でした。煎茶なので炉は切られておらず、こちらもどちらかというと景観観賞用の休憩所のようですね。
 聴松閣・揚輝荘座敷・伴華楼・白雲楼・三賞亭はそれぞれ名古屋市指定文化財。

 



 「揚輝荘」
  〒464-0057 愛知県名古屋市千種区法王町2-5-17
  電話番号 052-759-4450
  開園時間 AM9:30〜PM4:30
  休園日 月曜日 12月29日〜1月3日