山形師範学校 (やまがたしはんがっこう) 重要文化財
山形市中心部の七日町四丁目界隈に、花小路と呼ばれる昭和レトロな飲み屋街があります。いわゆる三業地だった場所で、かつては芸者の置き屋もあった賑やかな夜の社交場だったのですが、今は平成不況にドップリ浸かって寂れに寂れまくり、やさぐれた風情が表現不能な濃いムードを熟成中。すぐご近所は県庁や地裁もある官庁街で、その庇を借りるような目と鼻の先に狭い路地がウネウネとカスバのように張りめぐらされており、アダルトレトロな物件がてんこ盛りで密集しています。表と裏の顔が密着している空間なのですが、面白いことにこの歓楽街のすぐ隣は寺町となり、墓場が延々と続く風景に変わります。この花小路と寺町界隈のすぐ北側は今度は文教地区に変わって、3つの高校と県立図書館や気象台が点在する静かな住宅街。花小路近くの宮殿のような文翔館も含めて隣接する地区のお互いの落差が異様に激しいのがこの山形市の特徴で、種々雑多のごった煮的な街歩きが面白い場所ではあります。
その閑静な文教地区には山形東高・山形北高・山形工高と県立の高校が密集しており、そのうち山形北高は音楽科以外は女子高という変則な県立高校。その山形北高校の旧校舎は数少ない明治期の学校建築として国の重要文化財の指定を受けており、山形県立博物館の別館として教育資料館に転身し公開しています。
ちなみに正門と門衛所も同様に国重文。
この山形北高校旧校舎は、1901年(明治34年)に建造された旧山形師範学校の校舎だったもので、戦後は山形大学教育学部と変わり、1963年(昭和38年)にキャンパスのお引っ越しがあって当地を去り、その後に山形北高校が転居してきて校舎として使用していたものです。その校舎も70年の苦役に耐えかねて改築することになり、正面棟部分以外は全て取り壊しとなって今に至るというわけです。
校舎の敷地面積は395uあり、屋根は切妻造りの桟瓦葺で、中央の櫛形部のみ鉄板葺。当初はコの字型の平面で、中庭を囲むように廊下が結ばれていましたが、改築時に正面棟以外は破却されています。明治期の学校建築というと擬洋風の様式が思い浮かびますが、この校舎が建築された時期は明治も大分下るので、純然たるルネサンス様式の洋風建築で組まれています。一見すると下見板張りに見えますが、竪瓦型の煉瓦を積んでその上からモルタルを下見板風に塗りあげたもので、防火にも優れた手の込んだ意匠の外壁部です。
中央玄関部を中心にシンメトリカルに構成されており、櫛形屋根の両側には可愛らしいドーマー窓が開けられ、玄関ポーチの屋根をペデスタル(洋風の台座)のある角柱で支え、軒下を仏像の装身具である瓔珞(ようらく)をデザインした飾りで覆うなど、装飾性の豊かな外観です。
また何といってもその中央部屋根にのった塔屋は印象的で、これは1878年(明治11年)に開校した当時の旧師範学校の時計塔を移築したという話。明治初期に山形県令(県知事)に就任した三島通庸がこの塔をのせた洋風建築を市内中心部に次々と造っており、往時を偲ばせる貴重な遺構なのかもしれません。白・赤・緑による色の配色も含めてその外観は寓話的なファンタジーを秘めており、ロマン主義的な香りも漂わせていたりします。
内部は一・二階共に玄関を中心に南北に廊下が走り、その西側に各教室が並ぶ構成で、廊下の両端に階段が付けられています。またこの階段が急傾斜で、長年の使用のせいか前傾に擦り減っており、滑落危険。
漆喰に腰板張りのオーソドックスな学校建築ですが、天井や床が斜めに張られており、筋交いにより強度を保つ手法だとか。外壁と共に構造上でも工法に優れた建物ということでもあります。ちなみに経済産業省の近代化産業遺産にも選定されています。
玄関二階はロビー風の小部屋。休憩室にでも使っていたのでしょうか?この部屋だけ窓がアーチ型となっており、特に玄関ポーチ側にはステンドグラスも嵌っています。ここで生徒達が三々五々和んでいたのでしょう。
「山形県立博物館 教育資料館」
〒990-0041 山形県山形市緑町2-2-8
電話番号 023-642-4397
開館時間 AM9:00〜PM4:30
休館日 月曜日 国民の祝日