旧柳川家住宅 (きゅうやながわけじゅうたく) 重要文化財



 JR和歌山駅前からバスに乗り、住宅街の中をタラタラと15分ばかり進むと、紀伊風土記の丘という考古学・民俗学関連の博物館へ連れて行ってくれます。国の特別史跡に指定されている岩橋千塚古墳群を整備し保存公開している史跡公園で、65万uにも及ぶ広大な丘陵地のあちらこちら古墳が点在しているのですが、何しろ里山そのまんまなので季節によってはマムシが大繁殖してますから、足元には要注意!
 ところでこの博物館、古墳群の他に何故か県内の古民家を4棟ばかり移築しており、そのうち町家2件が入口資料館の側に建ち並んでいます。資料館から見て手前にあるのが旧柳川家住宅で、海南市の黒江地区の商家だった町家です。

 

 黒江は紀州塗で知られる漆器の里。海辺に近い町の中心部には運河が流れ、水の畔に大きな漆器問屋の町家が並び、その裏手に小さな職人たちの住まいが建て込む、独特の風情ある街並みが形成されていました。この柳川家はその運河沿いにあった漆器問屋のほうで、11代も続く江戸期には大庄屋も務めた老舗の商家でした。
 ここに移築された建物は江戸後期の1807年(文化4年)に建造されたもので、表通り側には木造二階建ての主屋を置き、鰻の寝床のような細長い敷地の背部に平屋の座敷部が延ばされ、中庭を挟んで土蔵造りの前蔵が並ぶ平面構成。この他にも浜蔵・大蔵が隣接する土地にありましたが、移築されませんでした。
 主屋の居室部は屋根が切妻造りの本瓦葺で、桁行10.6m奥行7.9m。座敷部が屋根が入母屋造りの桟瓦葺で、桁行9.8m奥行4.9m。座敷部は幕末期に増築されているので内容が異なります。主屋・前蔵ともに国の重要文化財指定。

 

 

 主屋のファサードには一・二階共に整然と出格子が並び京風の佇まいを見せますが、その格子自体は比較的粗く、外観自体の装飾性も希薄で、鄙びた農家風の素朴な印象があります。軒先を支えるせがい造りも農家建築に多く見られるもので、町家に農家の意匠が混入した地方都市ならではの住宅建築といえるのかもしれません。

  

 内部の居室部は、正面入り口から見て左側に土間が走り、右側に田の字型に各部屋を並べる四間取りの構成で、ここでも農家建築に近い内容です。土間は手前が「にわ」、仕切りの奥が「おくにわ」となり、「にわ」の部屋側は「みせ」として帳台が置かれて、商業施設としての店舗空間が整えられています。
 「おくにわ」には5つの竈と蒸釜があったそうで(今は無い)、部屋側は「だいどこ」となり、炊事場兼食堂として生活空間の中心だった場。天井は高く吹き抜けて力強い梁組を見せており、換気用の小窓を屋根に開けています。このあたりも農家風の佇まい。また天井近くに戸があるのですが、これは「にわ」の上にある使用人用の厨子で、ここへは梯子を掛けて昇ります。

 

  

 「みせ」の奥は「みせおく」、「だいどこ」の奥は「なんど」となり、「みせおく」の押入れに二階へ上がる階段が隠されています。二階がある為に天井は低く、壁が無いのでとても開放的で、床の間や付書院など気の効いたものは一切無い装飾性皆無の部屋が並ぶ姿はやはり農家建築を思わせるもので、洗練された町家の気配は微塵も感じられません。建築当時の当家の経済力か、はたまた当主の性格か、地域性などが関係しているのかもしれませんね。

 

 「なんど」の先に角屋式に延ばされた6畳の仏間を挟んで、9畳の座敷が並びます。こちらは矩折りに縁側を廻した格式高い書院造で、皮付丸太の床柱に天袋や凝った意匠の欄間など数寄屋風の設えとなり、明白に居室部とは異なる意匠で組み上げられています。当家の経済力の向上か、または当主が代替わりして趣味が変わったのか、はたまた武士階級の没落でお上からのお咎めが無くなったせいなのかはわかりませんが、一転してゴージャスな空間が造られたようです。表の顔は質素に、裏に回ると豊かな生活空間が広がる、町人階級ならではのしたたかな知恵もあるのかもしれません。

 

 



 「和歌山県立紀伊風土記の丘 旧柳川家住宅」
   〒640-8301 和歌山県和歌山市岩橋1411
   電話番号 073-471-6123
   開館時間 AM9:00〜PM4:30
   休館日 月曜日 12月29日〜1月3日